スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
11日に大阪で指された第7期女流王座戦 五番勝負第二局。
加藤桃子女王の先手で変則的手順でしたが里見香奈女流王座のごきげん中飛車 ①-Aから4筋で銀が向かい合う形に合流。先手が穴熊,後手が銀冠 に。戦いの中で少しずつ先手がリードを広げていたのではないかと思います。
先手が角を打ち込んだ局面。この直前に6筋と7筋で応酬があったのですが,そこでも後手が少し損をしてしまったように僕には思えました。
ここでは☖6四金と引くのが最善で,それなら後手が飛車を使えるような展開になっていたようです。ですが後手はその手順が見えなかったために,別の方法で飛車を使いにいきました。
☖8六歩☗同歩と突き捨てておいて☖3五歩で角道を遮断。先手が☗2三角成と馬を作ったところで☖6四歩と突きました。ただしこの手は展開的には緩手であった可能性もあります。
先手が☗3五歩と取ったところで☖2一飛と回り☗3四馬 と逃げたのに対して☖9二香と上がりました。これで後手の狙いは分かりましたが先手は☗4八角☖9一飛に☗2四歩 と突き後手が☖7五金と角道を止めつつ金も使いにいったところで☗5六馬と引きつけました。
第2図から端を攻める展開になれば後手の構想も顔が立つのですが,ここで☖8四歩と受ける必要があったために☗7五角以下の強襲を浴び,あとは一方的に先手が押し切っています。第1図はすでに後手が劣勢だと思いますが,その後の手順で飛車が使えるとみた後手の大局観が悪く,その結果として決定的な差がついてしまった将棋というように感じられました。
加藤女王が連勝 。第三局は22日です。
ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが自然は原型とメタモルフォーゼという内的法則によって無限に多くのinfinitaものを産出するという意味のことをいうとき,ゲーテは自然の外ということを考えていないと僕は思います。考えていないというより,自然には外部というものが存在しないというように考えているといった方がいいかもしれません。つまり自然というのは内在的なものであって,自然を超越するものは何も存在しないとゲーテは考えているのだと思います。大槻が物理学的にゲーテは自然を考察するということの意味が僕には分からないといいましたが,もしかしたら大槻は,自然が内在的なものであり,それを超越するものはないということを指して,それを物理学的にと形容したのかもしれないとは思います。
ゲーテは無神論者であったわけではありません。それがキリスト教的にいって正統なものであるかどうかは別として,ゲーテ自身は自分が確かに信仰心を有しているということ,キリスト教を信仰しているということを自覚していました。ただ一方で,ゲーテが自然を超越するものは何もないと考えていたのであるとすれば,ゲーテは神Deusも自然を超越する存在existentiaではないと解していたのだろうと僕は思います。つまりゲーテが信仰fidesの対象として神まで自覚していたとしたら,その神は内在の神であって超越の神ではなかったと僕は解します。そしてこのような神は,まさにスピノザが哲学において示した神と一致しているといえるでしょう。ですからこの点においても,ゲーテの自然学に対するこの考え方が,スピノザ主義的な汎神論の影響の下にあったのだとする大槻の指摘は,大槻が汎神論ということで何をいおうとしているのかということを考慮の外に置くなら,的確なものであると僕には思えます。ただ,これをスピノザの哲学との関係でより明確に示すなら,それはスピノザ主義的な汎神論の影響下にあったというよりは,スピノザが示した神の概念conceptusの影響の下にあったという方がいいのではないだろうかとも思うのです。
この部分は,単に内在あるいは内的法則という観点からのみスピノザとの関連性を指摘できるにはとどまりません。原型とメタモルフォーゼ自体も同様です。
大垣記念の決勝 。並びは小松崎‐佐藤の福島,三谷‐稲垣‐村上の近畿A,石塚‐東口‐高間の近畿Bで成清は単騎。
佐藤がスタートを取って小松崎の前受け。3番手が三谷,6番手が石塚,最後尾に成清で周回。残り3周のバックの出口手前から石塚が動いていくと三谷も発進。一時的にハイスピードでの争いになりましたがホームに入って三谷が引き,石塚が前に。ここで成清が追い上げて4番手に入り,5番手に三谷,8番手に小松崎の一列棒状に。前に出た石塚は一旦はペースを落とし,この一列棒状でバックを通過して打鐘。すぐに三谷が踏み込んでいったので石塚も発進してホームからは先行争いに。この争いはバックに入っても決着がつきませんでしたが,後ろから小松崎が発進してきたので三谷の番手から稲垣が発進。村上を連れて両者の争いに。直線で差し切った村上が優勝。稲垣が半車身差の2着で京都のワンツー。両者を追うような形になった小松崎が半車身差で3着。
優勝した京都の村上博幸選手は4月に当地のFⅠで優勝して以来の優勝。グレードレースは2014年2月に全日本選抜競輪 を優勝して以来。記念競輪となると2012年1月の向日町記念 以来の優勝で通算5勝目。大垣記念は2007年 に優勝していて10年ぶりの2勝目。このレースは石塚が先行するであろうことは予想できました。三谷の脚質的にも同じ地区であることからしても,激しい先行争いはないだろうと考えていたのですが,そう思っていたよりはるかに激しいレースとなりました。結果的に稲垣がハイスピードの争いをバックの入口から出ていくことになったために,最後は後ろの村上が恵まれることになったということでしょう。三谷が石塚を叩ききることができなかった上に小松崎も来ていましたので,稲垣があそこから発進するというのは仕方がなかったのではないかと思います。
大槻が指摘している箇所は,いくつかの観点からスピノザの哲学に親和的な要素を有していると僕には思えます。その第一の点は,自然が原型とメタモルフォーゼという内的法則に従うことによって無限に多くの形象を産出していくというときの,内的法則です。これは自然法則とは内的なものであるといっているのにほかなりません。原型とかメタモルフォーゼということでゲーテが何をいおうとしているのかということとは無関係に,自然法則が内的なものであるということは,それだけを抽出したらスピノザの哲学の考え方と完全に一致しているといえるでしょう。
スピノザの哲学における汎神論 の意味は,すでにみたように,自然のうちに存在するものは,神Deusとその属性attributumを別にすれば,神が変状した様態modiあるいは様態的変状modificatioに様態化した神であるということでした。この意味を保ったまま,この汎神論の真正な意味を神即自然と解する限りで,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの解する自然がスピノザ主義を根底とする神即自然としての自然であるという大槻の指摘は妥当なものであると思います。ただ,大槻はなぜそういえるのかという説明は何もしていません。ここでの僕の目的は,それを説明することによって,その大槻の主張の妥当性を補強するということにあるというように解しておいてください。
スピノザの哲学では自然法則というのは神の本性naturaの必然性necessitasと同じことです。これは第一部定理一六 から明らかで,神の本性の必然性necessitate divinae naturaeに従っていることなら自然のうちには無限に多くのinfinitaことが生じますが,それに反していることは何も生じないからです。したがって自然のうちに何か法則があり得るとしたらそれは神の本性の必然性以外にはないのであって,それが諸々の現象に対して自然法則といわれることになるからです。したがって諸々の現象および形象に対して神は,第一部定理二八備考 にあるように絶対的な最近原因causa proximaであることになります。
