スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典報知新聞社杯エーデルワイス賞&内在性からの帰結

2011-10-13 20:30:36 | 地方競馬
 珍しくJRA2勝馬が参戦してきた第14回エーデルワイス賞
 好発は外枠各馬でしたが内からフリスコベイの逃げに。すぐ外にユカナ。アイアムネフライトやジョウノソナタといった好発の外枠勢はその後を追う展開となりました。前半の600mは35秒5のハイペース。
 人気のシェアースマイルは持ったままで好位の外を追走。3コーナーを回ると外から捲るように上がっていきましたが,捲りきるまでには至らず,4頭が雁行で直線に。しかしまだ余裕があったシェアースマイルが内の3頭を交わして抜け出し優勝。ハイペースに乗じてシェアースマイルの外を差しこんできたシーキングブレーヴが2着。大外を回ったロクイチスマイルも3着に届きました。
 優勝したシェアースマイルはデビュー戦を逃げ切ると2戦目は出遅れたものの直線一気の追い込みを決めて2連勝。現時点ではかなりの能力を示していました。今日は枠入りをかなり嫌がって,いささかの不安も感じさせましたが,レースでは関係なかったよう。ここもこれまでとは違ったレースで3連勝ですので,この後,どの程度まで成長してくれるか楽しみな素材だと思います。それなりの分枝を持つ一族の出自で,最近の重賞勝ち馬は2003年の札幌2歳ステークスを勝ったモエレエスポワール。シェアースマイルの近親としては,重賞は勝てませんでしたが中央オープンで2勝,新潟3歳ステークスでは2着に入った高崎のタマルファイターが伯父にいます。
 騎乗した丸山元気騎手はそのタマルファイターの主戦であった丸山候彦[よしひこ]騎手の子息。北海道2歳優駿は初勝利。管理している栗田徹調教師はこれが重賞初制覇となりました。

 自己原因と原因との間で考えられなければならない関係に,第一部定理一八で示されていることを加えるなら,今度は次のことが出てきます。
 自己原因として実在する神ないしは絶対に無限な実体は,自然のうちに実在する,あるいは実在し得るものに対して内在的原因です。よって,自己原因の変状として考えられるべき原因と結果が別のものについても,原因は結果に対して原則として内在的原因でなければならないということになります。このこと自体は,第一部定理一八証明のうちに,一切の超越的原因の排除ということが実際には含まれているということからも明らかであるといえるでしょう。また,第一部公理四において,結果の認識が原因の認識だけに依存し,ほかのもには依存しないということの理由も,原因というのが内在的原因であるからだといえると思います。もしも結果というものが原因とされるものの超越的外部に発生するのであるなら,少なくとも単にその原因を認識しただけで結果を十全には認識できないような場合もあり得ると考えることができるからです。
 ところで,もしもあらゆる原因というものが内在的原因であるのならば,結果は必然的に原因のうちにのみ生じ,その外には生じないということになります。すると,もしもある人間の本性を構成する限りで神のうちにあるある観念が原因となって何らかの結果が生じるのであれば,この結果もまたその人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにあるのでなければなりません。もしもこの結果がその人間の精神の本性を構成するとともに何かほかのものの観念を有する限りで神のうちにあるということになれば,それは結果が原因に内在していない,いい換えれば神と関連付けられた原因が内在的原因ではないということになってしまうからです。
 ところが,ある人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにある観念が原因となる場合のみが,この人間の純粋な思惟作用を意味することができるのです。よって純粋な思惟作用によってその人間の精神のうちに発生するあらゆる観念は,その人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにある観念,いい換えればその人間にとっての十全な観念であるということがここから帰結します。
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ハイセイコー記念&第一部定理一八証明

2011-10-12 20:45:25 | 地方競馬
 全日本2歳優駿のトライアルに設定されている第44回ハイセイコー記念
 好発はツクバワンでしたが,枠順の関係もあって先手を奪うには至らず。内からメッシが逃げることになり,その外にドラゴンシップ。インにアイキャンディが控え,その外がガトリング。オゼキングも上がってツクバワンはその後ろに。最初の800mは50秒5。メッシはかなり抑えているように見えましたが,ミドルペース。
 2コーナーでガトリングが外から3番手となり,そのまま3コーナー。ここからドラゴンシップが外からメッシに並び掛け,ガトリングがさらにその外に行って3頭が雁行。直線に入るとほどなくメッシが一杯。さらにガトリングも力尽き,追い上げてきたのは外からダイヤモンドダンスで,内からは一旦は控える形になったアイキャンディ。迫ってはきたのですが,頑張ったドラゴンシップが優勝。アイキャンディが2着で3着にダイヤモンドダンス。
 優勝したドラゴンシップは7月に新馬を勝った後,2着,3着。前走が大井への遠征で,その経験が生きたといえそう。ここは主戦の戸崎騎手がガトリングに乗っていましたが,牝馬ながら果敢に挑戦してきて正解だったということでしょう。東京2歳優駿牝馬に進むのであれば,そこでも有力だろうと思います。父はクロフネ。曾祖母はクイーンカップを勝ち,エリザベス女王杯ではメジロラモーヌの2着になったスーパーショット
 お鉢が回ってきた大井の御神本訓史[みかもとのりふみ]騎手は3月の東京スプリング盃以来の南関東重賞制覇でハイセイコー記念は初勝利。管理している船橋の川島正行調教師2008年以来の2勝目です。

