スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑲-19&神の認識

2025-02-10 11:41:00 | ポカと妙手etc
 ⑲-18の下図で先手が☗2八同玉と馬を取ると,後手は☖3六桂と王手をします。
                       
 先手玉の逃げ場所は3つ。☗3八玉は☖2九龍と取り,☗同玉は頭金。☗3七玉は☖2八龍と引いて☗2七玉の変化に合流します。
 その☗2七玉にも☖2九龍と取ります。合駒は無効なので☗3七玉か☗3六玉。☗3七玉が合流の変化でこれは☖2八龍☗3六玉☖2五金で詰み。
 ☗3六玉と桂馬を取っても☖2五桂☗3七玉☖3八金でやはり詰みです。
                       
 これで分かるように上図から☗3八玉と☗2七玉はわりと簡単に先手玉が詰んで後手の勝ちです。よって上図の先手の最善は☗3七玉になります。

 観点に相違があるとはいえ,両立はするのですから,それが何か重大な問題を引き起こすというようには考えなくていいと思います。ただ,現実的に存在する人間がDeusを十全に認識するcognoscereというとき,それがどのようなあり方をするのかということは,わりと重要なことなのではないかと僕は考えています。
 『エチカ』では,現実的に存在する人間は,神を十全に認識することができることになっています。このことはたとえば第五部定理二四でいわれていて,それはその通りだと僕も考えます。ただ,たとえばこの定理Propositioでいえば,個物res singularisの十全な認識cognitioが神の十全な認識に関連付けられているのですから,現実的に存在する人間が神の十全な認識に至るのは,現実的に存在するその人間が個物を十全に認識することを通してということになるでしょう。しかるに現実的に存在する人間が十全に,というか十全にであれ混乱してであれ,認識することができる個物というのは,物体corpusであるかそうでなければ物体の観念ideaであるかのどちらかです。したがって,物体という個物によって説明される限りでの神と,物体の観念という個物によって説明される限りでの神については現実的に存在する人間も十全に認識することになるでしょうが,それ以外の個物,要するに僕たちにとっては未知の属性attributumの個物によって説明される限りでの神は,この限りでは十全に認識されることにはなりません。第五部定理二四は,僕たちにとって未知の属性の個物を例にとって,その属性を対象とした思惟の属性Cogitationis attributumの知性intellectusを対象subjectumとしても,成立することになるだろうと僕は考えるconcipereのです。よってこのようにして現実的に存在する人間が十全に認識している神は,延長の属性Extensionis attributumによって説明される神および延長の属性を対象とした思惟の属性によって説明される限りでの神であって,絶対に無限な実体substantiaとしての神,無限に多くのinfinita属性によってその本性essentiaを構成されている神ではないと僕は考えます。いい換えれば,この定理に示されているような仕方で僕たちが神を十全に認識するということは僕は肯定するaffirmareのですが,だからといってその神は,絶対に無限な実体といわれている神ではないのではないかと僕は考えているのです。
コメント
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