その絶対的な最近原因である神は,第一部定理一八 にあるように内在的原因causa immanensであって超越的原因ではありません。したがってスピノザの哲学では神の本性の必然性は内的法則であり,外的法則あるいは超越的法則ではあり得ないのです。
7日に指された第25期倉敷藤花戦 三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈倉敷藤花が6勝,伊藤沙恵女流二段が3勝。
倉敷市長による振駒 で伊藤二段の先手。里見倉敷藤花の三間飛車に伊藤二段が向飛車の相振飛車に。中盤の戦いから先手が桂馬を取りつつ馬を作り,後手は飛車を成り込むという分かれになりましたが,そのあたりは先手の方がよかったものと思います。ただ先手が決定打を放つことができず,長手順の泥仕合になりました。
先手が8一にいた龍を攻めに使おうとした局面で,感想戦によればここが先手にとって最後のチャンスだったようです。正着は☗8四歩だったようですが☗7六桂と打ちました。ただ,このまま☖5六金と打たれてよいようには思いにくく,これを逃したのは仕方がないような気が個人的にはします。
☖3九銀は棋譜コメントでは心配とされていますがこれが好手だったのではないかと思えます。先手は☗5三桂成 として上部脱出に望みを託しました。後手は☖6九龍ともう1枚の龍を使いにいきます。これは☗5四馬と王手で寄って☖8三王に☗5六玉と逃げ出せるようですが☖4四金とただのところに打ったのが最終的な決め手になりました。
これはさすがに☗同馬しかありませんが☖6五竜と引く手が実現。先手玉を押し返すことに成功した後手の勝ちになりました。
里見倉敷藤花が先勝 。第二局は26日です。
それでは『ゲーテとスピノザ主義 』の中から,僕が気になった最後の事柄を紹介します。これは,本文中にスピノザの名前が出てきているけれども,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheの考え方の中に,本文中には詳しく触れられていない形でスピノザの哲学と親和的なものが含まれていると僕には思えた部分です。
最初に紹介した第3章の第1節で,ゲーテがシラーとの会話において,植物のメタモルフォーゼについて語り,象徴的植物をスケッチしてみせたということをいいました。そこではこの象徴的植物が植物の原型で,これが第三種の認識cognitio tertii generisとの関係でスピノザの哲学と関連を有するかもしれないと僕はいいました。この原型とメタモルフォーゼについて,再び第5章の第2節で触れられています。そしてそこでは,この考え方が,第三種の認識とは別の形でスピノザの哲学との関連性があるように僕には思えました。
大槻によれば,ゲーテはヘルダーから影響を受け,自然と神Deusと芸術に自身の関心を向けるようになったそうです。このとき,ゲーテにとっての自然というのは,スピノザ主義を根底とする神即自然としての自然であったと大槻は指摘しています。神即自然は第四部序言 が最も有名です。そしてこの部分は,おそらく神学者からは非難の対象となるでしょう。ただ,大槻の記述にはそのような否定的なニュアンスはまったく含まれていません。したがってこの部分に関しては,ゲーテはスピノザの汎神論 を肯定的に受容したと大槻は解していると考えておくのがよいように僕には思えます。ただ,ゲーテが実際にそういう受容をしたかは定かであるといえず,この部分の大槻の見解自体が正しいかどうかの判断は僕は留保します。
さらに大槻は,ゲーテは神即自然をそのように受け止めた上で,物理学的に自然の根源を認識しようとしたといっています。ここでいう物理学が何を意味するのかは僕には分かりませんでした。でもこの部分はさして重要ではありません。ゲーテがこうした認識を基本に,原型とメタモルフォーゼという概念notioに到達し,自然は原型とメタモルフォーゼという内的法則に従って生命ある諸々の形象を無限に産出していくと考えたという部分に注目します。
第42回エリザベス女王杯 。
一旦はクロコスミアが前に出ましたが内から押して追い上げてきたクインズミラーグロが交わしてこちらの逃げに。クロコスミアが控えて2番手。1コーナーを回ってこの後ろは5馬身ほど離れてマキシマムドパリ。4番手にヴィブロスでこの後ろはモズカッチャンと発馬は最もよかったスマートレイアー。2頭の後ろはトーセンビクトリー,デンコウアンジュ,エテルナミノルの3頭。その後ろがクイーンズリングとジュールポレール。その後ろにリスグラシューとミッキークイーンでさらにルージュバック。そしてタッチングスピーチとハッピーユニバンスまで,3番手からは集団。3馬身ほど離れてディアドラ。また3馬身ほどあってウキヨノカゼが最後尾を追走。前半の1000mは62秒0の超スローペース。
ミッキークイーンだけはコーナーで外から捲るように動きましたが,元の位置が後ろでしたからここでは前までは追いつかず,ほかに目立った動きをする馬がなかったので前の位置関係はほとんど変化がないまま直線に。逃げたクインズミラーグロは一杯で交わしたクロコスミアが直線に入るとすぐに先頭に。直後にいたマキシマムドパリは外から追い掛けましたが追いつくことができず,この2頭の間を割ったモズカッチャンと大外から追い込んだミッキークイーンの2頭だけがクロコスミアを追う形に。モズカッチャンがクロコスミアを捕えて優勝。クロコスミアがクビ差の2着でいい脚を長く使ったミッキークイーンはアタマ差の3着まで。
優勝したモズカッチャン はフローラステークス以来の勝利で大レース初制覇。ただオークスが2着で秋華賞も3着でしたから,3歳牝馬の中ではトップクラスの実力。ですから古馬との力関係次第で勝機があるとみられた1頭。このレースはペースや位置取りが結果に及ぼした影響が相対的に高く,僕は内容的に最も強かったのはミッキークイーンであったように思えました。斤量差もあったのでなおのことそこまでの力量があるとは断定できない要素はあるのですが,少なくともそれに近い能力を有した馬であるということは間違いないでしょう。距離は長い方がいいのではないかと思えます。母の父はキングカメハメハ 。祖母の半姉に1999年にユニコーンステークスとシリウスステークス,2000年にかきつばた記念とプロキオンステークスと南部杯を勝ったゴールドティアラ 。
騎乗したミルコ・デムーロ騎手は菊花賞 に続いての大レース制覇。第41回 からの連覇でエリザベス女王杯2勝目。管理している鮫島一歩調教師は開業から17年8ヶ月で大レース初勝利。
人格の排除を神Deusに対してなさなければならないということは,普通は精神的な側面における意味合いが強いです。たとえばデカルト の哲学において,物体的実体 substantia corporeaは神とは異なった実体ですが,思惟的実体は神そのものです。したがって人間が神に似ているとすれば,人間の身体corpusが似ているのではなくて人間の精神mens humanaが似ていることになります。デカルトは必ずしも人間の精神的属性が神のうちに優越的にeminenter含まれていると主張するわけではありませんが,このような考え方が,フーゴー・ボクセル Hugo Boxelのように,神のうちに人間的属性,とくに人間の精神的属性が優越的に含まれているとみなす見解opinioに親和的であるのは明白でしょう。しかし神を人間のようなもの,人間の精神のようなものとみなしてはならないのであって,この観点において人格の排除が強く主張されるようになるのです。
