書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

放置。

2012年07月23日 16時26分40秒 | 意識論関連

○放置。

 2012年7月23日 政府の事故調査委員会報告書が提出されたが、結局ヒトがどうして無責任になるのかという習性傾向にまでは言及しなかったようである。

 まだ読んでないけど、公開されてるのかな。

 畑村洋太郎は多くの航空機事故などの重大事故調査を行っており、人災におけるヒトの無責任性、自律的な社会的責任判断の重要性も述べている。

 ヒトが自律的に社会的責任を果たさなくなる心理構造の解析は工学の領域ではないとして無視するのは無責任である。

 東電に対して想定外を認めないにも関わらず、工学だからヒトの心理構造の分析まではやらないというのはおかしな話である。

 ヒトという種の生物が引き起こす人為的災害というのは、ヒトの本能習性による行動結果であることに論理的反証は全くなく。ただ、生物学による論理的根拠もない非科学的観念しか出てこない。

 現在の生物学におけるヒトの本能習性行動の結果は、単に文化系大衆観念的満足安心を与えるだけのペテンに過ぎず。何らヒトが自律的に社会的責任判断を放棄する心理構造については無視されたままである。

 人災というものはヒトの自律的な社会的責任判断の欠落の結果を指すものであり。自律的な社会的責任判断こそが人間としての極めて基本的で必要不可欠な素養である。

 自律的な社会的責任判断というものは、必ずしも世間的成功や評価報酬を得られるとは限らず、内部告発者が排除差別の対象となることも珍しくはない。

 文系大衆観念上では世間的な成功や評価報酬こそが人間の価値として扱われ、自律的な社会的責任判断によって世間的に排除されれば「バカ」扱いされるのである。

 こうした文系大衆観念による、本質的人間の価値観の歪みが放置されていれば、自律的な社会的責任の重要性など誰も認識しなくなる。こうしたヒトの根源的無責任性の原因にまで言及しなければ、あらゆる人災の予防措置にはならない。

 危険学は、実際に重大事象に発展した後から文句をたれるだけであり。あらゆる人災における普遍的ヒトの無責任性の構造に基づく普遍的対策をしないつもりであろうか。

 それで「想定外」云々を他人に言うのは支離滅裂である。



Ende;

悪質。

2012年07月23日 16時25分20秒 | 意識論関連

○悪質。

 動物学という分野は、動物と人間との違いを研究するのだと言う。しかし、実際にはヒトとヒト以外の動物との差異を枚挙しているだけであり、これは理論的には「ヒトの特異性」の論証にしかならず、何ら「人間としての特異性」や「ヒトの人間性」の論証にはなっていない。

 チンパンジーがやらずにヒトだけが行う行為を抽出しても、それはヒトの特異性の抽出でしかなく。それを短絡的に人間性と言い張るのは論理検証性が欠落している。

 ヒトの無意識的な「自然な行動」の全てに人間性が伴うわけではなく、アイヒマン実験において権威に服従して他人に危害を加えてしまうことも、またヒトの「自然な行動」の結果なのである。そもそも「自然な行動」とは無意識な本能感情に則した行動を指すものであり、単なる「無意識行動」のことに過ぎない。



 脳の扁桃核というものは、気分的安心満足か恐怖嫌悪かを本能的に作り出すものである。ヒトの扁桃核は相手の表情に敏感に反応し、たとえ視覚認知が出来なくとも表情だけは読み取ることが可能である場合もあるという。(「ブラインドサイト」というらしい。)

 ヒトが本能的に相手の表情に敏感であるという「結果」は必ずしも自律的な社会的責任判断を促す訳ではなく、むしろ目先の集団組織に迎合することで社会的責任判断を喪失する原因でもある。

 単に気分的に「良い人間関係」を構築するだけなら振り込め詐欺師集団でもシエラレオネの少年ゲリラでもナチスでもオウム教団などのカルト集団内部でも可能である。目先の集団内部で「良い人間関係」を構築するのはヒトの本能的社会形成習性の「結果」であって、「結果」の全てに後から意味をこじつけ「本能=人間性」という観念を正当化することは科学的論証ではなく。あくまで文系大衆観念への迎合であって、理論的な人間性の論証には全くならない。

 集団内部だけで利益を分配し、他人の機嫌を窺い、封建的な集団を形成し、統率的協調行動を採りさえすれば人間性の論証になるわけではない。

 組織の利益を優先し、社会全体の安全性を無視した東電幹部や社員達であっても、これらのヒト固有の動物本能的条件反射行動を採ることは可能であり。むしろこうしたヒト固有の動物本能的条件反射/無意識行動こそが組織内部の利益だけに意識を狭窄化させる原因なのである。

