昨日は第59期王座戦挑戦者決定戦も指されました。対戦成績は渡辺明竜王が6勝,久保利明二冠が11勝。
振駒で渡辺竜王が先手となり,久保二冠のごきげん中飛車③▲4八銀。互いに銀を繰り出した後,相穴熊に組み合いました。

先手から仕掛けて銀交換となり,後手が4二の角を飛び出したところ。ここで先手は▲2二銀と打ってと金作りを目指しにいきました。△6一飛は仕方がないところ。先手は▲3三歩成とし,これは△同桂と取られたものの▲同銀不成でまずは桂得。△5六歩▲同歩△5八歩に▲5四桂。△5九歩成▲4二銀成△5八銀▲6八金引。後手は攻めを繋げるために△4二角と取り▲同桂成。これで角桂と銀の交換。後手は△6七銀打(第2図)と繋いでいきましたが,さすがに駒損が大きかったよう。この後も駒得を拡大していった先手が反撃に転じ,快勝となりました。

第1図の▲2二銀のような手というのは,とんでもないところを攻めているので緩手となる可能性もありますが,この将棋の場合には好手でした。渡辺竜王が挑戦権獲得。この棋戦では圧倒的な強さを誇る羽生善治王座ですが,渡辺竜王ならばその牙城を崩すことも可能なのではないかと思います。第一局は9月7日です。

続いて,今回のテーマの中で何を考えていくのかということを,具体的に説明しておきます。
そもそも今回の考察の契機となったのが,第一部定義四の考察の中で,スピノザの哲学の能動と受動,とりわけ人間精神の能動と受動ということをどのように考えるべきであるのかという課題が発生したことでした。ですから当然ながら,この考察の主題というのはそのことになります。ただし,この考察はこの考察として,それ単独でも成立するということを目指していますから,まず最初に,僕がこのことをどのように理解しているのかということを提示することになるでしょう。もちろん,それは単に結論の部分だけを提示するという意味ではありません。僕がそのように理解するのには,そのように理解するだけの根拠というものが存在するわけですから,その根拠も同時に示していくということになります。したがってその部分に関しましては,前回の考察とはあまり関係がないということになります。
一方,第一部定義四に関係するマシュレの分析をどのように考えるべきであるのか,あるいはそれを僕はどのように理解しているのかということについては,僕自身の結論を出した後で考察することにします。とりわけ,僕自身は,僕とマシュレの考え方との間には深い谷があると考えていますが,その深い谷というものは埋めることができるような性質のものであるのかどうか,あるいは,仮にそれが完全には埋めることができないものであるとしても,どの程度まで埋めることが可能になるのか,いい換えるなら,人間精神の能動と受動ということに関して,どこまで僕とマシュレとの間で共通の認識を得ることができるのかということが,この部分の考察の主題となっていくことでしょう。そしてそのためには,おそらく人間精神による事物の認識の仕方というのを具体的に考えていく必要が出てくることになるだろうと思います。そもそもマシュレは,人間精神による能動および受動について,それ自体を存在しないものと否定しているわけではありませんから,こうした考察によって,部分的にではあれ,必ずや一致点を見出すことができるだろう,あるいはできなければおかしいと思っています。
このように,やや異例ではありますが,今回の考察にはふたつの主題が混在しているとお考えください。そしてそれはいずれも,テーマである第三部定義二に関連しているということになります。
振駒で渡辺竜王が先手となり,久保二冠のごきげん中飛車③▲4八銀。互いに銀を繰り出した後,相穴熊に組み合いました。

先手から仕掛けて銀交換となり,後手が4二の角を飛び出したところ。ここで先手は▲2二銀と打ってと金作りを目指しにいきました。△6一飛は仕方がないところ。先手は▲3三歩成とし,これは△同桂と取られたものの▲同銀不成でまずは桂得。△5六歩▲同歩△5八歩に▲5四桂。△5九歩成▲4二銀成△5八銀▲6八金引。後手は攻めを繋げるために△4二角と取り▲同桂成。これで角桂と銀の交換。後手は△6七銀打(第2図)と繋いでいきましたが,さすがに駒損が大きかったよう。この後も駒得を拡大していった先手が反撃に転じ,快勝となりました。

第1図の▲2二銀のような手というのは,とんでもないところを攻めているので緩手となる可能性もありますが,この将棋の場合には好手でした。渡辺竜王が挑戦権獲得。この棋戦では圧倒的な強さを誇る羽生善治王座ですが,渡辺竜王ならばその牙城を崩すことも可能なのではないかと思います。第一局は9月7日です。

続いて,今回のテーマの中で何を考えていくのかということを,具体的に説明しておきます。
そもそも今回の考察の契機となったのが,第一部定義四の考察の中で,スピノザの哲学の能動と受動,とりわけ人間精神の能動と受動ということをどのように考えるべきであるのかという課題が発生したことでした。ですから当然ながら,この考察の主題というのはそのことになります。ただし,この考察はこの考察として,それ単独でも成立するということを目指していますから,まず最初に,僕がこのことをどのように理解しているのかということを提示することになるでしょう。もちろん,それは単に結論の部分だけを提示するという意味ではありません。僕がそのように理解するのには,そのように理解するだけの根拠というものが存在するわけですから,その根拠も同時に示していくということになります。したがってその部分に関しましては,前回の考察とはあまり関係がないということになります。
一方,第一部定義四に関係するマシュレの分析をどのように考えるべきであるのか,あるいはそれを僕はどのように理解しているのかということについては,僕自身の結論を出した後で考察することにします。とりわけ,僕自身は,僕とマシュレの考え方との間には深い谷があると考えていますが,その深い谷というものは埋めることができるような性質のものであるのかどうか,あるいは,仮にそれが完全には埋めることができないものであるとしても,どの程度まで埋めることが可能になるのか,いい換えるなら,人間精神の能動と受動ということに関して,どこまで僕とマシュレとの間で共通の認識を得ることができるのかということが,この部分の考察の主題となっていくことでしょう。そしてそのためには,おそらく人間精神による事物の認識の仕方というのを具体的に考えていく必要が出てくることになるだろうと思います。そもそもマシュレは,人間精神による能動および受動について,それ自体を存在しないものと否定しているわけではありませんから,こうした考察によって,部分的にではあれ,必ずや一致点を見出すことができるだろう,あるいはできなければおかしいと思っています。
このように,やや異例ではありますが,今回の考察にはふたつの主題が混在しているとお考えください。そしてそれはいずれも,テーマである第三部定義二に関連しているということになります。