しかし,ウェルテルが暗黙裡に前提しているような,人間の身体的属性が神のうちに優越的に含まれているという見方も,スピノザは否定します。したがって人格の排除というのは,単に神に人間の精神のような性質を付与してはならないということだけ意味するのではなく,人間の身体的属性を付与してもならないということを同時に意味するのです。これはスピノザがボクセルに宛てた書簡五十六 の中で,三角形に話す能力potentiaがあったなら,三角形は神は優越的に三角であるというだろうと書いていることから明らかだと思います。ここでスピノザが三角形の精神を想定して,三角形の精神が優越的に神のうちに含まれていると主張するだろうといっているわけではないと僕は思うからです。むしろスピノザはそこで,図形としての三角形が神のうちに優越的に含まれていると三角形は言うだろうといいたいのだと思います。したがって人間の身体が神のうちに優越的に含まれるということも,スピノザは明確に否定していると解さなければなりません。
ボクセルのような見解もウェルテルのような見解も,人間が有する見解なのです。自分が人間だから人間的属性が神のうちに優越的に含まれていると思い込んでしまうのです。なのでこの部分でも,ウェルテルはスピノザの哲学に反しています。
4日と5日に臨江閣 で指された第30期竜王戦 七番勝負第三局。
羽生善治棋聖の先手で5筋位取り中飛車。渡辺明竜王 は穴熊 へ。先手も穴熊の相穴熊 になりました。先手が自陣の金を動かさないで積極的に動いていきましたが,これが結果的にはやり過ぎで,苦戦を招く一因になったのではないかと思われます。
先手が5一の飛車を成り返って粘りに出たところ。後手は☖3四金と上がりましたが,ここでは☖3一歩と受けておくのがベストで,ほかに☖1四歩というのもあったようです。
もしそこで☗5一龍と入れば☖3三金として☗5八竜☖3四金以下の千日手で仕方がないと後手は思っていたそうです。実際には☗5八龍と引いたところでまた☖3一歩や☖1四歩があるわけですから,本当に千日手になったかどうかは分かりませんが,先手はそのように指しておくほかなかったようです。
実戦は☗8二銀 と打って攻め合いに向かいました。ただ,飛車を自陣に成り返った方針とは反しているような気がします。歩がないので受け方は難しいのですが,攻め合うというのはよくなかっただろうと思います。
☖5七歩☗同金☖4五歩☗3六金 ☖5二飛☗9一銀成☖5七飛成☗同龍☖4七角成☗9二成銀☖5七馬☗4三角☖3八金☗2一角成☖同王☗5一飛☖3一銀打☗5七飛成と先手としてはあまり変化のできない順に進んで☖4九飛の詰めろがかかりました。
攻め合った結果として先手は駒得にはなったのですが玉の安全度が違いすぎ,第2図は後手が勝勢になっています。
渡辺竜王が勝って1勝2敗 。第四局は23日と24日です。
フーゴー・ボクセル Hugo Boxelが書簡五十五 の中で,人間的属性が神Deusのうちに優越的にeminenter含まれているということをスピノザが否定するなら,スピノザが神ということで何を意味しているのかまったく分からないという意味のことをいうとき,神のうちに含まれているとしている人間的属性は,人間の精神的属性であって人間の身体的属性ではありません。一方,ウェルテルの記述からは,ウェルテルが人間の精神的属性が神のうちに優越的に含まれているとみなしているか否かは分からないのですが,少なくとも人間の身体的属性は神のうちに優越的に含まれていると解していることは間違いないと思われます。
したがってボクセルとウェルテルは実は異なったことをいっているのですが,スピノザの哲学から見てみるとふたりは同じような過ちを犯していることになります。なぜなら,精神的な属性であれ身体的な属性であれ,それが神のうちに優越的に含まれるとみなすことは,どちらの場合であれ人間的属性によって神を理解しようとしている点では同じだからです。第二部定理一〇 が示すように,人間の本性 essentiaには実体substantiaの有は属しません。第一部定理一 が示しているように実体は本性 naturaの上で様態modiに先立ちます。そして第一部定理一四 にあるように,実在する実体は神だけです。よって神は本性の上で人間に先立ちます。そして第一部定理二五 から分かるように,神は人間の本性essentiaeの起成原因 causa efficiensでなければなりません。したがって,人間の精神 mens humanaであれ人間の身体corpusであれ,人間的属性によって神を理解することは,結果によって原因を理解することにほかならないのです。つまり原因の認識cognitioが結果の認識に依存していることになります。ところが第一部公理四 により,実際には結果の認識が原因の認識に依存しなければならないのですから,ボクセルもウェルテルも,この点では同じような誤りを犯しているということになるのです。
スピノザが人間のほかの事物に対する優越性 を否定するのは,いい換えれば人間的属性が優越的に神のうちに含まれているということを否定するのは,一般にこの種の優越性が,結果による原因の認識であるからです。よって神からの人格の排除が重要なのです。
4日に放映予定であったものが前の番組が延長されたために5日に囲碁・将棋チャンネル で放映された第39期女流王将戦 三番勝負第一局。対局場は霧島ファクトリーガーデン で対局日は10月14日。その日時点での対戦成績は里見香奈女流王将が4勝,伊藤沙恵女流二段が3勝。
振駒はと金が3枚で伊藤二段の先手。里見王将のごきげん中飛車 ①から先手が一直線に穴熊を目指す展開。後手は美濃囲いから左の銀を5四から4五に繰り出し早めに仕掛ける将棋に。中盤の応酬はかなり見応えがあり,終盤もきわどい勝負となりました。
後手が桂馬を打った局面。局面は難解ですが,後手は横から攻められないので端を攻めるほかないのでかえって分かりやすく,先手は手が広いのでいろいろと考える余地があり,早指しの将棋だと後手の方が勝ちやすくなっているかもしれません。
ここは☗8六銀とか☗8八玉のように強く受ける手もありますし,☗5三桂成や☗5三桂不成と攻めていく手もあります。たぶん☗5三桂不成☖7一金☗4一飛のように進めるのが最善ではなかったかと思われます。実戦は☗5三桂成で,結果的にはこの手が敗着になった模様です。
後手は受けずに☖9七桂成☗同香☖9五歩と攻め合いに出ました。先手は☗6三成桂として☖9六歩に☗6四成桂と角を取って攻めつつ受けました。対して後手は☖9七歩成☗同桂☖同香成とここも攻め合いを選択。これで勝ちと読み切れていたようです。
☗9四桂と単に王手をする手もありますが,同じような進行になったと思われます。実戦は☗7三成桂☖同銀と捨ててからの☗9四桂。後手は☖9二王と逃げ☗9三歩は☖同桂と取りました。☗8二飛に☖同銀なら☗同桂成☖同王☗6四角で詰みですが☖9一王。
第2図は先手に角と歩しかないので打ち歩詰めで逃れています。☗9八歩に詰みがあったかもしれませんが☖8九銀と詰めろを掛け☗8八金に☖7七角という三手必至で後手の勝ちとなりました。これは名局だと思いますので多くの方に並べてほしいです。
里見王将が先勝。第二局は明日が放映予定日です。
ウェルテルが人間の身体corpusが神Deusの身体と似ていると思っていること,したがって神に物体的な意味における身体があると把握していることは僕には確実であると思えます。したがってこの部分においても,ウェルテルはスピノザの哲学と異なったことをいっているのだと僕は解します。なお,これは,人間が神に似た精神mensないしは知性intellectusを有しているというべきであるという意味ではありません。このようにいうなら神が人間の精神あるいは人間の知性といわれる意味での知性であるといっているのに等しいからです。したがって,ウェルテルがいうように,神は自身の姿に似せて人間を創造したということはスピノザの哲学に反していますが,もしウェルテルが,神は自分の精神に似せて人間を創造したといったとしても,それは同じ意味においてスピノザの哲学と反することになるでしょう。