 ヒトは無意識的な本能行動としては、目先の集団との迎合によって生存価に適してきた。その結果として目先の集団に迎合し自律的な判断を簡単に放棄する本能習性を獲得「してしまって。」いるのである。

 オウム教団やナチズムなどのカルト集団が必ずしも淘汰の対象になるとは限らず、むしろ盲目的カルト集団の方が強大な力を発揮し、生存価に適した可能性は否定出来ない。実際古代の歴史書には公平性のない封建的社会や、統率集団暴力を用いた侵略による支配の話ばかりが遺され。また、暴力支配の首謀者を英雄扱いするのが文系大衆観念である。

 暴力を用いた統率や、盲目的服従という忠誠忠実性を美徳とした観念による偏った正義、力の強大さによる結果的生存を事後正当化することによって得られる短絡的満足、暴力や権威に服従することによって得られる本能的安心、仲間同士での観念の共有による気分的な「絆」感覚。これらの本能無意識によるヒトの「自然な行動」の結果が常に人間としての社会的責任判断が伴うわけではなく、むしろ多くの場合短絡的で合理性のない感情的最終解決に導くものである。

 ヒトはカルト集団に迎合した個体に淘汰された結果的に、自律的判断を簡単に放棄する本能的仕組みが組み込まれているために、ヒトの多くは簡単にアイヒマン実験や監獄実験での暴走を呈すると考えられる。

 ヒトが持つ本能行動の結果的暴走性を無視すれば、あらゆるヒトの暴走性は意識から外され、無視され、「なかったこと。」として処理され、放置されることになる。文系大衆観念上、それこそが気分的満足を提供し、思考停止を促し論理検証性を放棄させるのである。

 文系大衆観念というものは、本能に基づく気分的に安心満足を得るだけの非合理不条理な観念であり。これこそが論理的思考による検証性への拒絶反応を作り出すのである。

 どのみち、本能習性による行動の結果は、常に無意識な「結果」以上の何も生み出さず、意識的に選択した目的とは無関係であり、意識的論理検証を伴う人間性の論証にはならない。

 ヒトの本能的で無意識な行動結果から、人間性に適した行動習性だけを抽出枚挙しても、短絡的に「ヒト=人間」であることの論理的証明にはならない。

 文系観念的には、ヒトの無意識行動の結果に対して事後正当化のこじつけをしておけば、あたかも「ヒトとは常に人間性を発揮出来るものである。」と勝手に思い込むことは簡単である。文系観念上ではそれこそが安心であり思考停止の満足を与える麻薬/本能的快楽であるからだ。

 本能的無意識行動がヒトの危険性を含み、「ヒト=人間」という観念への反証は、文系観念よる本能的快楽をもたらさないため、観念的拒絶反応によって無視し、意識から外し、安心満足によって論理検証を放棄させるために、従来の生物学上の観念が無為に放置されるのである。

 どんなにヒトという種の生物の本能的「結果」を抽出枚挙しても、実際に発生する差別排除や虐殺虐待、自律的な社会的責任を負わない無責任さの反証には全くならないばかりか、ヒトが引き起こすあらゆる問題が本能に由来することを撹乱するものであり、これは科学者として無責任であり悪質である。

 イジメを行う子供が本能的なヒトの行動習性を持っていないわけではなく。むしろ本能的な社会形成習性によって封建的統率による協調性の結果としてイジメを行っているのである。

 イジメなどの非人間的行動結果を「なかったこと」にしておけば、「ヒト=人間」という観念の反証を無視しておくことが出来るため。文系観念者は意図的に都合の良い「結果」だけを抽出しているのである。

 本能的な無意識行動の結果を、何が何でも「ヒト=人間」の論証であることにしていれば、ヒトの残虐性は無視され、あらゆるヒトが引き起こす無意識由来の問題行動は「なかったこと。」に黙殺される。

 これは言うなれば、生物学はヒトのイジメなどの残虐性を無視し、問題解決を撹乱しているということである。これを悪質と言わずに何と形容すべきであろう。

 生物学者達は自分達の論理検証性の欠落を認めないことによって、組織の利益を優先し、現状体制を維持することしか考えていない。その結果イジメなどの残虐性の原因構造が解析されず、再発防止策が確立出来なくても構わないのである。