 第一部定理一八は,単にそれを名目的に理解するだけであれば,第一部定理一五から帰結していると僕は考えます。なぜなら,存在するものがすべて神のうちにあるということのうちには,存在するものすべてに対して神は内在的原因であるという意味が含まれていると思うからです。もちろん第一部定理一八のうちには,神やあらゆるものが実在するということがそれ自体では含まれていないと考えることが可能であると思いますが,上述の事柄に第一部定理一一第一部定理一六を加えるならば,第一部定理一八の実在的意味も完全に保証することができると考えます。
 よって第一部定理一八はこれだけで証明されていると僕は考えるのですが,『エチカ』におけるスピノザの証明は,これは定理の前半部分,すなわち神は内在的原因であるということの証明であり,後半部分,つまり神は超越的原因ではないということの証明ではないとして,さらに第一部定理一四を援用しています。僕からいわせればこの部分は余分です。なぜなら神が内在的原因であるということのうちには,すでに超越的原因ではないということが含まれていると思うからです。
 しかし,スピノザがわざわざそうした余計と思える事柄もここで証明したことには,理由を見出すことができます。つまり実在する実体が神だけであって,その神が内在的原因であるのであれば,単に神が超越的原因ではないということだけでなく,自然のうちにはいかなる超越的原因も存在しないということが証明できるからです。これはたとえば第一部定理一に訴えれば必然的に帰結するといえるでしょう。
 つまり,第一部定理一八は,単に神が内在的原因であるということだけでなく,自然のうちにはいかなる超越的原因も存在しないということを同時に示しているといえます。したがってここではあらゆる超越論的思考が斥けられているのだと考えることが可能だと僕は理解します。よって第一部定理一八というのは,スピノザが自分自身の哲学は徹底した内在の哲学であって,超越論を完全に否定するということを宣言しているような定理であると僕は考えます。
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新人王戦&第一部定理一八

2011-10-11 19:21:07 | 将棋
 東京に遠征して勝利した豊島将之六段が大阪に佐藤天彦六段を迎え撃つ形となった第42回新人王戦決勝三番勝負第二局。
 豊島六段の先手。佐藤六段が横歩取りに誘導し8四飛-5ニ王-5一金の形。先手は中住まいから1筋の位を取って角交換。後手がその1筋から逆襲し,一時的に香損に。長い中盤の末に第1図に。
                         
 ここで後手はようやく☖1五歩と香を取り返しました。手番を得た先手は☗7三歩成から攻撃開始。☖同銀に☗5三香不成と捨て☖同王に☗6五桂の王手銀取り。☖4二王に☗7三桂成と取りました。☗7三歩成とすればここまでは一直線に思えます。手が空きましたので後手の反撃。☖2八角成と飛車を取り☗同金に☖8五桂。先手は☗6八銀と逃げ,☖7六歩のときに☗6三成桂。☖7七歩成☗同金☖同桂成☗同銀まで進めて☖6一香(第2図)と受けました。
                         
 ここでは僕には☗5三銀と打つか☗5三角と打つほか思い浮かばないです。実戦は後者が選択されたのですが,ここ以降の棋譜から考えると,これで先手の攻めは切れていたようです。実戦は先手が粘ることもできず,後手の勝ちとなりました。
 佐藤六段が勝って1勝1敗。決着局となる第三局は24日です。

 ある人間の精神mens humanaの本性natura,essentiaを構成するとともにほかのものの観念ideaを有する限りで神Deusのうちにある観念が原因となって別の観念が結果として生じる場合,いい換えればある人間の精神の一部を構成している混乱した観念idea inadaequataが原因となって別の観念が結果として生じる場合には,これをこの人間の精神の純粋な思惟作用であるとはみなし得ないということに注意するならば,マシュレと僕との間にあるであろう相違点のうち,第一の場合というのが現実的には生じないであろうということは,今回のテーマでここまで詳しく考察してきたこと,とりわけ自己原因と原因との関係をスピノザの哲学においてどのように考えるべきであるのかということに,これもまたスピノザの哲学を独自のものとして特色づける要素のひとつであるといえる内在性の観点を導入することによっても説明することができると僕は考えています。そして考察の継続性ということを考慮に入れるならば,こちらの説明の方が,今回のテーマの中でこのことを説明する方法としてはむしろ相応しいのではないかと思います。
 ただし,スピノザの哲学における内在性という観点,これは別のいい方をするなら,一切の超越的な観点の否定ということになろうかと思いますが,このことについてはこれ以前の考察においてもあまり詳しく探求したことがありませんから,まずはそのことの意味を捕えておく必要があるでしょう。ここでは第一部定理一八を援用します。
 「神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない」。
 ここでいう内在的原因causa immanensというのは,その結果を自己自身の中に産出するような原因であり,超越的原因というのはそれとは逆にその結果を自己自身の外に産出するような原因のことです。これはスピノザの哲学に特有の術語ではなく,スコラ哲学で用いられている用語で,ここではスピノザもそこで用いられている意味に準じています。ただし,スコラ哲学でこのタームが用いられる場合とスピノザの哲学で使用される場合には大きな相違があります。スコラ哲学では神は超越的原因と規定されていますが,スピノザはここで内在的原因であるといっているからです。この意味において,内在性はスピノザの哲学を特色づけるひとつの要素となっているのです。
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農林水産省賞典マイルチャンピオンシップ南部杯&第一の場合