さらに,この部分にはもうひとつ,スピノザの哲学と相容れない要素が含まれていると僕には思えます。ここまでは人間を創造した神という観点からその相違を追求してきましたが,最後の相違は,神に似せて創造されたといわれている人間の観点です。ウェルテルは当該部分において,数多くの物体corpusを示し,その中でとくに人間は神に似せて創造されたといっています。谷間の霧や草,草の茎の間の小虫や羽虫については,おそらくウェルテルは神が自身に似せて創造したものであるとは思っていないのです。しかし人間に関しては,神は自身に似せたのだと思っています。僕はこの部分に,ある種の優越性を感じます。すなわちウェルテルのいい方は,人間は優越的にeminenter神に似せて創造されたといっているように僕には思えます。そしてそのように解することは,この部分のテクストの記述のされ方からして,正当なものであると考えます。
スピノザはフーゴー・ボクセル Hugo Boxelとの間で交わされた書簡において,人間の優越性を主張するボクセルに対し,人間がほかのものに対して優越的であるということはないと主張しています。もちろんボクセルが解する優越性は,霊的な意味での優越性なので,ウェルテルがいっているような物体的あるいは形状的な意味での優越性ではありません。
金沢から1頭,笠松から1頭が遠征してきた昨晩の第28回ロジータ記念 。
押して先手を奪いにいったアップトゥユーがすぐに抜け出しての逃げ。2番手にはスターインパルス。3番手にステップオブダンスとギンチャン。5番手がヤマミダンス,6番手がアムールリアンとなり,この後ろはダムールベルン,グラスサファイヤ,ガロの3頭。その後ろのミスアンナまでは差がなく続き,差が開いてシェアハッピー。この後ろも差が開いてローレライとアペリラルビー。また差が開いてイクノチャンが殿追走。ハイペースでした。
向正面でアップトゥユーにスターインパルスが早くも並び掛けていきました。この時点ではアップトゥユーの方に余裕があり,差を詰められてからまた引き離すとスターインパルスはずるずると後退。追い掛けてきたのはステップオブダンス,アムールリアン,グラスサファイヤ。3コーナーを回るとアップトゥユーは手が動き始めたもののステップオブダンスは余裕の手応えで追走。そのまま楽な手応えで先頭に立つと直線も後続の追い上げを許さず快勝。2番手に上がったグラスサファイヤの外からシェアハッピーが伸び,末脚で優ったこちらが差して2馬身半差で2着。グラスサファイヤは半馬身差の3着。
優勝したステップオブダンス はユングフラウ賞 以来の勝利で南関東重賞2勝目。同じ条件の重賞で3着。そのときの勝ち馬と2着馬は揃って後に古馬相手の重賞を勝っていますので,差をつけられていたとはいえ価値がある内容。能力通りに走れば負けられないところでした。それ以来のレースだったことが懸念材料ではありましたが,能力を出せる仕上がりになっていたということでしょう。レースぶりから着差以上の強さがあったのは間違いなく,今後も活躍できる器だと思います。父はゴールドアリュール 。半兄に2009年に毎日杯を勝ったアイアンルック 。
騎乗した船橋の森泰斗騎手 は鎌倉記念 以来の南関東重賞24勝目。第27回 から連覇でロジータ記念2勝目。管理している大井の藤田輝信調教師 は南関東重賞6勝目。ロジータ記念は初勝利。
聖書には神Deusが物体的なものとして記述されている箇所があります。スピノザはそういう箇所については,理性ratioに従う限りでは比喩的に解釈しなければならないという意味のことを『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』で述べています。ただし聖書において神が物体的なものとして記述されていること自体は,スピノザはたぶん全面的には否定しないと思われます。というのも,理性は真理veritasを教えるのですが,聖書は神への服従obedientia,obsequium,obtemperantiaを教えるものなので,神を物体的に表現するexprimereことによって読者に神への服従を強いることが可能である限りにおいては,むしろそれは有益である筈だからです。
ウェルテルの記述から離れて,スピノザの哲学においてこれを考える場合には,もうひとつ重要なことがあります。神は身体corpusを有しません。身体とは物体corpusであり,物体は延長Extensioの様態modusですが,神は様態ではなくて実体substantiaであるからです。これはすでに説明しました。すると,これと同じような意味において,神は精神mensないしは知性intellectusではないということになります。なぜなら,知性は観念ideaの集合体であって,観念とは思惟の様態cogitandi modiです。したがって神が知性であると主張することは,神が思惟の様態であると主張しているのと同じことです。しかし神は実体であるから知性ではないのです。第二部定理五 から分かるように,観念すなわちそれが集積されて形成される知性に対しては神は,思惟の属性Cogitationis attributumとしてみられる限りにおいて原因causaです。原因は結果effectusと異なったものであるがゆえに原因であるのです。よって神が知性であると主張するなら,神の知性と人間の知性には本物の犬と星座の犬との間にあるような相違がなければなりません。よって,神は身体ではないといわれるの同じ意味において,神は知性ではないともいわれなければならないのです。
なおこのことは,第二部定理一三 にあるように,精神を構成するMentem constitutens観念の対象が身体であるということ,すなわち精神と身体とは同一個体 であるということからも明白です。同一個体の間では原因と結果の秩序ordoと連結connexioは同一であるのですから,神が身体ではないのであれば神が精神でないということが同時に出てくるからです。神は身体ではありませんし,精神でもないのです。
北海道から3頭が遠征してきた昨晩の第17回ローレル賞 。
外からストロングハートがインに切れ込みつつ上昇していきましたがこれを制したのがポッドジゼルでこちらの逃げに。ストロングハートは前半はやや折り合いを欠くような形で2番手に控えました。この後ろをゴールドパテックとカシノランサムが並んで追走。ピースフルジョイが単独で5番手。6番手にはグラヴィオーラとシェーンリート。さらにクレイジーアクセルが単独で続きその後ろにハタノサンドリヨンとサウスグローリー。あとの4頭はここまでの馬群から離されました。前半の800mは50秒2のハイペース。
3コーナーを回るとポッドジゼルとストロングハートはほぼ並んだ状態に。直線に入ってストロングハートがポッドジゼルを抜いて先頭に出ましたが,これをマークしていたゴールドパテックがさらに追い抜くとそのまま抜け出して優勝。内を回って一杯になったポッドジゼルを捌いたハタノサンドリヨンがフィニッシュ直前でストロングハートを内から捕えて1馬身差の2着。ストロングハートはアタマ差の3着。コーナーで勢いよく追い上げてきたものの直線の入口で大きく外に膨れてしまったクレイジーアクセルが直線ではまたよく伸びて4分の3馬身差の4着まで迫りました。
優勝したゴールドパテック はこれが4勝目で南関東重賞初制覇。ここは北海道からの遠征馬が能力的には上位であろうと思っていましたが,距離適性や川崎競馬場特有の左回りの急カーブが4回ある点など,不安材料も抱えていたので,それが露見した場合には前走で牡馬相手の南関東重賞を入着したこの馬にも勝つチャンスはあるだろうとみていました。ここはコース経験の利で上回ったという可能性もあり,内回りとはいえ大井に舞台が変わる東京2歳優駿牝馬で再戦ということになれば,また違った結果になるということもあり得るでしょう。能力関係の把握はこのレースだけでは決めつけておかない方がよいのではないかと思います。父はゴールドアリュール 。
騎乗した川崎の瀧川寿希也騎手はデビューから4年7か月で南関東重賞初勝利。管理している川崎の岩本洋調教師は24年ぶりの南関東重賞2勝目でローレル賞は初勝利。
