26日に倉敷市芸文館で指された第25期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
駆け引きのある序盤から後手の伊藤沙恵女流二段の向飛車に先手の里見香奈倉敷藤花が居飛車で対抗という意外な戦型に。先手が左美濃,後手が銀冠で先手から先攻。仕掛けてよくなったわけではありませんが悪くもならなかったという感じだったのではないでしょうか。

4六で先手の角と後手の馬が交換になった局面。後手が桂馬を得していますが先手も取り返すことはできそうなので難解な中盤といえると思います。
後手は☖2九角と打ちました。これは悪い手ではなかったと思いますが,後手はこの後の進展には自信が持てなかったようなので,☖4七角と打って☖2九角成を狙った方がよかったかもしれません。
☗4八飛と逃げて☖3六桂に☗6八飛と逃げました。手順でいえば桂馬を打たせた形で,この交換は先手の得になっていた可能性が高いです。後手は☖4七角成と馬を作り先手は☗8五歩と突きました。
これを☖同歩と取ると☗8四歩☖同銀☗3二歩成☖同金☗5一角☖7三銀☗4二角成☖同金が両対局者の一致した読み筋。その局面はまだ難解で,後手はそう進めるのが有力でした。しかし後手はその手順は悪いとみて☖5一金と受けました。結果的にいえば前述の手順で自身が悪いとみた大局観がよくなかったようです。
☗8四歩と取り込み☖同銀☗8五歩☖7三銀。そこで☗3二歩成☖5二飛に☗2五角と離して打ったのが好手順でした。

第2図から☖5三飛は仕方ありませんが先手はと金で桂馬と香車を取る展開となりました。後手は先に得した桂馬をあまり働かない形で打ってしまっているため,ここでは先手がよくなっています。
連勝で里見倉敷藤花の防衛。第16期,17期,18期,19期,20期,23期,24期に続き三連覇で通算8期目の倉敷藤花です。
円の定義Definitioが虚構であるということは,スピノザ自身がいっていることです。僕はこのいい方からは,スピノザの哲学において数学というのがどういう学問としてみなされ得るのかということがひとつの課題として生じてくるという考えをもっています。定義が虚構であるなら,あるいは虚構であることが許されるのであれば,数学の全体が虚構としての学問である,いい換えれば実在的な対象を有さないような学問であるという可能性を排除することができないのではないかとも思われるからです。ですがこのことについては今は考えません。たぶんいずれ考察の対象とする時期が到来するであろうといっておきます。
一方,僕自身はすでにいったように,これは虚構であったとしても,知的操作によってあるいは精神の能動actio Mentisによって知性intellectusのうちにこのような円の観念ideaが発生するのであれば,それは理性の有entia rationisではなくて客観的有esse objectivumすなわち観念それも円の十全な観念idea adaequataであるという考え方を有しています。この理由についてはここで説明しておかなければならないでしょう。
第二部定理七系の意味は,神Deusのうちにある観念はすべて十全であるということです。そして第二部定理一一系により,人間の精神mens humanaは神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusの一部です。したがって,ある人間の精神の本性natura,essentiaを構成する限りで神のうちに円の十全な観念があるならば,その人間の精神のうちには円の十全な観念があります。他面からいえばその限りでその人間の精神のうちにある円の観念は,第二部定理七系でいわれている,神のうちに起こる観念と同一です。このことは,人間の精神というのは,その人間の精神という様態的変状modificatioに様態化した限りでの神であるということからも明らかでしょう。
次に,再び第二部定理七系から分かるのは,もし神のうちにXの観念があるなら,つまりXの客観的有があるなら,Xは知性の外にも有としてある,すなわち形相的有esse formaleとしてもあるということです。したがって,人間の精神のうちに円の客観的有があるなら,その外来的特徴denominatio extrinsecaに着目せずとも,円が形相的有としても存在するということを,その人間は知り得ます。これは第二部定理三四と第二部定理四三から明らかです。
駆け引きのある序盤から後手の伊藤沙恵女流二段の向飛車に先手の里見香奈倉敷藤花が居飛車で対抗という意外な戦型に。先手が左美濃,後手が銀冠で先手から先攻。仕掛けてよくなったわけではありませんが悪くもならなかったという感じだったのではないでしょうか。