 どうせ大衆はバカなので、科学的論証など理解出来ないとタカを括っているのであろう。

 それを悪質であると認識できない大衆やマスコミの意識にも問題がある。


 生物学における生存価とは、あくまで結果を事後正当化するためのこじつけであって、生存してさえいれば人間性の論証になるという短絡的な帰結が導き出せるわけではない。

 シエラレオネの少年ゲリラ社会においては、残虐性の競争こそが生存価であり。これは学校における子供のイジメと同じ構造である。

 イジメによって命を落とした個体が生存価に適さなかったとするのであれば、イジメは生物学上正当化されると言うことである。だからこそ「イジメられる方にも問題がある。」などという大衆観念がいつまでもなくならない。

 それならナチズムによるユダヤ人虐殺の結果、命を落としたユダヤ人を優生学上の劣性個体と見なすのと同じことである。

 本能気分による「自然な行動」の結果の全てに事後正当化のこじつけをしてしまえば、何が起きても全ては生物学の神の思し召しであり、これは完全にカルト宗教である。

 現在の生物学は優生学というオカルトに明確な反論を持たない。それは現在の生物学自体がオカルトだからである。

 大衆観念的な「ヒト=人間」という短絡的解釈に寄り添った、ご都合主義による一面的立証に基づいたこじつけというものは、大衆のご機嫌を損ねるような都合の悪い現象を無視し、客観性のない極めて「ヒト」にとって都合の良い言い逃れ/取り繕いでしかない。

 「ヒト=人間」という短絡的決め付けをしておけば、気分的には安心であろう。しかし、それこそがヒトの残虐性や暴力性、組織集団における危険性の放置を作り出すのである。

 大衆観念的には安心と安全はセットにしておきたいのであろうが、気分的な安心こそが合理的安全性を喪失させる本能習性的原因であり、思考停止による無為無策に陥れる無意識への誘惑である。

 安全性の確立というのは、徹頭徹尾合理的根拠によって導き出されるものであり、気分的な安心とは無関係である。

 気分的安心と理論的安全性の区別、分別がつかないからこそ、あらゆるヒトの危険性が放置されてしまうのである。

 生物学はシエラレオネの少年ゲリラの行動を、ヒトの本能的行動習性としては取り扱わない。それは「ヒト=人間」という現在の生物学の観念や文系大衆観念にとって都合が悪いからである。このように偏った解釈に基づいた論証を繰り返している限り、ヒトの残虐性は「なかったこと。」にされ、一切原因究明も対策も行われることはない。

 人文諸科学において歴史上の虐殺支配は英雄である。こうした身勝手な観念に基づいたものを「科学」として取り扱うこと自体がとんでもない大間違いであり、大嘘である。

 結果的に生存していたことを無批判に事後正当化してしまえば、生きていさえすれば何をしても構わないということである。こうした生物学上の観念こそが「人間性とは何か。」への論理検証性を撹乱し、「ヒト=人間」という短絡的で安易な結論へのこじつけを放置するのである。

 問題意識というものの本質は、気分的に恐怖を感じるかどうかではなく。理論的合理性が欠如している話を無批判に放置しない「考え」によって促されるものである。

 ヒトの多くは感情気分による安心か恐怖かでしか行動が左右されない傾向がある。気分的に安心でさえあれば論理的に不条理であっても放置する習性があるのだ。


 嫌な話を繰り返しておこう。

 ヒトは誰も自分自身の意識的選択によって産まれて来たわけではない。自分の遺伝的性質や本能といったものも自分自身で意識的に選択したものではない。

 遺伝的性質を自己自身で選択していない以上、自己の脳に組み込まれた本能は自分自身の選択は介在していない。

 自分で選択していない本能ということは、本能というものは本質的には自己自身の意思や意識とは無関係であり、単なる結果でしかない。

 自分で造った脳でない以上、その脳から出てくるあらゆる本能習性は自己自身の選択が介在していないのである。

 本質的な自己自身の意思、意識的選択とは。目先の固定観念に基づいた気分感情に流されることなく合理性を徹底的に追究した結果に導き出される「目的。」である。

 しかし、ヒトの多くは合理的「目的。」というものを、目先の利己的本能や固定観念によって思考停止された短絡的な動機に基づいた「目的。」だと錯覚し、カントの「純粋理性批判」を鵜呑みにして合理性追究への観念的拒絶反応によって、目先の気分的安心満足こそが人間性を伴った「心。」であると勝手に解釈する。

 自分の気分にとって嫌な話を無視し、自分の愚かさを「なかったこと」にして満足し、権威に責任を丸投げして安心することによって、自己自身の自発的「考え」や、自律的な社会的責任判断を放棄するのである。