2011-10-10 19:02:30 | 中央競馬
 岩手競馬支援策のひとつとして,JRA主催で行われた第24回南部杯
 発走直後にロックハンドスターが右前脚を骨折して競走中止。エスポワールシチーが主張するようにハナを奪っての逃げ。トランセンド,バーディバーディ,ダノンカモンの3頭は離れずに追っていきました。前半の800mは46秒1でこれはかなりのハイペース。
 直線の入口まで前の4頭の隊列はほぼ変わらず。ここからトランセンドがエスポワールシチーに並び掛けていき,その外にダノンカモン。バーディバーディは脱落し,入れ替わるように追い上げてきたのが中団から外に出してきたシルクフォーチュン。一旦はダノンカモンが先頭に。ただ,かなり外にもたれるような仕種をして騎手も矯正に必死。その間隙を縫うような形で内からトランセンドが差し返して優勝。ダノンカモンが惜しい2着。最後はやや離れましたがシルクフォーチュンがエスポワールシチーを交わして3着。
 優勝したトランセンドフェブラリーステークス以来の大レース3勝目。ここは実力的にはエスポワールシチー以外には負けることが考えにくいメンバー構成。そのエスポワールシチーもかつての力を取り戻せないでいる近況なので断然の人気に推されたのは当然。こちらもドバイ帰りの休養明けで,その点は不安でした。相手の走行に助けられた面はあったと思いますが,苦しいところから差し返したのはこの馬の底力だと思います。祖母の兄に重賞2勝のサクラサニーオー。Transcendは英語で超越する。
 騎乗した藤田伸二騎手は天皇賞以来の大レース制覇で南部杯は初勝利。管理している安田隆行調教師はスプリンターズステークスに続く大レース制覇で南部杯はやはり初勝利。
                         

 考えられるこれらふたつの相違点のうち,第一の場合というのは実は相違点とはならないであろうと僕は考えています。なぜなら,そもそもこの第一の場合というのが,スピノザの哲学においては発生しないことになっていると思うからです。実際にそれが発生しないのであれば,そこが相違点として存在する筈がないのはきわめて当然のことです。なぜ僕がこの場合は発生しないと考えるのか,その根拠はふたつの観点から説明ができますので,順に行っていきます。
 まず,ある人間の精神による思惟作用というのがその人間の精神による純粋な思惟作用であると考えられるなら,この思惟作用の結果として発生するであろう観念に対してその人間の精神が第三部定義一における十全な原因であるということでなければなりません。これはそれ自体で明らかだと思います。つまり,ある人間の精神による純粋な思惟作用というのを,神と関係づけて考えるなら,このある人間の精神の本性を構成する限りでの神というのが,その十全な原因となっていると考えられるわけです。よって,ある人間の純粋な思惟作用によって何らかの観念が発生するなら,この人間の精神の本性を構成する限りでの神のうちにある何らかの観念を原因として別の観念が発生しているというように考えなければなりません。しかるに,第二部定理三二によりこれらの観念は真の観念でなければなりませんから,第二部定義四によって十全な観念でなければなりません。つまりこのことから,それがある人間の精神の純粋な思惟作用とみなし得るなら,この思惟作用によって混乱した観念が発生してくるということはないということになり,第一の場合は発生しないということになるのです。
 同じことは第二部定理四〇からもいえます。ある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでの神のうちから別の観念が発生するような思惟作用は,この人間の純粋な思惟作用とはみなし得ません。つまりある人間の精神を構成する限りで神のうちにある観念から別の観念が発生する場合のみが純粋な思惟作用です。そしてこれはこの人間の精神の一部を構成する十全な観念から別の観念が発生するということですから,第二部定理四〇により,結果の方もまたその人間の精神のうちで十全な観念であるということになります。
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銀河戦&相違点

