小倉競輪場で開催された昨日の第59回競輪祭の決勝。並びは新田に諸橋,木暮‐平原の関東,山中‐渡辺の南関東,深谷‐金子の愛知で北津留は単騎。
平原がスタートを取って木暮が前受け。3番手に北津留が入り,そのまま関東を追走。4番手に新田,6番手に深谷,8番手に山中という隊列で周回。残り3周のバックから山中が上昇。だれもこのラインを追わないままバックの出口からホームの入口にかけて木暮と山中が併走。ホームに入ると山中が木暮を叩き,そのまま誘導を斬りました。前から山中‐渡辺‐木暮‐平原‐北津留‐新田‐諸橋‐深谷‐金子の一列棒状に。このまま打鐘が入り深谷は発進しかけましたが新田も併せる構えを見せるとそれ以上は動かず,一列のままホームを通過。山中の成り行き先行のような形に。バックで新田が来る前に木暮が出たのですが,後ろの新田とはスピードが違いすぎました。諸橋がマークしきれなかったために単独の捲りになったものの力の違いを見せつけるように新田があっさりと前を飲み込んで優勝。平原の後ろから先に踏んだ北津留が大外を伸びて2車身差の2着。直線から踏んだ平原が半車身差で3着。
優勝した福島の新田祐大選手は7月のサマーナイトフェスティバル以来の優勝でビッグは8勝目。GⅠは6月の高松宮記念杯以来の6勝目。競輪祭は初優勝。このレースはメンバー構成上は深谷の先行が有力と思えましたが,木暮が平原の前を回るということで,あるいは木暮と深谷の先行争いもあり得るかと予想していました。それなら新田が有利であろうと思っていましたが,実際はまったく想定していなかった展開に。それでも新田にとって最大のライバルは深谷であった筈で,山中や木暮とは脚力が違いますから,深谷より前に位置できた時点で優勝が近づきました。僕としては高配当になってよかったのですが,山中が動いたときに深谷が追っていれば,新田がどう動いたかは分かりませんが,また違ったレースになったのではないかと思います。
スピノザは,事物の定義Definitioからはその事物のあらゆる特質proprietasが導かれることが好ましく,そのためには事物の発生が定義に含まれているべきであり,その条件を満たすのであればある種の定義は虚構であって構わないという考え方を有しています。
この一例をあげれば,円とは,一端が固定し,一端が運動する直線によって形成される図形であるという,円の定義があります。知性intellectusの外に形相的にformaliter存在する円が実際にこのような仕方で描かれるのではないとしても,この定義は円の発生を含み,そのゆえに円のすべての特質をそこから導き出せるようなものになっているから,これは円のよい定義なのであるとスピノザはいいます。
僕はこのような円が客観的にすなわち思惟の様態cogitandi modiとしてあるとき,それは円の十全な観念idea adaequataであると考えます。ただしこのためにはひとつだけ注意をしておかなければなりません。直線の本性essentiaのうちにはあるいは直線の特質のうちにも,それがここに示されたような仕方で運動するということは含まれていません。ですからこれを単に直線の観念としてみるなら,それは直線の混乱した観念idea inadaequataであるということになります。これが円の十全な観念であるのは,この直線の観念が円の観念と結び付く限りにおいてなのであって,その結びつきが解消されるなら,それは十全ではなく混乱しているのです。
これらのことから分かるのは,この仕方で人間の精神mens humanaのうちに形成される円の観念は,あくまでも思惟作用,それも精神の能動actio Mentisに基づく思惟作用のうちにあるのであって,直線が物体corpusとして運動するということのうちにあるのではないということです。なのでこの観念は,実は形相的な対象を有していないと解することもできるでしょう。僕はこれが客観的有esse objectivumすなわち観念であるとみなしますが,場合によってはこの定義は観念としてではなく理性の有entia rationisとして精神のうちで成立するのであるという見方もあり得るであろうことは認めます。ただ十全な観念は真の観念idea veraとは異なり,観念の外来的特徴denominatio extrinsecaには依拠しませんから,確かに物体としての円がこのように発生するのでなくとも,この観念の対象ideatumとして円の形相的有esse formaleがあるといえると僕は考えています。