 「自分が愚かだと思ったら、やってられないじゃありませんか。」などというのは、本能習性が促す気分の多数共有に過ぎないのである。

 本能習性が促す気分をどんなに沢山抽出枚挙しても、それは結果の枚挙以上の何物でもなく。何ら意識的に選択する「目的。」の論証には全くならない。

 ヒトの多くは気分的な「思い。」と、論理的「考え」の明確な区別をしていない。この明確な区別を行うのは論理検証という「考え」であって、気分的な「思い。」がどんなに強力であっても、それは「考え」にはならない。

 ヒトの多くは感情的に強く「思った。」ことや「悩んだ。」ことを、あたかも深く「考え」たものであると錯覚する。気分感情をどんなに必死に働かせても、それは論理的な「考え」ではないことを、多くのヒトは認識できないのである。

 こうした錯覚こそが、多くのヒトを凡人たらしめているヒトの習性的構造であり。特定の権威者を天才扱いすることによって自己の凡庸さを正当化出来ると、愚かさの免罪符にすりかえられると満足し、勘違いしているのである。

 ヒトの多くは「気分的快楽=頭が良くなった。」と錯覚する。そのため大衆観念に寄り添ったオカルトに簡単に引っ掛かり、逆に気分の悪い嫌な話に観念的拒絶反応を示すのである。言うなれば、ヒトの脳というのはバカになることが快楽になるような仕組みが組み込まれているのである。

 未だに脳科学は脳血流増加こそが絶対的効果であると言い張るが、脳トレ類における根拠とされた脳血流増加には何ら具体的な効果の論証など存在しておらず、単なる脳内の現象論を短絡的に効果であると決め付けているだけの実証不能の観念に過ぎない。

 ヒトというのは本能習性的に、特定の個人や集団への盲目的信頼を持つことが気分的安心な心理構造を持っている。そのため疑うことを観念的に拒絶する性質があり、自律的論理検証に基づく批判精神を簡単に喪失する。

 気分的安心ばかりを求めていれば、必然的に本能習性に従った「結果」にしか至ることはなく、自律的自発的に選択すべき「目的」を簡単に喪失する。

 目的がなければ結果しか導き出されないのは必然である。選択の余地以前に、自己自身の意識的選択自体が介在していないのであるから、結果以外には何も導き出されることはない。

 本能的に気分的安心ばかりを追究していれば、本能習性の「結果」以外何も出てこないのは当たり前なのである。

 イジメが横行している教室において、イジメられる被害者にならない最も短絡的選択は加害者に回ることである。目先の多数集団に迎合し、共通の排除対象を共有することに専念すれば排除差別の強度を競争することに陥る。

 統合的な合理性を多少なりとも考えていれば、イジメが世間に露見すればイジメを行っている方が排除差別の対象にされることは誰もがわかっているはずである。

 シエラレオネの少年ゲリラの残虐性も、集団内部で残虐性を競争することで集団内部での評価を得ようとした結果であり。歯止めの効かない無意識による暴走の結末である。

 競争とは原理であり構造である。シーケンシャルな機械的条件反射であり、無意識行動である。予め組み込まれた自己選択を一切介さない本能習性の結果に無為に流された結果が暴走を引き起こすのは当たり前である。



 競争原理を利用して盲目的に学力競争に意識を整理狭窄化させるような教育をしているから誰も自律的に暴走を止める意思が働かなくなるのである。

 子供自身の本質的な自発性を重んじる教育をせず、ただ均一な学力レベルの確保ばかり追究していれば、自律的に暴走を止める意思が働かなくなるのは当たり前である。それは教育者による短絡的ノルマ達成に過ぎず、文字通りの機械的「お役所仕事」でしかない。

 機械手続き的制度に漫然と迎合しているだけなら問題が解決しないのは当たり前である。ヒトが引き起こす問題行動というものは極めて多様性があり、機械手続き的な社会制度では全ての問題に対応することは原理的に不可能なのである。機械的手続きに依存し、個人の自律的行動選択を全く行わなければ、そこには「人間」が存在しないのと同じである。

 しかし、ヒトが引き起こす問題行動であれば、ヒトが予測し対処することは不可能ではない。所詮はヒトが引き起こしている問題であって人災であり、天災地災ではないからだ。

 あらゆるヒトの引き起こす問題を解決するのは、ヒトの本能習性の結果や既存の制度法律ではなく。自律的な意思を持った人間による合理性のある対処対応である。

 バカなガキと話を丸めて表面的に社会更生させることは簡単である。しかしそれは単なるご機嫌取りに過ぎず、何ら合理性のある対処対応ではない。バカガキが「マトモに向き合ってくれる大人がいなかった。」などと言っている時点で、自分の行動責任を他人になすりつけている根本的な観念は全く改善していないのである。