2011-10-08 19:07:59 | 将棋
 先月末に放映された第19回銀河戦決勝。駒を進めてきたのは渡辺明竜王と糸谷哲郎五段で,対局日は8月26日。その時点での対戦成績は1勝1敗。
 糸谷五段の先手で角換り相腰掛銀。先手の4筋位取りに後手が6筋位取りで対抗。先手が4八に飛車を回り,4六に角を打ったところで後手が4筋を逆襲して位を取り返すと,先手はその代償に7筋の位を取って力将棋に。駒組の後,先手が1筋で香車を捨てて入手した1歩を使うという筋で仕掛け,これが機敏だったようで優位に立ちました。
                         
 ここで▲8八玉と入っても,後手からそうも有力な手段があったわけではなく,その方が先手は勝ちやすかったかもしれません。実戦は▲5五香と打って勝ちにいきましたが,これが混戦の素になったように思います。第2図に進みました。
                         
 ここは▲8二飛と打ち,△4一歩なら▲4四香といった具合に攻めていくのが有力と思っていましたが,▲5一飛とこちらに打ち,△4一金打に▲5四飛成と銀を取りました。後手が△4七成銀と取り返したのに▲2四歩。対して△7六桂が入ったのが大きなところ。▲2三歩成△同王▲2四歩△1四王に▲5九角と打ちました。僕はこの手はまったく思いつきませんでしたが,渡辺竜王も解説の郷田真隆九段も好手と評していて,糸谷五段が才能をみせたところ。△2九飛と打って第3図。
                         
 ここで▲3四龍とすれば後手玉はほぼ受けなし。対して先手玉は詰みません。ただ△8八銀▲同金△6八桂成▲同玉△5九飛成▲同玉△4八角▲6八玉△5七成銀▲7七玉△6七成銀ときたときに,上に逃げると8五に出たときに△5二角,取って下に逃げると4九に来ると△1六角という王手龍取りの筋があり,これが読み切れなかったので第3図で▲2六香と打ちました。ただこの先は先手に勝ちがなかったようです。
 逆転で渡辺竜王の優勝。第15回以来となる3度めの銀河戦優勝でした。

 ここまで,どういった具体的な人間の精神による事物の認識についてそれを能動とみなしまた受動とみなすのかということについて,その根拠の相違はどうあれ,マシュレと僕との間で一致が図れるかを検討してきました。そしてこの検討の結果として,どういった場合には一致が図れなくなるのかということも,同時に明らかにすることができたのではないかと僕は思っています。
 なぜなら,ある人間の精神の思惟作用に関して,それが純粋な思惟作用とみなし得るならばマシュレはそれを能動と規定し,この条件から反するものに関してはすべて受動と規定することになるとしてみます。一方,僕はそれがこの思惟作用が十全な観念であるならそれを能動と考え,混乱した観念である場合には受動と考えるのです。そこで,もしもそれが人間の精神による純粋な思惟作用とみなし得る場合には必然的に十全な観念が発生し,そうでない場合には必然的に混乱した観念が発生するのであれば,実のところマシュレと僕との間には何らの相違も存在しないということになります。したがって,もしもマシュレと僕との間で,人間の精神の能動と受動に関して,一致をみることができなくなってしまう場合があるとしたら,それは以下のふたつの場合に限られるということになります。
 第一の場合は,明らかにそれがその人間の精神の純粋な思惟作用であると考えられる場合に,この結果として混乱した観念が発生するという場合です。この場合,マシュレはこれを人間の精神の能動と規定するでしょうが,僕は受動であると判断するということになります。
 第二の場合は第一の場合と逆の場合です。つまりその思惟作用がそれをなす人間の精神の純粋な思惟作用とは考えられないような内容を有している場合に,結果として十全な観念がこの人間の精神のうちに発生するような場合です。僕はこの場合にはこれを能動と判断することになります。マシュレはこの場合にはこれを受動と判断するとは必ずしもいえませんが,少なくともこれをこの人間の精神の能動であるとは規定しないであろうことは確かに思えます。たぶんこの場合にはマシュレはこれを自身の立場から,能動でも受動でもないような思惟作用であると考えるでしょう。
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スポーツニッポン賞鎌倉記念&第二部定理二九備考

2011-10-07 19:13:31 | 地方競馬
 北海道から3頭,愛知から1頭が遠征してきた第10回鎌倉記念は,冷たい雨が降った一昨日の夜に川崎競馬場で争われました。モリヤッコが口の中を負傷したため競走除外となり13頭。
                         
