『明暗』の主要な登場人物のひとりである小林は,自分の口からドストエフスキーの名を発しています。しかし僕は,この小説にこの人物が登場したことに関して,漱石とドストエフスキーの関係において,単にドストエフスキーから漱石が受けた影響のためであるとはいえないとしました。といいますのは,この小林には,それ以前の漱石の小説の中に,その前身と思えるような人物もいるからです。
僕がそのように考える人物のひとりは『それから』に出てくる平岡です。これはこの小説の主人公といえる代助に,妻である三千代を奪われる役回りの男。しかし今はこのことはあまり関係がありません。
平岡というのは新聞記者。この時代の新聞記者というのは,一般的にはあまりよい身分とは思われていなかったようです。この時代のエリートというのは今でいう公務員で,とくに国家公務員。漱石は大学教授を辞して朝日新聞に入社し,小説を書くようになったのですが,これは公務員を辞めて新聞記者になったということで,このこと自体が世間的には驚きだったようです。
漱石が平岡を新聞記者という設定にすることによって,貧民というイメージを喚起しようと意図していたかどうかは僕には分かりません。しかし,たとえそうした意図は漱石の頭のうちにはなかったのだとしても,平岡が小林の前身といえるのではないかと僕には思える,さらに別の理由もありますので,次回はその点を説明することにしましょう。
それではこのように規定された尿意という観念の性質がどのようなものであるのかということを考えていきます。性質といってもそんなに難しいことではありません。要するにこれは,このように規定された尿意というのは,ある人間の精神のうちにあって,十全な観念であるのか,それとも混乱した観念であるのかということを探求するだけのことです。
実は『エチカ』によると,これは十全な観念と解釈できる余地もあるし,混乱した観念であると考える余地もあると僕には思えます。そこでまず,それぞれの解釈の根拠を各々示しておくことにします。
第二部定理一二によれば,ある人間の身体のうちに生じることは,その人間の精神によって認識されることになっています。当該箇所では知覚といわれていますが,これが十全な観念を意味しなければならないことは,この定理のスピノザによる証明が第二部定理九系に訴えていることから明らかです。しかるに,膀胱に尿が溜まるという現象は,身体の中に生じることですから,これに依拠すれば,尿意は十全な観念であるということになるでしょう。
一方,第二部定理一七の仕方で人間の精神のうちにある観念,この場合には表象像が生じるとき,この表象像は混乱した観念です。膀胱にたまる尿に関して,それを外部の物体というのは語弊があるかもしれませんが,ではそれがある人間の身体の一部を構成するという意味において身体の内部の物体であるかといえば,これはそうともいいきることはできないわけで,するとこの定理に依拠することもできます。そしてこう考えるなら尿意という観念は混乱した観念であるということになります。
十全な観念であろうと混乱した観念であろうと,同様に意志作用を含みますので,観念と意志との関係では大して問題にはならないかもしれませんが,一応は僕の判断を示しておくことにします。
僕がそのように考える人物のひとりは『それから』に出てくる平岡です。これはこの小説の主人公といえる代助に,妻である三千代を奪われる役回りの男。しかし今はこのことはあまり関係がありません。
平岡というのは新聞記者。この時代の新聞記者というのは,一般的にはあまりよい身分とは思われていなかったようです。この時代のエリートというのは今でいう公務員で,とくに国家公務員。漱石は大学教授を辞して朝日新聞に入社し,小説を書くようになったのですが,これは公務員を辞めて新聞記者になったということで,このこと自体が世間的には驚きだったようです。
漱石が平岡を新聞記者という設定にすることによって,貧民というイメージを喚起しようと意図していたかどうかは僕には分かりません。しかし,たとえそうした意図は漱石の頭のうちにはなかったのだとしても,平岡が小林の前身といえるのではないかと僕には思える,さらに別の理由もありますので,次回はその点を説明することにしましょう。
それではこのように規定された尿意という観念の性質がどのようなものであるのかということを考えていきます。性質といってもそんなに難しいことではありません。要するにこれは,このように規定された尿意というのは,ある人間の精神のうちにあって,十全な観念であるのか,それとも混乱した観念であるのかということを探求するだけのことです。
実は『エチカ』によると,これは十全な観念と解釈できる余地もあるし,混乱した観念であると考える余地もあると僕には思えます。そこでまず,それぞれの解釈の根拠を各々示しておくことにします。
第二部定理一二によれば,ある人間の身体のうちに生じることは,その人間の精神によって認識されることになっています。当該箇所では知覚といわれていますが,これが十全な観念を意味しなければならないことは,この定理のスピノザによる証明が第二部定理九系に訴えていることから明らかです。しかるに,膀胱に尿が溜まるという現象は,身体の中に生じることですから,これに依拠すれば,尿意は十全な観念であるということになるでしょう。
一方,第二部定理一七の仕方で人間の精神のうちにある観念,この場合には表象像が生じるとき,この表象像は混乱した観念です。膀胱にたまる尿に関して,それを外部の物体というのは語弊があるかもしれませんが,ではそれがある人間の身体の一部を構成するという意味において身体の内部の物体であるかといえば,これはそうともいいきることはできないわけで,するとこの定理に依拠することもできます。そしてこう考えるなら尿意という観念は混乱した観念であるということになります。
十全な観念であろうと混乱した観念であろうと,同様に意志作用を含みますので,観念と意志との関係では大して問題にはならないかもしれませんが,一応は僕の判断を示しておくことにします。
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