 いちいち「マトモに向き合う大人。」という他人を必要とせず、自律的に自分の行動を抑制選択できるようにならなければ、本質的な人間性を獲得しているとは言えないのである。

 制度、体制、法律に依存して自律的には何も改善しないことも、結局はバカガキと同じであり、無責任なのである。

 「法律や制度が不十分だったから原発が暴走した。」などという戯言は、自律のないバカの言い逃れ/取り繕いに過ぎない。完全に当人達の自律的な社会的責任判断を無視し、社会制度に依存することを正当化しようとしているだけではないか。

 こんなバカみたいな結論は要らない。


Ende;

手抜き2。

2012年07月23日 16時24分34秒 | 意識論関連

○手抜き。

 排気量が250㏄以下だと車検がないから取り締まらず違法改造車を放置するのは警察の手抜き。

 警察というのは社会安全性とか公平性よりも、取り締まり点数しか眼中にないので、点数にならない違法改造車の取り締まりはしないのである。

 これでは「エサ」に対する反射的行動しかしない「公権の犬」と言われても仕方ない。

 どう見ても違法改造の車両であるなら容赦なく取り締まるべきであるが、その自律は警察にはない。


 刑罰や警告による抑圧では、根本的な個人の自律判断能力を持たせることにはならないが、自律的に社会的責任判断をしないバカの場合はイヌと同じで、力ずくで抑圧しないといくらでも頭に乗ってしまう。

 バカというのは気分的に安心なら、いくらでも頭に乗るからバカなのである。

 バカの判断基準は「恐くない」とか「カッコイイ」だけであり、これは明らかに子供じみた価値観に基づいた判断基準である。

 とりあえずの暫定的措置として力による恐怖心を用いた観念的抑圧によって、法令遵守を強制するのは決して根本的問題の解決にはならないが、バカを制御するにはバカげた手段も暫定的には必要ではある。

 まあ、要するにうるさいバカ車には「うるさい、迷惑だろ。」と文句を言え。

 「法律がないから。」だとか言い出すなら、正に法手続きや社会制度というものの無効性の証明に他ならないではないか。

 既存の社会制度や法手続きさえ実行しておけば、全ての問題が解決するものであると安心満足し勘違いしているから、誰も言われたこと以外に何ら問題意識が働かないのである。

 問題意識のない者というのは、与えられた仕事以外は「エサ」評価報酬に結びつかないので、可能な限り手抜きをしようとする。手抜きを「得」だと思っているのである。

 利己的な「得」という目先の「効用」ばかり個人が追究しているから、社会全体の公的利益が蔑ろにされることになるのである。


 そもそも他人の迷惑を考えたがらない者というのは、他人の迷惑を考えない者への迎合であり。カッコイイだとか勝手に思い込んでいるからである。

 迷惑な者に対して自分が文句を言う勇気がないために、世の中の全てのヒトは迷惑な者に対して誰も文句を言えないものであると勝手に決め付け、迷惑な者こそが自由だと勘違いしているのである。

 それは極めて子供じみた観念である。

 暴走族を検挙すると以外と従順だったりするが、これを警察は「素直」と勘違いする。暴走族というのはそもそも服従相手に服従することで本能的安心が欲しいだけであり、警察に検挙されて急に警察官に従順になるのは服従対象がその場限りに転移しているに過ぎない。

 その場限りに従順さを発揮することを「素直」だと勘違いするのは文系大衆観念特有の錯覚である。

 行き当たり場当たりに従順になることは、極めてその場限りの無責任な行動であり。これは単なる「卑屈」さに過ぎない。

 自律的に社会的責任判断を伴ってこそ、「素直」と形容することも可能だが、その場限りに迎合するのはシツケの悪いペットの行動と全く同じものである。

 生物本能的社会形成習性を持つイヌにとって、服従対象は麻薬と同じである。

 カルト宗教一本に従順な信者は刷り込み学習が激しい鳥類の脳と同じであり、その場限りにコロコロと服従対象を転移させるのはイヌの行動習性と同じものである。

 自律的に社会的責任判断を常におこなう「考え」なくして「ヒト」ではあっても「人間」ではない。

 現状の日本の教育システムでは、子供に自発的好奇心による思考や検証性といったものを持たせず、ただ恐怖や力を用いて強迫観念的に学力競争しか植え付けていない。これでは自発的な「考え」を放棄するようになるのも必然というものである。