 発馬自体はほぼ揃ったのですが,人気になった北海道のウィードパワーは外にもたれたために立て直さなければならず最後尾に。もとよりこういう競馬をする馬ではありませんし,不良馬場でもありましたから,事実上はここで競馬を終えてしまいました。また,最初の正面では同じ北海道のヘヴンズパワーが先頭に立ったのですが,急な左カーブの1コーナーをスムーズには曲がりきれず,このために追っていた馬も何頭かが外に振られる不利。ここでがらりと馬順が変わり,向正面に入るところではキョウエイロブストが逃げる形になり,不利をくぐりぬけたテンピークスとキョウエイぺトラが続きました。変則的ですがペースはかなりのハイ。
 向正面でぐんぐんと上がっていったのがルイクリスタルラヴで,そのままスピードを緩めずに捲りきり,直線入口では先頭。追ってきたのはクリヤマキアート,ニシノファイター,センゲンオーラの3頭。直線はこの4頭の叩き合い。センゲンオーラは脱落し,粘るルイクリスタルラヴの外に並び掛けたのがニシノファイター。最後はニシノファイターが半馬身出て優勝。ルイクリスタルラヴが2着でクリヤマキアートが3着。
 優勝した北海道のニシノファイターはここまで6戦2勝。デビュー戦を勝っているくらいですから素質はあったでしょうが,その後の成績から北海道3頭の中では最も人気薄。ただこういう馬でも勝ってしまうのが北海道と南関東のこの時期の2歳戦のレベル差ではあります。左回りを問題なくこなしたのはひとつの収穫。向正面では2着馬より前に位置していましたが,2着馬が前を一掃するようなレースをして,それについていきましたので,展開的にも恵まれた面はあったと思います。新馬も1700で勝っていますから,距離もある程度はあった方がいいのでしょう。
 長く上山でトップジョッキーとして活躍,廃止に伴い北海道に移籍した小国博行騎手は南関東重賞初制覇。管理している北海道の堂山芳則調教師は2008年の平和賞以来の南関東重賞制覇で,鎌倉記念は初勝利。

 なぜ人間の精神による受動の場合には,マシュレと僕との間にある根拠の相違があまり問題にはならないと僕が考えるのかといえば,これは根拠を問う以前の問題として,スピノザの哲学の根幹と関係すると考えるからです。
 そもそも,人間の身体が外部の物体によって刺激を受けるなら,これはスピノザの哲学から離れて一般的にいっても人間身体の受動です。そしてこの人間身体の受動に基づいて,あるいは基づくといういい方が何か因果関係を連想させてしまうのなら,その受動と平行してといい換えてもいいですが,その人間の精神が事物を認識する,すなわち表象することを,スピノザは人間の精神が事物を自然に共通の秩序に従って認識するといいます。いい換えればこうした認識の秩序というものは,その人間の身体の刺激状態の秩序に相応してその人間の精神のうちに,このブログでの表現を用いるならば身体の変状として生じるのです。
 しかるにこのことだけから,これが人間の精神の受動であるということが帰結すると僕は考えます。なぜならばこれは,人間の精神が内部から決定されて,いい換えれば十全な原因causa adaequataとなって事物を認識しているのではなく,むしろ外部からの決定を受けて,つまり部分的原因causa inadaepuata,causa partialisとして事物を認識しているということが明らかだからです。このことを踏まえてスピノザは第二部定理二九備考で次のようにいっています。
 「精神は物を自然の共通の秩序に従ってex communi naturae ordine)知覚する場合には,(中略)常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず,単に混乱し(毀損し)た認識を有するのみである」。
 つまり,もしも人間の精神が内部から決定されるのではなく,いい換えれば純粋な思惟作用としてではなく,事物を認識するならば,この観念は必然的に混乱した観念なのです。したがってマシュレのようにこれが純粋な思惟作用ではないがゆえに人間の精神の受動であると結論しても正しいでしょうし,僕のようにこの観念が混乱した観念であるから人間の精神の受動であると結論してもやはり同じように正しいのだと僕は思うのです。したがってこの場合には,僕が考えているような僕とマシュレとの間にあるであろう根拠の相違というのは,それほど問題にしなくてもいいだろうと僕は考えます。
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ドラール賞&精神の受動

2011-10-06 19:09:21 | 海外競馬
 ニエユ賞で結果が出なかったナカヤマナイトは凱旋門賞への出走は断念。現地時間でその前日の1日に行われたドラール賞GⅡ芝1950mに出走しました。
 ニエユ賞では発馬が悪かったのですが,ここは抜群とはいえないものの互角の発馬。そのまま行く気に任せて上がっていき,外の2番手となりました。11頭立ての8番という枠順の関係から外になるのは仕方なく,最初の1000mの通過が63秒台もしくは64秒台という超スローペースでしたので,位置取り自体はよかったのではないかと思います。そのまま直線に入り,逃げ馬が追い出すのをみて追われましたが,まったくといっていいほど伸びをみせず,馬群に飲み込まれていき,10着に終っています。
 距離が長かったということは考えにくいので,レース振りからすれば体調が万全ではなかったのではないかと思われます。共同通信杯は勝ったのですが,今年の日本の3歳馬の全体的なレベルはそうも高くはないというのが僕の見解で,仮に能力を十分に発揮できる体調にあったとしても,やはり勝ち負けというところまでは難しかったのではないでしょうか。成長力に欠けていたという可能性も否定はできませんので,帰国後にどの程度まで戦えるのかは注目点のひとつだと思います。