ウェルテルが美しいと感じている多くのものを並べ立てた後で万物の父という代名詞を神 Deusに充てているのは,神がそうしたすべてのものの創造者でもあることを是認しているからです。そしてそういう万物の父である神が,全能者という代名詞も同時に充てられ,それが自身の姿に似せて人間を創造したという意味のことをウェルテルはいっているのです。いい換えれば神の姿は人間の姿に似ているのだとウェルテルは思っているわけです。こうしたことから類推すれば,ウェルテルは神の身体corpusが人間の身体に似ていると思っていると解してよいでしょう。実際にウェルテルが並び立てている美しいものは物質的なものですし,姿というのも普通は物質的な意味合いでいわれるのであり,精神的な意味合いでいわれるのではありません。だからウェルテルは,人間の精神mens humanaは神の精神に似せられていると思っているのでなく,人間の身体が神の身体に似せられていると思っていると僕は解します。ウェルテルの記述には精神的な事柄が含まれていないので,神の精神と人間の精神の関係をウェルテルがどう把握しているか分かりませんが,ここから理解できるのは,少なくとも神は身体を有するということ,精神も有するかもしれないけれどもそれだけではなく身体については確実に有すると思っているということです。
これはスピノザの哲学の考え方に大きく反します。スピノザの哲学ではこの意味では神は身体を有しません。少なくとも人間の身体に似ているような身体を有さないということは確実です。
第二部定義一 から分かるように,物体corpusというのは延長の属性Extensionis attributumの様態modumです。人間の身体は物体のひとつですから,これも延長の属性の様態です。したがって,神が人間の身体に似た身体を有すると主張するのは,神が延長の様態であると主張するのと同じことです。ところが第一部定義六 から明白なように,神は様態でなく実体substantiamです。なので身体を延長の様態とは違った意味で解さない限り,神は身体を有しません。しかし違った意味で解するなら,神の身体と人間の身体との間には本物の犬と星座の犬 ほどの差異がある筈です。つまり神は身体を有さないというべきなのです。
10月22日の午後に鶴林寺 で指された第7回加古川青流戦 決勝三番勝負第三局。
振駒 で先手になった西田拓也四段の三間飛車に対して後手の井出隼平四段は四間飛車から向飛車への相振飛車 を選択。序盤で後手に軽率な一手があり,それを咎めた先手が優位に立ち,最後までそのリードを保って勝ちきったという一局だったようです。
後手が先に飛車先を交換して先手が受けたところ。ここで☖2一飛と下まで引いたのが危険だったようです。先手は☗6五角と打ちました。
これは角成の先手ですから☖4二金と受けました。そこで☗8四歩☖同歩☗同飛と飛車先を交換します。
ここで☖8三歩と受けると☗4四飛と銀を取られ,☖同歩では2一に引いた飛車が取られてしまいます。なので☖4五銀と銀を逃げる必要が生じ☗8三歩☖7一銀と凹まされることになりました。
第2図は間違いなく先手がポイントを上げたといえますが,勝敗に直結するような差とまではいえません。ただこの将棋は後手がここでの差を挽回するチャンスを逸し,先手が勝っています。井出四段は午前中に対抗形で敗れたことが影響して相振飛車にしたようですが,相振飛車の経験値の薄さが出てしまったような一局であったと思います。
西田四段が2勝1敗で優勝 。今年の4月1日付で四段昇段を果たしたばかりでの棋戦初優勝でした。
創世記における天地創造をどう解釈するかの判断は僕は下しません。ただ,それをどう下すにせよ,神Deusの本性essentiaに神の決意が付随していなければならないということだけが確かめられれば十分です。繰り返しになりますが,この場合は神の全知も神の本性に含まれていなければなりません。
神が自身の姿に似せて人間をつくったとウェルテルがいうとき,たぶんこの天地創造と同じような意味でいっているのです。そして僕の考えでいけば,スピノザの哲学においては神が人間に限らず何かを創造するということ自体が適切性を欠くのですから,そもそも神があるものを創造したといった時点で,それはスピノザの哲学の基本的な考え方に反するのです。少なくとも自分の姿に似せて人間を創造したという意味のことをいっているウェルテルが,人間は延長の様態あるいは思惟の様態cogitandi modiとして,神の本性naturaの必然性necessitasから生起したということを念頭に置いているとは思われません。そしてこれはスピノザの哲学における汎神論の真の意味,神学的観点からの批判を排除したフラットな観点からの真の意味に反します。ですから大槻はここでゲーテJohann Wolfgang von Goetheはスピノザの汎神論の影響下にあるといっているのですが,実際にウェルテルがいっているところの意味は,スピノザの汎神論の影響下にはありません。ただ,それは大槻がスピノザの哲学における汎神論の真の意味を理解していないからなのかもしれませんが,ゲーテ自身がスピノザの汎神論を誤って受け止めているからなのかもしれません。前にいったように,どこに誤りがあるかということは,僕の関心の外にあります。
ウェルテルが自身の姿に似せて神が人間を創造したという意味のことをいうとき,ウェルテルは人間が延長の様態すなわち身体corpusであり思惟の様態すなわち精神mensであって,それは神の本性の必然性から生起したとは想定していないといいました。この観点もスピノザの哲学との関連では重要です。というのは,ウェルテルはこの手紙では人間についてだけ言及しているわけでなく,谷間の霧,太陽の光線,小川の辺の深い草,草の茎の間の小虫や羽虫といった様ざまなものに言及した上で,神を万物の父ともいっています。
昨日の防府記念の決勝 。並びは和田真久留‐和田健太郎の南関東,稲毛‐松岡‐村上の近畿,太田‐松浦の四国中国で新山と猪俣は単騎。
猪俣がスタートを取って前受け。2番手に新山,3番手に太田,5番手に和田真久留,7番手に稲毛で周回。残り3周のホームで後方の稲毛を警戒していた和田真久留が先に動き,猪俣を叩いて前に。これを追っていった稲毛がホームで叩くとそのまま全開で駆けていきました。4番手に和田真久留,6番手に猪俣,7番手が太田,最後尾に新山という一列棒状で残り2周のホームからバックを通過し打鐘。途中で太田が猪俣の内を掬おうとしたものの猪俣が阻止したので隊列に変化はなし。ホームに入る手前から新山が発進。バックに入って松岡が番手捲りを敢行したものの新山のスピードが上回って先頭に。新山の動きを追った和田真久留が直線で新山を差して優勝。松岡の後ろから直線は和田真久留の外を伸びた村上も新山を差して4分の3車身差で2着。新山は8分の1車輪差で3着。
優勝した神奈川の和田真久留選手は4月の伊東温泉のFⅠ以来の優勝。デビューから4年11ヵ月,S級昇級からは2年11ヵ月で記念競輪は初優勝。9月の青森記念で落車して鎖骨を折り,今回が復帰初戦でした。このレースは稲毛の先行は予想されたところ。どういう先行になるかは分からなかったのですが,残り2周半で前に出ての捨て身の先行になりました。これもあり得る展開ではあり,早めに動いて4番手を確保できたのが勝因に。新山の動きを引き付けてから捲って出ようとする松岡の意図は分かりますが,結果的にいえば出ていくタイミングが遅すぎたのが,展開的には有利だった近畿勢から優勝者を出せなかった一因になったと思います。