 教育の目的とは、社会にとって有用な、自発的に問題解決が出来る人材を育てることであって、「言われたこと以外何も出来ないバカ。」を大量生産することではない。

 従来の教育システム制度の中で育ってきたバカが教育機関を構成しているから、何らイジメなどの問題を自発的には解決することが全く出来ないのである。

 子供がバカなのは大人の責任であるが、大人でありながら従来の制度システムの問題を解決できないというのは怠惰怠慢でしかなかろう。

 バカというのは連鎖するものである。

 そもそも連鎖しか出来ない状態そのものが「脳がバカになっている。」状態と言うのである。



Ende;

組織的手抜き。

2012年07月23日 16時23分15秒 | 意識論関連

○集団組織的手抜き。

 簡単にぶちギレるような動物的でヒステリックな者に対して、ヒトの多くは気分的に面倒臭いために観念して服従する習性がある。

 ヒトという種の生物というのは、服従する相手を必ずしも論理的に検証して選択する訳ではなく、目先の感情気分に基づき、目先の多数集団に迎合してしまう習性がある。

 ヒトの多くは意識的目的として、合理的判断に基づく目的のための統率的協調行動のための服従ではなく。単なる目先の感情気分を満たすだけの結果的統率協調行動に流される傾向習性がある。

 イジメを扇動するような相手に対し、多くのヒトは迎合し、結果的に組織的イジメを統率的協調行動「してしまう。」のである。当然「してしまう。」というのは個人の自律的意思は介在しておらず無意識の「結果」でしかない。

 こうした無意識こそがあらゆる集団組織腐敗の原因であり、個人の自律的判断を放棄させるのである。

 イジメによる自殺や傷害事件という「結果」や、原発の暴走という「結果」に至るまで集団組織の腐敗性を放置してしまうのは、集団組織を構成する一人一人の個人の意識的自律判断が全く働いておらず、無意識的に本能によって促される動物的服従迎合性に流された結果として、暴走破綻に至って「しまう。」のである。

 制度や法律といったシステムというものは、あくまで機械的条件反射行動を促すだけであって、個人の自律的な社会的責任判断を促すようなものではない。

 ヒトには自律的な社会的責任判断可能性があり、これを阻害するのは本能的な世間への迎合服従性による無意識な判断撹乱、思考停止が働くからである。

 目先の多数世間に迎合したり、力を持った相手の命令に盲目的に服従してしまえば、個人が自律的に社会的責任判断を行わなくてはなるのは必然的結果である。

 通り魔などの単独犯罪においても、その動機には世間への復讐という現状世間に対する無為無策な迎合性が根源にあり、当然行動自体はには何の合理性もなく、単なる気分的満足のための行動に過ぎない。

 現状世間における価値観を鵜呑みにしているからこそ、自己自身の本質的満足が一切出来ず、その不満を全て自分以外になすりつける形で通り魔は実行されるのである。

 「他人に認めてもらいたい。」という、他者からの評価報酬を目的にしていることこそが、本質的自発性の欠如、自己自身の価値観を持たない証明である。どんなに外見上「自発的」に見えるとしても、現状世間からの評価を求めることは本質的な自発性ではない。 

 当然自発性がなければ自律判断も行われることはない。これは定理である。

 感情的でヒステリック暴力的な者に対する無為で盲目的服従を多数で共有迎合していれば、暴力こそが世間的価値観として刷り込み学習されてしまうことになる。バスジャックを「カッコイイ」などと思い込むのは、そこに自律的論理検証性が全く働いていないからこその結果である。

 「合理性追究」という言葉への観念的拒絶反応によって、論理検証性の重要性を無視するというのは、意識狭窄であり精神的怠慢である。論理的反論が全くないにも関わらず観念的気分的拒絶反応に流されているのも、そこに本質的な自己自身による自律的論理検証性が働いていないからである。

 論理的に何が正しいのかを自律的に判断できなければ、何も「考え」が成立しないのは当たり前であり、自律的に論理検証することこそが「考え」なのである。

 ところがヒトの多くは自律的論理検証を放棄し、多数他人の意見に論理的根拠が欠落しているとしても看過し、問題の根源がどこにあるのかを自発的には認識せず、気分的に安心して諸問題を放置する傾向習性がある。

 特定個人を天才と称して特別扱いしたがるのも、多数の凡庸さを正当化するための免罪符にすりかえようとする言い逃れ/取り繕いに過ぎない。バカであることを多数で共有すればバカであることが正当化されるわけではない。



 制度や法律といったものは、いわば抗生物質のような対処療法であり。犯罪や危険性放置というものはウイルスのように次々と進化変化する多様性を持っているために、最終的には効力を失うものである。

