郷田真隆棋王への挑戦者を決定する第38期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負の第一局は昨日の対局でした。対戦成績はトーナメントを勝ち上がった渡辺明竜王が22勝,敗者復活を果たした羽生善治三冠が19勝。
振駒で羽生三冠が先手となり相矢倉。先手が銀損の攻め。このあたりは前例通りで,先手が新手を放って未知の戦いに突入しました。
7七で角の交換が行われた局面で,ここが勝敗を分けるポイントになったようです。実戦は△3三歩と打ったのですが,△8六歩▲同歩としてから△3三歩としなければいけなかったとのこと。このタイミングでないとこの突き捨ては入らず,後手のカウンターが効果を発揮しない将棋になったようです。
とはいえ,突き捨てれば先手が入手した一歩で有効な手を指す可能性もあるということを視野に入れたならば,第1図で単に△3三歩と受けるべきなのか,突き捨てを入れてから受けるべきなのかは,かなりの時間を要しても読み切れそうもありません。実際に指してみなければ分からないというのが常識的な結論だと思えます。そういう意味では,終盤でも秒読みでもないのですが,後手にとって指運がなかったといえるような負け方であったような気がします。
羽生三冠が勝利しましたので挑戦権の行方は第二局に持ち越し。年明け7日に再戦です。
『スピノザという暗号』の中で田島正樹は,人間の精神を構成する観念の対象とはシニフィアンのことであり,人間の精神を構成する個々の観念はそのシニフィエであって,そのゆえに人間の精神がまさに人間の精神なるものとして成立するという場合には,このシニフィアンの総体が考慮されていなければならないという意味のことを主張しています。
僕の母が小脳出血からリハビリを開始できるまでに至ったとき,僕は母の身体機能の回復に関しては割合と楽観視していました。それはスピノザ哲学における身体の可塑性という考え方があったからです。その身体の可塑性について言及するときに触れた「スピノザ的スピノザ」という論文でも田島は,僕にはほぼ同様の意味に読解可能なことを主張しています。したがってこれは田島の一貫した考え方であるといえるでしょう。
シニフィアンとシニフィエ,あるいは「スピノザ的スピノザ」の方に出現しているノエシスといった語は,現象学のいわば専門用語です。僕はソシュールは読んだことがあるという程度で,その哲学的成果に関して十分な知識を有してはいません。ですから田島がここでスピノザの哲学を現象学の用語で説明することの是非というものがまず判断できませんし,また仮にそれが是であったとして,この説明の仕方自体が妥当なものであるのかどうかということに関してはなおさら結論付けられません。なので僕はその方面からはここでは一切の言及を回避します。
ただ,この考え方が,第二部定理一二の解釈に関して,僕にひとつの大きなヒントになったということは事実なのです。というのも,確かに身体の中に起こることというのは何であるかを問うためには,その中に何かが起こるとされている身体そのものがどういったものであるのかということ,もっと正確にいうならその身体というものがスピノザの哲学の中においてどのようなものとして位置付けられているのかということの考察が不可避であるということに気付かせてくれたからです。そして僕はこの田島の言及はまず,『エチカ』でいえば第二部定理一九に該当するものと理解し,これもまた大きなヒントになったのです。
振駒で羽生三冠が先手となり相矢倉。先手が銀損の攻め。このあたりは前例通りで,先手が新手を放って未知の戦いに突入しました。
7七で角の交換が行われた局面で,ここが勝敗を分けるポイントになったようです。実戦は△3三歩と打ったのですが,△8六歩▲同歩としてから△3三歩としなければいけなかったとのこと。このタイミングでないとこの突き捨ては入らず,後手のカウンターが効果を発揮しない将棋になったようです。
とはいえ,突き捨てれば先手が入手した一歩で有効な手を指す可能性もあるということを視野に入れたならば,第1図で単に△3三歩と受けるべきなのか,突き捨てを入れてから受けるべきなのかは,かなりの時間を要しても読み切れそうもありません。実際に指してみなければ分からないというのが常識的な結論だと思えます。そういう意味では,終盤でも秒読みでもないのですが,後手にとって指運がなかったといえるような負け方であったような気がします。
羽生三冠が勝利しましたので挑戦権の行方は第二局に持ち越し。年明け7日に再戦です。
『スピノザという暗号』の中で田島正樹は,人間の精神を構成する観念の対象とはシニフィアンのことであり,人間の精神を構成する個々の観念はそのシニフィエであって,そのゆえに人間の精神がまさに人間の精神なるものとして成立するという場合には,このシニフィアンの総体が考慮されていなければならないという意味のことを主張しています。
僕の母が小脳出血からリハビリを開始できるまでに至ったとき,僕は母の身体機能の回復に関しては割合と楽観視していました。それはスピノザ哲学における身体の可塑性という考え方があったからです。その身体の可塑性について言及するときに触れた「スピノザ的スピノザ」という論文でも田島は,僕にはほぼ同様の意味に読解可能なことを主張しています。したがってこれは田島の一貫した考え方であるといえるでしょう。
シニフィアンとシニフィエ,あるいは「スピノザ的スピノザ」の方に出現しているノエシスといった語は,現象学のいわば専門用語です。僕はソシュールは読んだことがあるという程度で,その哲学的成果に関して十分な知識を有してはいません。ですから田島がここでスピノザの哲学を現象学の用語で説明することの是非というものがまず判断できませんし,また仮にそれが是であったとして,この説明の仕方自体が妥当なものであるのかどうかということに関してはなおさら結論付けられません。なので僕はその方面からはここでは一切の言及を回避します。
ただ,この考え方が,第二部定理一二の解釈に関して,僕にひとつの大きなヒントになったということは事実なのです。というのも,確かに身体の中に起こることというのは何であるかを問うためには,その中に何かが起こるとされている身体そのものがどういったものであるのかということ,もっと正確にいうならその身体というものがスピノザの哲学の中においてどのようなものとして位置付けられているのかということの考察が不可避であるということに気付かせてくれたからです。そして僕はこの田島の言及はまず,『エチカ』でいえば第二部定理一九に該当するものと理解し,これもまた大きなヒントになったのです。
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