 本来なら別のテーマとして考察するべきであったかもしれないスピノザによる事物の定義の条件についての探求に立ち入らざるを得なかったために,かなりの時間を要することになってしまいましたが,これで僕は僕が理解するマシュレの立場からあり得ると思われるような反論に対して十分に返答することができたと確信します。よって,人間の精神のうちに球の観念が発生する場合に,マシュレはそれが人間の精神による純粋な思惟作用であるから人間の精神の能動であるとみなし,僕はそれが十全な観念であるという理由によって人間の精神の能動とみなすというように,その根拠は異なるわけですが,結論は一致するということにして,今度は人間の精神の受動ということを,具体的にマシュレと僕がどのように解するのかということを考えていくことにします。
 精神の受動の場合,一致点を探るのはかなり容易であるだろうと僕は考えます。たとえば第二部定理一七の仕方で人間の精神が外部の物体を表象するとき,これをマシュレは人間の精神の受動とみなすでしょうし,僕もまたマシュレと同様に人間の精神の受動であると考えるからです。
 これをマシュレが人間の精神の受動とみなすと僕が考える理由は,実は何をもってそれを人間の精神の能動とマシュレは考えるのかという僕の推論のうちにすでに含まれているといっていいでしょう。つまりマシュレはもしもそれが人間の精神による純粋な思惟作用であるならそれをその人間の精神の能動とみなすと僕は考えるわけですが,人間の精神による事物の表象は,その人間の身体がある外部の物体によって刺激を受ける場合に生じる思惟作用ですから,これをその人間の精神の純粋な思惟作用とみなすことは不可能です。したがってこの場合にはマシュレはこれを人間の精神による受動とみなす筈です。
 一方,こうした外部の物体の表象というのは,第二部定理二五により,その物体の十全な観念ではなく混乱した観念です。よって第三部定理三によって僕もこれを人間の精神の受動であるとみなします。
 この場合にも,球の観念の発生の場合のように,それを受動とみなす根拠というのはマシュレと僕とでは異なります。ただしこの場合には,これをさほど問題視する必要はないと僕は考えます。
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新人王戦&発生と十全な観念

2011-10-05 20:31:20 | 将棋
 東西を代表するといっていいであろう若手同士の対戦となった第42回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は佐藤天彦六段が1勝,豊島将之六段が4勝。
 振駒で佐藤六段の先手。豊島六段の横歩取り8五飛-4一玉型。先手が新山崎流で対抗し,定跡通りの展開。昼食休憩後に後手が研究手を出しました(第1図)。
                          
 新山崎流は後手が苦しいとされ,このために最近は8五飛-4一玉型があまり指されていなかったのですが,この局面になると後手もかなり戦えるようです。一本道ではなかった筈ですが,この将棋はここから全面的な戦闘となってしまい,明快に後手が勝ちの将棋になりました。
 研究がうまく決まって豊島六段が先勝。第二局は11日です。

 このように円が定義されたならば,この定義から円の特質が必然的に帰結することになります。すなわちすでに円の特質として,その中心から円周に向って引かれたすべての直線の長さが等しくなるということを呈示していますが,このことは,片側の端が固定し,もう一方の端が運動することによって形成される平面上の図形という円の定義から明瞭に導かれるからです。
 これと同じことが,円の場合よりも以前に検討した球の場合にも成立しています。すなわち,その中心から面の上のあらゆる点までの距離が等しいということは,球のひとつの特質であるわけですが,この特質というのは,球の観念の発生を含むような定義,すなわち半円がその直径を軸として一回転することによって形作られる図形という定義から,明瞭に導かれるということになります。
 そこでこうしたふたつの条件が,すべての定義に適用されなければならないということになります。いい換えれば,すべての定義はその定義から定義された事物の特質のすべてが明瞭に帰結するのでなくてはなりません。そしてそのためには,定義は定義される事物の本性を余すところなく表現しなければなりません。そして最後に,それが事物の本性を十全に表現するためには,その事物の発生がそこに含まれていなければならないのです。
 よって,事物の定義が認識されるものであると考えたときに,その認識こそがその事物の十全な観念であるのだとすれば,このことから,すべての十全な観念はその観念の対象ideatumの発生を,最低限でも名目的には含んでいるということが結論されることになるでしょう。すなわち少なくともスピノザの哲学において十全な観念というのはそうした観念でなければならないということが含まれていると僕は考えます。そしてこのことは,スピノザが十全な観念と真の観念とをわざわざ分けて考える理由のひとつであると僕は思いますが,これは現在の考察には関係しませんから,これ以上の言及は控えます。
 『知性改善論』におけるスピノザによる定義の説明はさらに続いていますが,これ以上はここでの探求には不要ですのでここまでとします。もしも興味がおありでしたら,『知性改善論』をお読みください。
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農林水産大臣賞典白山大賞典&定義の条件