神Deusの本性naturaの必然性necessitasによって人間をはじめとするすべてのものおよびその観念ideaが生起するということを,神による創造といってもいいのですが,神自身が神の本性の必然性によって自己原因causa suiとして存在するのですから,この場合には神は神自身を創造するcreareともいわなければならないことになります。こうした理由から,僕は神が万物を創造するといういい方を,スピノザの哲学に対しては好みませんし,適切性を欠くと考えています。いい換えれば神は何かを創造するのではなく,神も含めたすべてのものは,神の本性の必然性によって必然的にnecessario存在すると解する方が適切であると考えます。第一部定理二九 とか第一部定理三三 ,また第一部定理三五 などは,こうした解釈の下に理解した方が,スピノザの哲学の真意を正しく汲み取れるだろうと考えるからです。それでも神が神自身を含めたすべてのものを創造するといいたいのであれば,そういういい方を許容しないというわけではないですが,少なくとも神はあれを創造しこれを創造しないということを神自身の意志 voluntasによっては決定するdeterminareことができないということは踏まえておかなければなりません。すべてのものは必然的に存在するかそうでなければ存在することが不可能であるかのどちらかなのであって,神の決意decretumによって存在したり存在しなかったりするということは,スピノザの哲学でははっきりと否定されなければならないからです。
ウェルテルが模していると思われる神による天地創造は,これとは違っています。
旧約聖書の創世記における神の天地創造は,僕の解釈だとふたつのパターンに分類できます。ひとつは神が無から有esseを創造するというパターンで,もうひとつは神が混沌から秩序ordoを創造するというパターンです。創世記の天地創造のテクストは単一ではないので,どちらのパターンとして読解することも誤りではないと僕には思えます。ただ,いずれの場合にも,そこには神の決意が必要となっているのであり,そうした決意が神の本性に属するということが前提されていると考えます。後者の場合だと神が決意したような秩序が構成されます。前者の場合には決意の介在はそれ自体で不可欠でしょう。
大井競馬場 で争われた一昨日の第17回JBCクラシック 。
先手を奪ったのはオールブラッシュ。2番手にアウォーディー,サブノクロヒョウ,ミツバの3頭。5番手にグレンツェントとバルダッサーレの2頭。7番手にアポロケンタッキーとケイティブレイブの2頭。9番手にフェスティヴイェルとサウンドトゥルーの2頭。残りの3頭はここから大きく離されてぽつんぽつんと追走。前半の1000mは62秒1のミドルペース。
後ろの方から早い段階で進出していったのはケイティブレイヴで,直線の入口ではオールブラッシュ,ミツバ,ケイティブレイブで雁行。アウォーディーは内を回りました。直線に入ってオールブラッシュは脱落。アウォーディーはオールブラッシュとミツバの間を割ろうとしましたが伸び脚はなく,競り合う2頭に追いつけませんでした。前の2頭の競り合いを制したのはケイティブレイブでしたが,競り合っている間に外からサウンドトゥルーが脚を伸ばし,2頭をまとめて差し切って優勝。1馬身差の2着にケイティブレイブ。ミツバがクビ差で3着。
優勝したサウンドトゥルー は昨年のチャンピオンズカップ 以来の勝利で大レース3勝目。持ち味は末脚で,これが発揮されない展開になると好走はしても勝ちきれないというタイプ。このレースは持ち味が生きる展開となりました。たぶんこの馬は思われているよりは能力が高いので,馬券面では組み込んでおいて損はない馬だと思います。これからも優勝は展開次第で,展開が向かないレースでも大きくは崩れないでしょう。母の父はフジキセキ 。
騎乗した大野拓弥騎手はチャンピオンズカップ以来の大レース5勝目。JBCクラシックは初勝利。2015年のJBCレディスクラシック を勝っていてJBCは2勝目。管理している高木登調教師もチャンピオンズカップ以来の大レース制覇で大レース6勝目。JBCクラシックは初勝利。2015年と2016年 のJBCレディスクラシックを制していてJBCは3勝目。
自身の姿に似せて神 Deusが人間を創造した場合には,神の決意が必要です。そして僕は,単に神が人間を創造した場合には,必ずしもこの条件は該当しないというように示唆しました。ただ,実際に神が人間に限らず何かを創造するという場合には,暗に神の決意が神の本性essentiaに含まれていると前提している場合がほとんどです。というのは,神による創造というのは多くの場合はキリスト教の天地創造に模していわれるのであり,この神学的観点からは神の本性に意志voluntasを含ませることは必須であるからです。よってここからは,この創造ということに焦点を当てていきます。
まず,神の本性に自由な決意を付与することは,神学的観点からは神の自由libertasを確保することです。この場合,自由は必然と対置されることになります。このためにスピノザの哲学は,神を必然的なnecessarius存在existentiaに貶めたという類の批判を受けるのです。スピノザの哲学ではむしろ自由と必然は調和します。第一部定義七 から分かるように,自己の本性の必然性 によって存在と働きactioに決定されるものが自由といわれるからです。このことはスピノザがいうように,神の本性に自由な決意すなわち意志を付属させると,むしろ神は不完全な存在になってしまうということと関係するのですが,ここではこのことは探求しません。
ウェルテルは自分の姿に似せて人間をつくった全能者の現存を体感しています。これは神が人間を創造したということを認めているとしか解することができません。そしておそらくウェルテルは,神学的な意味でこの創造を解しているのです。あえていいますが,スピノザの哲学に従えば,神はこのような意味では人間を創造しません。神は神の本性の必然性necessitasによって存在しまた働くのですから,人間は神の本性の必然性によって生じることになります。これを創造というなら創造といっていいでしょう。あるいはスピノザの哲学では神の創造というのはこのような意味しか有し得ません。ただし第一部定理二五備考 にあるように,神は自己原因causa suiといわれるのと同じ意味において万物の原因omnium rerum causaです。よって神が人間を創造したというなら,神は神自身を創造したともいわなければならないことになります。
大井競馬場 の1200mで争われた昨日の第17回JBCスプリント 。
前に行こうとした馬は多かったのですが,コーリンベリーはすぐに抜け出して単独の逃げに。外から徐々に上がっていったネロが2番手追走になり,この後ろはニシケンモノノフ,ノボバカラ,プリサイスキング,ゴーディーといったあたりの集団。その後ろもセトノプロミス,スアデラ,スノードラゴン,シゲルカガ,ブルドッグボスで集団を形成。ダッシュが鈍かったコパノリッキーはこれらの後ろから向正面で外をぐんぐんと上昇していきました。キタサンミカヅキがこれらの集団の後ろを追走。前半の600mは34秒6のハイペース。
直線に入るところではコパノリッキーは大外から3番手まで押し上げ,コーリンベリー,ネロとの3頭で雁行。この3頭の競り合いからまずコーリンベリーが脱落。コパノリッキーはネロは競り落としたものの,コーリンベリーとネロの間を突いたニシケンモノノフが内からコパノリッキーを捕えて優勝。コパノリッキーはアタマ差で2着。コパノリッキーの外から追い込んだブルドッグボスがアタマ差の3着でネロがクビ差で4着。大外からキタサンミカヅキも半馬身差の5着まで差し込む大接戦でのフィニッシュでした。
優勝したニシケンモノノフ は北海道スプリントカップ 以来の勝利で大レース初制覇。このレースは総合的な能力ではコパノリッキーが上位でしたが,スプリント戦はさすがに不安。勝つとすれば追い込むパターンで,先行争いをすれば沈むのではないかと予想していました。ダッシュが鈍かったのはむしろ幸いではなかったかと思うのですが,レースぶりが少しだけ強引であったのかもしれません。その分だけ最後に距離適性で上回るニシケンモノノフに軍配が上がったということではないかと思います。直線で行き場が見つからない感じだったのですが,落ち着いて進路が開くまで待った騎手の手腕も勝因のひとつだったといえるでしょう。父はメイショウボーラー 。3代母の半弟に1985年に大阪杯を勝ったステートジャガー 。