 脱法麻薬類などはその典型である。

 刃物を何に用いるか、その選択こそが通り魔と調理の違いであり、法律手続きによる機械的抑圧によって通り魔を抑制することは原理的に不可能なのである。

 機械手続き的な抑圧という、実質的有効性を持たない手段だけしか行わないというのは、単なる手抜き怠慢である。

 ヒトの多くは気分的に面倒臭いことを観念的に拒絶し、社会の危険性を放置しがちである。子供のイジメを些細であると程度問題やバランス問題という観念的解釈にすりかえることによって、結果的にあらゆるヒトの問題は放置されることになり。小さな事象を放置した結果として大きな事象が発生するまで放置することになるのである。

 原発を暴走にまで放置した東電幹部や社員達の無能さを作り出したのは、ことなかれ主義的で自律的には何も「考え」ることのない者を大量生産した教育機関にも問題の一端は免れない。

 ハインリッヒの法則というものを、重大事象に発展する前の予防的対策の必要性として認識していないから、あらゆる危険性は放置されるのである。

 どんなに学力が高くても、人間として出来損ないでは意味がない。優先すべきは自律的思考であって、「教えたことを鵜呑みにする。」ことではない。どんなに沢山の知識を詰め込んでも、自律的思考がなければ教えたこと以上の何も気付くことは出来ず、何ら本質的な知能は発揮されることはないのである。間違いを教えても自律的に気付くことができない高学力なエリートが毒ガステロを実行したことを忘れるべきではない。

 何が論理根拠のない観念的解釈であるか、何が合理的根拠のある理論的理解であるか。その区別は論理検証による「考え」でしか導き出すことは出来ない。これは決して観念的なバランス問題や程度問題によって区別されるべきものではない。



 個人が自律的に論理検証をしないから、あらゆる諸問題や危険性が放置されるのである。

 「想定外」などというのは、はじめから想定すること自体を誰も行わないという自発性の欠落の結果であり。何ら言い訳にはならない。

 危険性というものを程度問題にすりかえ放置した怠慢の言い逃れとして「想定外」という言葉が用いられることがあまりに多すぎる。想定可能なものを意識から外し無視しただけのことを「想定外」と言い逃れしているに過ぎない。

 教育機関が学力を優先するのは、教育機関の組織の利益を優先して社会的責任を放棄しているからである。教育機関における本質的社会的役割とは、自律的に社会的責任判断を行える人材を社会に輩出することであって、単なる学力バカを大量生産することなどではない。

 養老孟司のようなキチガイを名誉教授扱いしている東大に合格しても、キチガイをキチガイと認識出来ないバカしか生産されることはない。バカというのはキチガイが誘導する実証不能の観念に迎合し満足する者のことを指すのである。それなら地下鉄に毒ガスを撒いて「人類の救済。」だと勘違いするのも必然である。




 他人の迷惑を気遣うのと、多数に服従迎合することの違いは、そこに自発的自律的判断が伴うかどうかである。本質的な自発的「考え」がなければ、それが区別出来ないのは当然である。




Ende;

責任。

2012年07月23日 16時22分00秒 | 意識論関連

○責任。

 暴力を用いた報復を正義として正当化してしまうと、暴力性自体を正当化してしまうことになる。

 権力による暴力を用いた報復を正当であるとしていれば、力に依存した集団的暴力性に対する不当性の論理的反証も失うことになる。

 暴力を用いた抑圧というものは、恐怖という気分的な強制であり。個人の自律判断を無視した環境依存的他律である。

 環境依存的な他律強制性というものには自律判断を必要としないものであり、個人から自律的社会的責任判断能力を喪失させる大きな要因となっている。

 大人が刑罰/報復という気分的満足を追究しておいて、子供達が自律的に合理性ある社会持続可能性や安全性を追究するようになる訳もなく、あたかも世代間連鎖の如く漫然と合理性のない他律強制性が慣習的に継続保守されてしまうのである。

 力、権力による強制性を多数決的に正当化しているからこそ、イジメのような強制力の行使にも誰も疑問を持たなくなるのである。

 権力による強制性に対して、その合理的正当性の欠落に誰も言及しないからこそ、力による他人への強制性にも誰も疑問を持つことをしなくなるのである。

 刑法による強制的抑圧というものが作り出す恐怖心とは、自律的に社会の持続可能性や安全性を基準にした個人の思考選択を促さず、あくまで気分精神という無意識的抑制しか促さない。