2011-10-04 21:41:04 | 地方競馬
 JRAからの遠征勢に地元のエースがどこまで食い下がれるかが焦点となった第31回白山大賞典
 この距離のレースとすれば発走後の先陣争いが激化。ハナを奪ったのはダノンエリモトップで,ジャングルスマイルが2番手。外にニホンピロアワーズ,内にメイショウタメトモと続きました。
 2周目の向正面でジャングルスマイルが先頭に立つと,ダノンエリモトップは一気に後退。ジャングルスマイルの内からメイショウタメトモ,外にニホンピロアワーズとなり,さらに前半はいつも通りに後方に位置し,2周目の向正面に入る手前から追い上げを開始したシビルウォーが加わって4頭の競馬。ジャングルスマイル,メイショウタメトモの順で脱落。そしてニホンピロアワーズも力尽き,2馬身半抜け出したシビルウォーの優勝。2着にニホンピロアワーズで3着にメイショウタメトモ。
 優勝したシビルウォーは前走のブリーダーズゴールドカップからの連勝で重賞2勝目。ここもメンバー的に優勝候補の1頭で,前半に意外に競り合うようなレースとなったのは幸いしました。どうやら充実期を迎えていると考えてよさそうで,これくらいのメンバーでの戦いでは好走を続けていけそうです。
 騎乗した吉田豊騎手,管理している戸田博文調教師ともに白山大賞典初制覇。

 ここから『知性改善論』は(九六)に入り,そこまでの事情を前提として,事物の定義,とくに自然的実有の定義というものがどういうものでなければならないのかということが説明されていきます。このとき,スピノザが掲げている条件はふたつあります。ひとつは事物の定義がその事物の最近原因を包含していなければならないということで,もうひとつは,ほかのものに依拠せずただそれだけの内容からそのものの特質のすべてが必然的に帰結しなければならないということです。ただし,はっきりとそういっているわけではありませんが,僕が理解するところによれば,スピノザはもしも第一の条件がクリアされさえすれば,第二の条件は必然的に満たされると考えています。これらふたつの条件は,第一のものが定義される事物の発生に関する条件で,第二のものが定義される事物の本性と関わるような条件であると理解してよいのではないかと思いますが,これでみれば,スピノザは事物の発生に関する条件がその定義のうちで満たされたならば,その事物の本性に関する条件も同時に満たされていると考えているということになるでしょう。
 そこで,このことが本当にそうであるといえるのかということを確認する必要があります。スピノザはここで円の場合を用いて説明していますから,それを検討していくことにします。
 まず,円の定義が第一の条件を満たすためには,円は以下のように定義される必要があります。つまりそれは,片方の端が固定され,もう一方の端が運動する任意の直線によって形成される平面上の図形が円であるということです。このとき,直線は自動的に,いい換えれば本性ないしは本性から帰結するような特質として運動するものではありませんから,こうした直線の運動の観念というものが,あくまでもこの運動によって形成される円という図形の観念まで含むことによって十全であるとみなし得るということは,半円の運動がそれ自体で認識されるならこれはむしろ混乱した認識であり,この運動によって形成されるであろう球の観念と一体化した上で初めて十全であるとみなされるということに同じです。スピノザはこの部分ではこの説明は与えていませんが,これは常に注意しておかなければならないことだといえるでしょう。
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凱旋門賞&転倒

2011-10-03 18:57:24 | 海外競馬
 現地時間で昨日午後4時過ぎ,日本時間だと夜の11時過ぎに行われた凱旋門賞
 ヒルノダムールが最内,ナカヤマフェスタが大外と日本馬2頭は対照的な枠順。ナカヤマフェスタは発馬が少し悪かったように僕には感じられました。レース前半は1頭が離して逃げ,あとは縦2列に馬が並ぶというような形のレース。ヒルノダムールは内側の4,5番手,ナカヤマフェスタは後方の外からのレース。
 レースが後半に入ると馬群が逃げ馬を追い掛け始め,そのまま直線に。ヒルノダムールは非常に手応えがよさそうに見え,包まれることなくうまく外目に出してきたのですが,そこからは追われても特別の伸びをみせることなく馬群に沈んでいき,かなり離されての10着。ナカヤマフェスタの方は特段の見せ場なく,11着でした。
 ナカヤマフェスタの方は中間もかなり気難しさを出しているように伝えられていて,本調子に戻れなかったのでしょう。切れ味で勝負するタイプでもありませんので,位置取りが悪くなったのも致命的でした。ヒルノダムールの方はかなりスムーズなレースをしての結果で,結果に対しては斤量が最も応えているように思えます。また,レース前の入れ込みが激しく,そこで消耗してしまっていたのかもしれません。