騎乗した横山典弘騎手はNHKマイルカップ 以来の大レース制覇。JBCは全体で初勝利。管理している庄野靖志調教師は2010年のJBCスプリント 以来の大レース2勝目。
神 Deusの決意によってすべてが生じると仮定した場合は,全知が神の本性essentiaを構成しなければならないということは分かりました。そこで今度は,確かにウェルテルが全能者を神の代名詞として用いるときに,神の決意によってすべてが生じることを想定していると断定できることを論証していきます。
ウェルテルは『ゲーテとスピノザ主義 』に引用されている箇所で,全能者が現存するということを感じていますが,その全能者は自分の姿に似せてぼくらすなわち人間をつくったのだと書いています。これは神が人間を創造するときに,自分の姿に似た存在existentiaを創造することを決意していたと仮定しなければ成立しません。なぜなら,確かにそうした決意なしにも神は人間を創造することが可能であるということはできるのですが,その場合には単に結果として自身の姿に似たものが存在するようになったということになってしまうからです。すでにみたように,全能者がAが存在するようにするためには,前もってAの観念ideaが全能者のうちになければならないのでした。そのゆえにBでもCでもなくAが存在するようになるからです。全能者が自分の姿に似せて人間を創造するつまり存在するようにするというのはその具体例なのであって,前もって自分の姿ないしはそれに似た存在者の観念が全能者のうちにあって,それが存在するように決意するからそれが存在するようになるのです。したがって全能者は,自身の姿に似せたある存在を創造する決意をした上で,そうした存在者を創造したのです。単に全能者が人間を創造したというなら別ですが,自身の姿に似せて人間を創造したという場合には,こうした決意が不可欠の条件として設定されているのです。
よってウェルテルは全能者あるいは神の決意が神の本性に属するということは認めているのであって,その場合には,全能者が全知であるということも神の本性に属しているのでなければなりません。しかしスピノザの哲学では,ここで決意といわれている意志voluntasも,全知である要件を構成するための観念も,神の本性には属さず,思惟の属性Cogitationis attributumの様態modiです。まずこの点で,ウェルテルの見解opinioはスピノザの哲学に反しています。
大井競馬場 の1800mで争われた第7回JBCレディスクラシック 。
プリンシアコメータがすっとハナへ。2番手にプリンセスバリュー,3番手にララベル。この後ろはワンミリオンス,ホワイトフーガ,キンショーユキヒメの3頭が併走でここまでが先団。1馬身半ほどの差でティルヴィング,ファイトユアソング,アンジュデジールの3頭。また差が開いてシルキークィーンとタガノヴェローナ。この後ろにラインハート。この後ろは大きく開いてタッチスプリント。スパンコールとディアマルコが最後尾に。最初の800mは50秒5のミドルペース。
3コーナーを回ると前2頭の外からララベルが進出し,プリンシアコメータ,プリンセスバリュー,ララベルが一時的に雁行。ここからプリンセスバリューが脱落し2頭の競り合い。逃げたプリンシアコメータは手応えに余裕があるように見え,直線もララベルに迫られてから追い出すような形で,一時的にまた差を広げたのですが,ララベルが最後まで食い下がってフィニッシュに向けて激しい競り合い。最後は外のララベルが競り落として優勝。アタマ差の2着にプリンシアコメータ。馬群を縫うように進出して最後は大外から伸びたラインハートが4分の3馬身差まで迫って3着。
優勝したララベル は昨年のしらさぎ賞 以来の勝利。重賞は初勝利での大レース制覇。このレースはホワイトフーガとワンミリオンスの2頭が能力上位でしたが,前者が距離と折り合い,後者がローテーションと,はっきりとした課題を抱えていましたので,それを克服できないようなら,重賞で幾度となく好走しているこの馬の出番ではないかと考えていました。直前になって回避となってしまったクイーンマンボがこの路線ではトップで,その牙城を崩すのは難しいかと思いますが,大きく崩れるようなケースは今後もないものと思います。父はゴールドアリュール 。7代母がディープディーン の3代母に当たる同一牝系。馬名は少女漫画の主人公かと思われます。
騎乗した大井の真島大輔騎手はデビューから約16年で重賞初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師は開業から約10年3ヶ月で重賞初勝利。
すでにみたように,神Deusが自由な決意によってすべてを創造すると仮定した場合には,神は自身が何を決意し何を決意しないのかを前もって知っていなければなりません。知らないとしたらそれは自由な決意とはいえないですし,またそれを知らないとすれば神が全能者であるということが否定されてしまいます。ウェルテルは全能者を神の代名詞としているのですから,神は自身の決意を,実際にその決意が実行されてそれによって何事かが生じる前に知っていなければならないのです。
しかるに,何事かに対する決意だけを知っていてその何事かの観念ideaを知らないということはあり得ません。スピノザの哲学でいえば第二部公理三の意味 により,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものが観念なのでこれは当然です。また,この決意は意志voluntasと解せるのですから,第二部定理四九 からも同じように当然であるといわなければなりません。しかしこのことは,これらのことを除外しても成立しなければなりません。おそらくウェルテルは,どちらも認めてはいない上で全能者を神の代名詞として用いていると思われますので,スピノザの哲学の範囲の外で考察する方がこの場合には重要です。
たとえば神の自由な決意によってAが存在するようになると仮定してみます。この場合,Aを存在するように決意することは原因 で,Aが存在することは結果です。このとき,Aの観念なしにAが存在するように決意することは不可能です。もしAの観念なしに何らかの存在への決意があるとしたら,その結果として存在するのはAであるかもしれませんがBになるかもしれないからです。これでみれば分かるように,Aが存在するように決意するからBでもCでもなくAが存在するようになり,そのためにはAの観念がAの存在以前に神のうちには不可欠であることになります。
このような決意というのが神の本性 essentiaに属するとしたら,他面からいえばそれが神は全能であるということの意味であるとしたら,神が決意する対象の観念もまた神の本性に属し,神が全能であるということの意味を構成しなければなりません。つまり神の知性intellectusは思惟の様態ではなく神の本性でなければならないのです。
昨晩の第50回ハイセイコー記念 。
押して先手を奪いにいったのがサンダーマックス。外からクレセントシティーが上がっていき,馬なりで前に出られそうでしたが,サンダーマックスが譲る姿勢をみせなかったので2番手に控えました。3番手にクロスケとコパノテッドの2頭で5番手にクリスタルシルバーとハセノパイロの2頭。少し間があってマースインディ,メテオバローズ,プレディクトの3頭が中団。後方をタイムロードが追走してその後ろにトーセンブルとヴァンルモンテ。大きく取り残されたのがキャスタウェイ。前半の800mは50秒3のミドルペース。
3コーナーを回ると逃げたサンダーマックスは一杯となってクレセントシティーが先頭に立ち,ほとんど並ぶようにハセノパイロ。直線の終盤にかけてはこの2頭の競り合いとなり,競り落とした外のハセノパイロが優勝。直線の入口でクロスケを弾くようにこの2頭の外まで出てきたマースインディと大外を回ったトーセンブルの2頭が併走でクレセントシティーに迫ってきましたが,この追撃は凌いだクレセントシティーが1馬身4分の3差で2着。大外のトーセンブルがクビ差の3着でマースインディはハナ差の4着。
