久留米競輪場で開催された第10回国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びは桜井‐菅田の宮城に岡村,藤井‐南の近畿,竹内‐久米‐阿竹の中国四国で志村は単騎。
スタートは牽制となり,阿竹が取らされる形に。竹内の前受けとなり,4番手に桜井,7番手に藤井,最後尾に志村という周回に。残り3周のバックを過ぎると藤井が上昇開始。志村も続きました。藤井はホームで竹内に並び,誘導が退避したところで竹内も突っ張る構えをみせたものの,さらにスピードを上げた藤井が前に。後方になった桜井がバックから発進。打鐘からのかまし先行に。4番手に藤井,6番手に志村,7番手に竹内の一列棒状に。ホームの出口から藤井が発進。菅田は桜井との車間を開け,十分に引き付けバックで藤井が並んできたところから発進。岡村が被ってしまい続けず,藤井マークの南が菅田にスイッチ。結果的にこのライン追走のレースになった志村までの3人が抜け出す形に。直線では差は詰まったものの順位は変わらず,優勝は菅田。南が4分の3車輪差の2着で志村が4分の3車身差の3着。
優勝した宮城の菅田壱道選手は一昨年の大宮記念以来のグレードレース制覇でGⅢ3勝目。2009年6月に当地の記念競輪で優勝があります。この開催はGⅡが間近に迫っているため,GⅢとしてはやや弱体メンバー。しかも実績で上だった武田や村上が敗退したため,決勝はなお混戦模様になりました。菅田はメンバーの中では脚力上位で,同県の後輩の番手を得ましたから,ポジションとしては有利。それを生かしきって優勝に結び付けました。ただレースぶりとしていえば,車間を開けたのはよかったのですが,発進のタイミングはもう少し早い方が安全だったような気がします。
第四部定理四は,人間が自然の一部分Naturae parsでないことは不可能であるといっています。これはつまり,人間が自然に内在しないということ,いい換えれば人間が自然を超越することは不可能であるといっているのと同じです。内在の哲学が近藤の論調に対して有する最大の意義は,この,人間が自然を超越することは不可能であるという点にあるといっていいでしょう。そしてまたも注意を促せば,ここでいわれている人間とは,人間の身体humanum corpusだけを意味するのではなく,人間の精神mens humanaも意味しているのです。とくに人間の精神が自然を超越することは不可能であるということが,近藤の主張にとっては重要であるといっていいかもしれません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/34/4b18a4c69b7b8b185d0654eefd7f1357.jpg)
さらにいうと,この定理Propositioでいわれている自然というのは,必ずしも能産的自然Natura Naturansだけを意味するのではないのです。むしろここでいわれていることは,人間は所産的自然Natura Naturataの一部である,つまり,能産的自然に対して内在する所産的自然のさらに一部であるというように解するのが適切であるといえます。そしてこのことは,とくに人間の精神についていえば,第二部定理一一系でいわれていることと同じことだと解することができます。なぜなら,この系Corollariumでいわれている無限知性intellectus infinitusというのは,書簡六十四から,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態であると解さなければなりません。したがって無限知性は,第一部定理二一の様式で,思惟の属性を原因causaとして生起する様態modiです。よって第一部定理二九備考により,それは能産的自然には属さず,所産的自然に属するといわなければなりません。能産的自然に属するのはこの場合は神Deusあるいは同じことですが神の思惟の属性なのであって,それを原因として発生する様態の方は所産的自然であるからです。すなわち第二部定理一一系は,人間の精神は所産的自然の一部であるといっていることになります。もちろん人間の精神が能産的自然である神の思惟の属性に内在する思惟の属性の有限様態すなわち個物res singularisであることは間違いありません。しかしそればかりではなく,思惟の属性の直接無限様態という所産的自然である神の無限知性にも内在する,思惟の属性の個物なのです。
もう少し分かりやすく説明しましょう。
スタートは牽制となり,阿竹が取らされる形に。竹内の前受けとなり,4番手に桜井,7番手に藤井,最後尾に志村という周回に。残り3周のバックを過ぎると藤井が上昇開始。志村も続きました。藤井はホームで竹内に並び,誘導が退避したところで竹内も突っ張る構えをみせたものの,さらにスピードを上げた藤井が前に。後方になった桜井がバックから発進。打鐘からのかまし先行に。4番手に藤井,6番手に志村,7番手に竹内の一列棒状に。ホームの出口から藤井が発進。菅田は桜井との車間を開け,十分に引き付けバックで藤井が並んできたところから発進。岡村が被ってしまい続けず,藤井マークの南が菅田にスイッチ。結果的にこのライン追走のレースになった志村までの3人が抜け出す形に。直線では差は詰まったものの順位は変わらず,優勝は菅田。南が4分の3車輪差の2着で志村が4分の3車身差の3着。
優勝した宮城の菅田壱道選手は一昨年の大宮記念以来のグレードレース制覇でGⅢ3勝目。2009年6月に当地の記念競輪で優勝があります。この開催はGⅡが間近に迫っているため,GⅢとしてはやや弱体メンバー。しかも実績で上だった武田や村上が敗退したため,決勝はなお混戦模様になりました。菅田はメンバーの中では脚力上位で,同県の後輩の番手を得ましたから,ポジションとしては有利。それを生かしきって優勝に結び付けました。ただレースぶりとしていえば,車間を開けたのはよかったのですが,発進のタイミングはもう少し早い方が安全だったような気がします。
第四部定理四は,人間が自然の一部分Naturae parsでないことは不可能であるといっています。これはつまり,人間が自然に内在しないということ,いい換えれば人間が自然を超越することは不可能であるといっているのと同じです。内在の哲学が近藤の論調に対して有する最大の意義は,この,人間が自然を超越することは不可能であるという点にあるといっていいでしょう。そしてまたも注意を促せば,ここでいわれている人間とは,人間の身体humanum corpusだけを意味するのではなく,人間の精神mens humanaも意味しているのです。とくに人間の精神が自然を超越することは不可能であるということが,近藤の主張にとっては重要であるといっていいかもしれません。
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さらにいうと,この定理Propositioでいわれている自然というのは,必ずしも能産的自然Natura Naturansだけを意味するのではないのです。むしろここでいわれていることは,人間は所産的自然Natura Naturataの一部である,つまり,能産的自然に対して内在する所産的自然のさらに一部であるというように解するのが適切であるといえます。そしてこのことは,とくに人間の精神についていえば,第二部定理一一系でいわれていることと同じことだと解することができます。なぜなら,この系Corollariumでいわれている無限知性intellectus infinitusというのは,書簡六十四から,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態であると解さなければなりません。したがって無限知性は,第一部定理二一の様式で,思惟の属性を原因causaとして生起する様態modiです。よって第一部定理二九備考により,それは能産的自然には属さず,所産的自然に属するといわなければなりません。能産的自然に属するのはこの場合は神Deusあるいは同じことですが神の思惟の属性なのであって,それを原因として発生する様態の方は所産的自然であるからです。すなわち第二部定理一一系は,人間の精神は所産的自然の一部であるといっていることになります。もちろん人間の精神が能産的自然である神の思惟の属性に内在する思惟の属性の有限様態すなわち個物res singularisであることは間違いありません。しかしそればかりではなく,思惟の属性の直接無限様態という所産的自然である神の無限知性にも内在する,思惟の属性の個物なのです。
もう少し分かりやすく説明しましょう。
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