 自然的実在的有ということばをスピノザがこの部分において用いている理由は,ひとつはそれを理性の有ないしは表象の有と比較するためであり,もうひとつは,これは僕の造語ですが,いわば名目的有と比較対象するためではなかったかというのが,僕自身の考え方になります。
 ところで,自然的実在的有の場合には,その特質によって事物を認識することが大きな混乱を惹起する理由については,スピノザは,その方法は自然の連結を再現するべきである知性の連結を転倒しているからだと述べています。次にこのことの意味を考えてみます。
 まず,一読してこの文章が,『エチカ』でいえば第二部定理七と関連しているということは自明だと思います。すなわち観念の連結はものの連結と同一でなければなりませんから,ものの連結と同じ連結で認識される場合にのみ,観念というのは十全であり得るわけです。
 そしてスピノザによる第二部定理七証明は,単に第一部公理四に訴えているだけです。つまり,ものの連結というときの連結は原因と結果の連結のことですから,観念が十全であるためにはその観念の対象ideatumの原因である事物の認識が必然的に含まれていなければならないというわけです。
 ここに事物の特質と本性の関係を導入すれば,特質というのは本性に対する結果としてあるのです。したがって,特質によって事物を認識するということは,第二部定義二により,スピノザの哲学における事物の本性というのは実はその事物そのもののことなのですから,特質によって本性を認識しているということになるのです。すなわち,本来は結果であるものによってその原因を認識しているということになります。スピノザがここで転倒といっていることの具体的な意味は,たぶんこういうことなのだろうと僕は考えます。
 このことは,スピノザの哲学の方法論と関係します。すなわちスピノザは方法論として演繹法を用いるのですが,それはまさに第一部公理三にあるように原因が先立って結果が生じるからです。これに対して結果から原因を導くような手法が帰納法であるといえるでしょう。つまり帰納法は主客転倒の方法であり,特質によって事物を認識するのは,その帰納法にほかならないということが,ここでいわれていることの主旨だと思います。
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スプリンターズステークス&名目的な認識

2011-10-02 18:43:23 | 中央競馬
 香港から2頭,シンガポールから1頭が遠征してきた第45回スプリンターズステークス。発走直前にビービーガルダンが放馬して競走除外。この影響で発走時刻も遅延。枠入り後の出来事でしたので,影響があった馬もいたかもしれません。
 確たる逃げ馬が不在でしたが,パドトロワとヘッドライナーの2頭が先手を奪いに出て,枠順の差もありパドトロワの逃げに。2頭の後ろにシンガポールのロケットマンがつけ,香港のラッキーナインとエーシンヴァーゴウがこれを追いました。前半の600mは33秒0でハイペースといえるでしょう。
 直線の入口でロケットマンが上がっていこうとしているように見えましたが,その外に後続が被せるような形に。外を通ってきたのが先行勢の直後にいたカレンチャンで,坂で先頭に躍り出るとそのまま抜け出して快勝。逃げたパドトロワが2着に粘り,追い詰めたエーシンヴァーゴウが僅かの差で3着。
 優勝したカレンチャンは2月に準オープンを勝った後,阪神牝馬ステークス,函館スプリントステークス,キーンランドカップと重賞3連勝中の上昇馬。大レースはここが初挑戦でしたが,わりと差をつけて勝つことができましたので,今後はこの馬が日本のスプリント路線の中心を担っていくということになりそうです。父はクロフネ,兄に昨年の京阪杯を勝ったスプリングソング
 騎乗した池添謙一騎手はダービー以来の大レース制覇で,2003年のデュランダル以来のスプリンターズステークス2勝目。管理している安田隆行調教師はジャパンダートダービー以来の大レース制覇でスプリンターズステークスは初勝利。

 『知性改善論』の該当部分に戻ります。
                         
 ある事物をその特質によって認識することは,ここで示している円の場合のように図形のことや,理性の有に関してはさほどの問題を引き起こさないであろうといった後で続けてスピノザは,しかし自然的実在的有について認識する場合にはそうではないと主張しているのです。このことからも,スピノザが理性の有ないしは表象の有というのを,有ではないもの,少なくとも実在的有ではないものと理解しているということは明らかだといえるでしょう。
 一方,図形の観念についてこれを理性の有と並列的に考えているのはなぜなのかということについて僕の結論だけ述べておけば,図形というのが実在的なものとして認識されるのではなく,むしろ名目的に認識されるものであるとスピノザが考えているからなのではないかと思います。たとえば球の観念が発生するのは,半円がその直径を軸として一回転することによってですが,すでに何度も示しているように,それが直径を中心に一回転するということは半円の本性のうちに含まれているわけではありません。それどころか,自然のうちに現実的に実在する球がそのようにして発生するというわけでもないのです。したがって,このようにしてある精神のうちに発生する球の観念は,現実的に存在する個物としての,すなわち物体としての球の十全な観念でないばかりか,そもそもこの認識のうちには,自然のうちに現実的に物体としての球が実在するということを確証するものは何もないのだといっていいでしょう。
 しかし球というものを名目的に考える限り,これは球の十全な認識であり,またそれ以外に球の十全な認識が,少なくとも有限知性である人間の精神のうちに発生することはありません。そしておそらくこうしたことが,定義され得るようなすべての図形について妥当するとスピノザは考えているのではないかと思います。
 実はあるものを名目的に認識するということは,純粋な思惟作用によってあるものを認識するということに等しいのかもしれないと僕は考えています。したがってそれが純粋な思惟作用だから精神の能動であるという考え方は,事物を名目的に認識する場合には精神の能動であると主張することに等しいのかもしれません。
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