優勝したハセノパイロ は新馬戦は追い込むもクビ差の2着。2戦目の条件戦で初勝利をあげると前走の認定競走も連勝。3連勝での南関東重賞制覇。前走で負かした馬が平和賞で離されたとはいえ入着していましたので,勝つ可能性もありそうかと考えていました。初戦の2着はおそらく距離不足であったためと思われ,この馬自身はさらに距離が伸びても不安は薄いのではないかと思います。大井で実績を上げていた馬たちをまとめて負かしたのは評価しなければなりませんが,レース全体のレベルとしては鎌倉記念や平和賞の方が上だったのではないかというのが僕の判断です。4代母が今年の兵庫チャンピオンシップ を勝っている現役のタガノディグオ の6代母となる同一牝系です。
騎乗した船橋の本田正重騎手は習志野きらっとスプリント 以来の南関東重賞4勝目。第48回 以来2年ぶりのハイセイコー記念2勝目。管理している船橋の佐藤賢二調教師は第43回 以来7年ぶりのハイセイコー記念2勝目。
第一部定義六 から分かるように神 Deumは実体substantiamです。あるいは第一部定理一四 から自然 のうちに存在する唯一 の実体です。そこで第一部定理三四 に依拠して神の全能が神の本性 essentiaに属すると解するのであれば,観念ideaは思惟の様態cogitandi modiですから,神の全能は神の全知に本性の上で先立つことになります。なぜなら全知とはスピノザの哲学では神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusを意味しなければなりませんが,スピノザの哲学でいう知性というのは観念の集積のことであるからです。実際にスピノザも,無限知性が思惟の様態であるということを肯定しています。スピノザは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態が無限知性であるということをシュラー Georg Hermann Schullerに宛てた書簡六十四の中で示しているからです。
ただし,全能であるものが全知でなければならないということが,このことによって否定されるかといえばそうではありません。第一部定理二一 から分かるように,神のある属性の直接無限様態というのは,その属性が存在するのであれば必然的にnecessario存在する様態であるからです。したがって思惟の属性が存在するなら無限知性も存在します。ただ,思惟の属性はそれ自身を原因causaとして存在するのに対して,無限知性は無限知性自身ではなく思惟の属性を原因として存在するという違いがあるだけです。もちろんある場合にはこの相違というのを重大な相違として解さなければならない場合もあるのですが,全能であるものが必然的に全知であるということを示す場合には,この相違に関してはそうも重大に考えなければならないというわけではありません。
これにより,ウェルテルがそれをどのように解しているのだとしても,全能を神の代名詞として用いる限り,それは全知でなければなりません。というより,ウェルテル自身は当然ながらそのように解しているだろうと僕は思います。しかしそれを,スピノザの哲学と合致するような意味で,つまり全能が全知に対して本性の上で先立つというような意味で解していたとは僕には思えないのです。というのは,ウェルテルは全能者が人間を創造したといっているからです。この創造したといういい方のうちには,明らかに全能者の意志voluntasが介在しているように思われるからです。
昨晩の第44回北海道2歳優駿 。
好発を決めたディーエスソアラーがそのまま逃げました。1馬身差の2番手にサザンヴィグラス。ここから概ね半馬身くらいの間隔でヤマノファイト,ハッピーグリン,マイネルアンファン,ムルシェラゴの順で追走。ここから1馬身半くらいでドンフォルティス。1馬身差でそれをマークするようにフィールシュパース。半馬身差の最後尾がナナヒカリという隊列に。スローペースでした。
3コーナーを回るとディーエスソアラーは一杯でサザンヴィグラスが先頭に。その外にヤマノファイトで追い上げてきたドンフォルティスがコーナーでは3番手。さらにこれをマークしていたフィールシュパースも大外から追い上げ開始。直線に入るとヤマノファイトは脱落して残る3頭の争いに。ドンフォルティスがサザンヴィグラスを交わして先頭に立つとそのまま抜け出して快勝。大外のフィールシュパースもサザンヴィグラスを捕えて1馬身半差で2着。力尽きたサザンヴィグラスが1馬身半差で3着。
優勝したドンフォルティス は新馬は3着でしたが2戦目で未勝利を勝ちあがると前走の特別も連勝。いずれも3馬身の差をつけていましたので能力は高く,優勝候補の1頭。このレースもそうでしたが後方に控えて末脚を生かすのが現状は合っているようです。ただ,ダートの競馬は自らレースを作れないタイプの馬がどこかで壁に当たるというケースはままあることなので,今後に向けての課題ということになるとそういう部分になってくるのではないかという気がします。母の父にフジキセキ で祖母の父にエルコンドルパサー 。Fortisはラテン語で勇敢な。『エチカ』では精神の強さ と訳されているラテン語がfortitudoです。
騎乗した武豊騎手 は第29回,30回,35回 に続く9年ぶりの北海道2歳優駿4勝目。管理している牧浦充徳調教師は開業から約8年4ヶ月で重賞初勝利。
第二部定理七系 は,神 Deiの本性 naturaの必然性necessitasから知性intellectusの外に形相的にformaliter生じる事柄のすべてが,神のうちに客観的にobjectiveすなわち観念idemとして生じるということを述べています。したがって神が存在するのであれば,神自身のうちに神の観念Dei ideaが存在することになります。なおかつこの系の意味 は,神のうちにある観念はすべて十全adaequatumであるということなのですから,それは十全な観念idea adaequataです。したがって神が神自身の本性の必然性を知らないということはあり得ないことになります。いい換えれば,神は神自身が何をなし得るのかということを知らないということはあり得ないことになります。
このようにして,どちらのパターンで考えても,神が全能であるなら神は全知でなければなりません。ただし,スピノザの哲学の範疇でこのことを考える場合には,次の点に注意しておかなければなりません。
第一部定理三四 は,神の力 potentiaと神の本性essentiaが同一であるということを示しています。実はスピノザは神が全能であるといういい方はあまりしません。おそらくそれは,全能が神の代名詞として用いられる場合には,キリスト教的な意味合いが滲み出てしまうからではないかと思います。しかしもしもスピノザの哲学において神が全能であるということがどういうことであるのかを示す定理Propositioがあるなら,僕はこの定理であると考えています。そしてその考え方に従って解するなら,神が全能であるということは,神の本性に属していることになります。これは神の力が神の本性と同一視されているのですから自明でしょう。
一方,第二部定義三 は,観念は思惟するcogitansものであるがゆえに形成されるものであるといっています。したがってそれは思惟するということのうちに,いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumのうちにあるものでなければなりません。このことは第二部定理五 からも明らかです。したがって観念は思惟の属性そのものではなくて,思惟の属性の様態modiでなければなりません。観念が思惟の様態cogitandi modiであるということをスピノザが認めているということについては,たとえば第二部公理三 などからも明らかだといえます。
第一部定理一 では,実体substantiaは様態に対して本性naturaの上で先立つとされています。