平原がスタートを取って木暮が前受け。3番手に北津留が入り,そのまま関東を追走。4番手に新田,6番手に深谷,8番手に山中という隊列で周回。残り3周のバックから山中が上昇。だれもこのラインを追わないままバックの出口からホームの入口にかけて木暮と山中が併走。ホームに入ると山中が木暮を叩き,そのまま誘導を斬りました。前から山中‐渡辺‐木暮‐平原‐北津留‐新田‐諸橋‐深谷‐金子の一列棒状に。このまま打鐘が入り深谷は発進しかけましたが新田も併せる構えを見せるとそれ以上は動かず,一列のままホームを通過。山中の成り行き先行のような形に。バックで新田が来る前に木暮が出たのですが,後ろの新田とはスピードが違いすぎました。諸橋がマークしきれなかったために単独の捲りになったものの力の違いを見せつけるように新田があっさりと前を飲み込んで優勝。平原の後ろから先に踏んだ北津留が大外を伸びて2車身差の2着。直線から踏んだ平原が半車身差で3着。
優勝した福島の新田祐大選手は7月のサマーナイトフェスティバル以来の優勝でビッグは8勝目。GⅠは6月の高松宮記念杯以来の6勝目。競輪祭は初優勝。このレースはメンバー構成上は深谷の先行が有力と思えましたが,木暮が平原の前を回るということで,あるいは木暮と深谷の先行争いもあり得るかと予想していました。それなら新田が有利であろうと思っていましたが,実際はまったく想定していなかった展開に。それでも新田にとって最大のライバルは深谷であった筈で,山中や木暮とは脚力が違いますから,深谷より前に位置できた時点で優勝が近づきました。僕としては高配当になってよかったのですが,山中が動いたときに深谷が追っていれば,新田がどう動いたかは分かりませんが,また違ったレースになったのではないかと思います。
スピノザは,事物の定義Definitioからはその事物のあらゆる特質proprietasが導かれることが好ましく,そのためには事物の発生が定義に含まれているべきであり,その条件を満たすのであればある種の定義は虚構であって構わないという考え方を有しています。
この一例をあげれば,円とは,一端が固定し,一端が運動する直線によって形成される図形であるという,円の定義があります。知性intellectusの外に形相的にformaliter存在する円が実際にこのような仕方で描かれるのではないとしても,この定義は円の発生を含み,そのゆえに円のすべての特質をそこから導き出せるようなものになっているから,これは円のよい定義なのであるとスピノザはいいます。
僕はこのような円が客観的にすなわち思惟の様態cogitandi modiとしてあるとき,それは円の十全な観念idea adaequataであると考えます。ただしこのためにはひとつだけ注意をしておかなければなりません。直線の本性essentiaのうちにはあるいは直線の特質のうちにも,それがここに示されたような仕方で運動するということは含まれていません。ですからこれを単に直線の観念としてみるなら,それは直線の混乱した観念idea inadaequataであるということになります。これが円の十全な観念であるのは,この直線の観念が円の観念と結び付く限りにおいてなのであって,その結びつきが解消されるなら,それは十全ではなく混乱しているのです。
これらのことから分かるのは,この仕方で人間の精神mens humanaのうちに形成される円の観念は,あくまでも思惟作用,それも精神の能動actio Mentisに基づく思惟作用のうちにあるのであって,直線が物体corpusとして運動するということのうちにあるのではないということです。なのでこの観念は,実は形相的な対象を有していないと解することもできるでしょう。僕はこれが客観的有esse objectivumすなわち観念であるとみなしますが,場合によってはこの定義は観念としてではなく理性の有entia rationisとして精神のうちで成立するのであるという見方もあり得るであろうことは認めます。ただ十全な観念は真の観念idea veraとは異なり,観念の外来的特徴denominatio extrinsecaには依拠しませんから,確かに物体としての円がこのように発生するのでなくとも,この観念の対象ideatumとして円の形相的有esse formaleがあるといえると僕は考えています。