4六で先手の角と後手の馬が交換になった局面。後手が桂馬を得していますが先手も取り返すことはできそうなので難解な中盤といえると思います。
後手は☖2九角と打ちました。これは悪い手ではなかったと思いますが,後手はこの後の進展には自信が持てなかったようなので,☖4七角と打って☖2九角成を狙った方がよかったかもしれません。
☗4八飛と逃げて☖3六桂に☗6八飛と逃げました。手順でいえば桂馬を打たせた形で,この交換は先手の得になっていた可能性が高いです。後手は☖4七角成と馬を作り先手は☗8五歩と突きました。
これを☖同歩と取ると☗8四歩☖同銀☗3二歩成☖同金☗5一角☖7三銀☗4二角成☖同金が両対局者の一致した読み筋。その局面はまだ難解で,後手はそう進めるのが有力でした。しかし後手はその手順は悪いとみて☖5一金と受けました。結果的にいえば前述の手順で自身が悪いとみた大局観がよくなかったようです。
☗8四歩と取り込み☖同銀☗8五歩☖7三銀。そこで☗3二歩成☖5二飛に☗2五角と離して打ったのが好手順でした。

第2図から☖5三飛は仕方ありませんが先手はと金で桂馬と香車を取る展開となりました。後手は先に得した桂馬をあまり働かない形で打ってしまっているため,ここでは先手がよくなっています。
連勝で里見倉敷藤花の防衛。第16期,17期,18期,19期,20期,23期,24期に続き三連覇で通算8期目の倉敷藤花です。
円の定義Definitioが虚構であるということは,スピノザ自身がいっていることです。僕はこのいい方からは,スピノザの哲学において数学というのがどういう学問としてみなされ得るのかということがひとつの課題として生じてくるという考えをもっています。定義が虚構であるなら,あるいは虚構であることが許されるのであれば,数学の全体が虚構としての学問である,いい換えれば実在的な対象を有さないような学問であるという可能性を排除することができないのではないかとも思われるからです。ですがこのことについては今は考えません。たぶんいずれ考察の対象とする時期が到来するであろうといっておきます。
一方,僕自身はすでにいったように,これは虚構であったとしても,知的操作によってあるいは精神の能動actio Mentisによって知性intellectusのうちにこのような円の観念ideaが発生するのであれば,それは理性の有entia rationisではなくて客観的有esse objectivumすなわち観念それも円の十全な観念idea adaequataであるという考え方を有しています。この理由についてはここで説明しておかなければならないでしょう。
第二部定理七系の意味は,神Deusのうちにある観念はすべて十全であるということです。そして第二部定理一一系により,人間の精神mens humanaは神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusの一部です。したがって,ある人間の精神の本性natura,essentiaを構成する限りで神のうちに円の十全な観念があるならば,その人間の精神のうちには円の十全な観念があります。他面からいえばその限りでその人間の精神のうちにある円の観念は,第二部定理七系でいわれている,神のうちに起こる観念と同一です。このことは,人間の精神というのは,その人間の精神という様態的変状modificatioに様態化した限りでの神であるということからも明らかでしょう。
次に,再び第二部定理七系から分かるのは,もし神のうちにXの観念があるなら,つまりXの客観的有があるなら,Xは知性の外にも有としてある,すなわち形相的有esse formaleとしてもあるということです。したがって,人間の精神のうちに円の客観的有があるなら,その外来的特徴denominatio extrinsecaに着目せずとも,円が形相的有としても存在するということを,その人間は知り得ます。これは第二部定理三四と第二部定理四三から明らかです。