10月22日の午後に鶴林寺で指された第7回加古川青流戦決勝三番勝負第三局。
振駒で先手になった西田拓也四段の三間飛車に対して後手の井出隼平四段は四間飛車から向飛車への相振飛車を選択。序盤で後手に軽率な一手があり,それを咎めた先手が優位に立ち,最後までそのリードを保って勝ちきったという一局だったようです。

後手が先に飛車先を交換して先手が受けたところ。ここで☖2一飛と下まで引いたのが危険だったようです。先手は☗6五角と打ちました。
これは角成の先手ですから☖4二金と受けました。そこで☗8四歩☖同歩☗同飛と飛車先を交換します。
ここで☖8三歩と受けると☗4四飛と銀を取られ,☖同歩では2一に引いた飛車が取られてしまいます。なので☖4五銀と銀を逃げる必要が生じ☗8三歩☖7一銀と凹まされることになりました。

第2図は間違いなく先手がポイントを上げたといえますが,勝敗に直結するような差とまではいえません。ただこの将棋は後手がここでの差を挽回するチャンスを逸し,先手が勝っています。井出四段は午前中に対抗形で敗れたことが影響して相振飛車にしたようですが,相振飛車の経験値の薄さが出てしまったような一局であったと思います。
西田四段が2勝1敗で優勝。今年の4月1日付で四段昇段を果たしたばかりでの棋戦初優勝でした。
創世記における天地創造をどう解釈するかの判断は僕は下しません。ただ,それをどう下すにせよ,神Deusの本性essentiaに神の決意が付随していなければならないということだけが確かめられれば十分です。繰り返しになりますが,この場合は神の全知も神の本性に含まれていなければなりません。
神が自身の姿に似せて人間をつくったとウェルテルがいうとき,たぶんこの天地創造と同じような意味でいっているのです。そして僕の考えでいけば,スピノザの哲学においては神が人間に限らず何かを創造するということ自体が適切性を欠くのですから,そもそも神があるものを創造したといった時点で,それはスピノザの哲学の基本的な考え方に反するのです。少なくとも自分の姿に似せて人間を創造したという意味のことをいっているウェルテルが,人間は延長の様態あるいは思惟の様態cogitandi modiとして,神の本性naturaの必然性necessitasから生起したということを念頭に置いているとは思われません。そしてこれはスピノザの哲学における汎神論の真の意味,神学的観点からの批判を排除したフラットな観点からの真の意味に反します。ですから大槻はここでゲーテJohann Wolfgang von Goetheはスピノザの汎神論の影響下にあるといっているのですが,実際にウェルテルがいっているところの意味は,スピノザの汎神論の影響下にはありません。ただ,それは大槻がスピノザの哲学における汎神論の真の意味を理解していないからなのかもしれませんが,ゲーテ自身がスピノザの汎神論を誤って受け止めているからなのかもしれません。前にいったように,どこに誤りがあるかということは,僕の関心の外にあります。
ウェルテルが自身の姿に似せて神が人間を創造したという意味のことをいうとき,ウェルテルは人間が延長の様態すなわち身体corpusであり思惟の様態すなわち精神mensであって,それは神の本性の必然性から生起したとは想定していないといいました。この観点もスピノザの哲学との関連では重要です。というのは,ウェルテルはこの手紙では人間についてだけ言及しているわけでなく,谷間の霧,太陽の光線,小川の辺の深い草,草の茎の間の小虫や羽虫といった様ざまなものに言及した上で,神を万物の父ともいっています。
振駒で先手になった西田拓也四段の三間飛車に対して後手の井出隼平四段は四間飛車から向飛車への相振飛車を選択。序盤で後手に軽率な一手があり,それを咎めた先手が優位に立ち,最後までそのリードを保って勝ちきったという一局だったようです。

後手が先に飛車先を交換して先手が受けたところ。ここで☖2一飛と下まで引いたのが危険だったようです。先手は☗6五角と打ちました。
これは角成の先手ですから☖4二金と受けました。そこで☗8四歩☖同歩☗同飛と飛車先を交換します。
ここで☖8三歩と受けると☗4四飛と銀を取られ,☖同歩では2一に引いた飛車が取られてしまいます。なので☖4五銀と銀を逃げる必要が生じ☗8三歩☖7一銀と凹まされることになりました。

第2図は間違いなく先手がポイントを上げたといえますが,勝敗に直結するような差とまではいえません。ただこの将棋は後手がここでの差を挽回するチャンスを逸し,先手が勝っています。井出四段は午前中に対抗形で敗れたことが影響して相振飛車にしたようですが,相振飛車の経験値の薄さが出てしまったような一局であったと思います。
西田四段が2勝1敗で優勝。今年の4月1日付で四段昇段を果たしたばかりでの棋戦初優勝でした。
創世記における天地創造をどう解釈するかの判断は僕は下しません。ただ,それをどう下すにせよ,神Deusの本性essentiaに神の決意が付随していなければならないということだけが確かめられれば十分です。繰り返しになりますが,この場合は神の全知も神の本性に含まれていなければなりません。
神が自身の姿に似せて人間をつくったとウェルテルがいうとき,たぶんこの天地創造と同じような意味でいっているのです。そして僕の考えでいけば,スピノザの哲学においては神が人間に限らず何かを創造するということ自体が適切性を欠くのですから,そもそも神があるものを創造したといった時点で,それはスピノザの哲学の基本的な考え方に反するのです。少なくとも自分の姿に似せて人間を創造したという意味のことをいっているウェルテルが,人間は延長の様態あるいは思惟の様態cogitandi modiとして,神の本性naturaの必然性necessitasから生起したということを念頭に置いているとは思われません。そしてこれはスピノザの哲学における汎神論の真の意味,神学的観点からの批判を排除したフラットな観点からの真の意味に反します。ですから大槻はここでゲーテJohann Wolfgang von Goetheはスピノザの汎神論の影響下にあるといっているのですが,実際にウェルテルがいっているところの意味は,スピノザの汎神論の影響下にはありません。ただ,それは大槻がスピノザの哲学における汎神論の真の意味を理解していないからなのかもしれませんが,ゲーテ自身がスピノザの汎神論を誤って受け止めているからなのかもしれません。前にいったように,どこに誤りがあるかということは,僕の関心の外にあります。
ウェルテルが自身の姿に似せて神が人間を創造したという意味のことをいうとき,ウェルテルは人間が延長の様態すなわち身体corpusであり思惟の様態すなわち精神mensであって,それは神の本性の必然性から生起したとは想定していないといいました。この観点もスピノザの哲学との関連では重要です。というのは,ウェルテルはこの手紙では人間についてだけ言及しているわけでなく,谷間の霧,太陽の光線,小川の辺の深い草,草の茎の間の小虫や羽虫といった様ざまなものに言及した上で,神を万物の父ともいっています。