 気分精神による無意識的抑制というものは、あくまで気分的実感を伴わなければ実効性が働かないものであり。仲間集団などの内部で身勝手な気分的安心を共有してしまえば、全く抑止効力を持ち得ない極めて限定的なものである。また、無意識による安心感というものは原理的に自律的思考判断が伴わず、固定観念的に危険行為も迷惑行為も無為無策に放置されてしまう要因ともなっている。


 他人の迷惑を考えることを、「他人からの抑圧に負けた。」ような錯覚することにより、外見上の「勝ち。」を顕示するために、わざと他人に迷惑をかけようとする性質があるが。こうした自律も意識も働いていないバカな者というのは、暴力的に「強い。」相手に対して簡単に観念し、服従迎合してしまう傾向がある。

 暴力的「強さ」というものに対する「格好良さ。」という感情は、本能的な服従迎合性を満足させ、その結果、より暴力的な者に対する統率的な協調行動を発露させる習性傾向がヒトにはあり。これがシエラレオネの少年ゲリラや暴力団などの残虐性を暴走させる原因である。

 無思考なヒトの多くは「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという論理的根拠のない観念に何ら疑問を持たず、無為無策に国家権力に服従することによって気分的に安心満足することを優先しがちである。そのため、国家制度や法律といった機械的システムにヒトの過ちの原因の全てが存在すると勘違いする。

 制度や法律というシステムには、問題点の根源的原因究明や再発防止策を確立するための思考が介在する余地はない。制度法律システムというものは、それに従うことしか決定されておらず、対策自体を確立し、制度法律自体の間違いを訂正するものではないからだ。

 省庁役人に限らず、ヒトというのは一度決定した制度計画といったものを変更することを観念的に拒絶する性質があり。既存のシステムに依存し脱構築可能性の喪失の原因となっているのである。

 観念的拒絶反応による構築性を脱するのは意識であり、既存のシステムに無批判に依存することは無意識である。

 根本的な問題の原因から目を逸らし、枝葉の対処療法的バッチ処理でごまかされるのは論理検証する「考え」が成立していないからである。



 司法に所属したがるような者の多くは、強権力への「格好良さ。」への憧れを動機としている者が多いため、自律的には問題解決能力がなく、ただ無為無策に服従する以外に何も合理性を追究することはない。そもそも司法は立法機関が制定する法律に基づいた判断しか制度的に行うことはなく、司法や法律自体の問題は立法機関によって改善しなければならないものである。

 司法権力にお任せしておいても問題の根本的解決や対策には構造原理的に一切ならないのだが、無思考な大衆の多くは司法が問題の根源的原因究明や再発防止策の確立をしてくれるものであると勘違い錯覚している。

 東電に原発運営をお任せしておいても安全性が保たれなかったように、現在の司法権力に再発防止策の確立をお任せしておいても無駄なのである。日本は制度上議会制民主主義を採用しているため、議院や選挙民が率先して問題の根源について検証し改善策を立てなければならない。

 しかし、ヒトの依頼心というのは権力にお任せしておくことに気分的安心満足を与え、自発的な問題解決能力を奪い無為無策へと陥れるのである。



 他人への迷惑や危険が及ぶ可能性に意識が働かなくなるという意識狭窄性は、自発的に自己自身の行動や思考というものへの論理検証性が欠落しているからである。

 自分がなぜ他人への迷惑行為を行わなくてはならないのか、なぜ危険行為をやめる自律判断をしたがらないのか。そういった自己自身への論理検証に伴う自己批判(気分的に凹むだけの卑屈な自己嫌悪ではなく。)によって自律的に自己の行動選択の間違いを改善する、本質的な自己自律判断こそが本質的な意識なのである。

 「恐くない。」だとか「格好良い。」といった気分感情だけで行動が左右されているのであれば、これは論理検証性を伴った自発的「考え」が介在していない。

 他人に対して異常に迷惑をかけたがるのは、他人からの観念的抑圧でしか自己の行動抑制が出来ないために、抑圧してくれる他者他人を求めているためである。

 他人に迷惑をかけたがる者を力で捩じ伏せると、翌日からうれしそうに挨拶をしてくることが少なくない。これは服従対象への卑屈な観念的迎合であり、自律的な自己判断能力や自己検証性の欠如の結果である。

 外見上更正した暴走族の多くが「マトモに向き合ってくれる大人がいなかった。」などと言い出すのも、結局「マトモに向き合ってくれる大人。」という服従対象「他人」を求めていたからこそ迷惑行為を繰り返していたからである。

 誰もが他人に依存することばかりを求めていれば、これは責任のタライ回しにしかならず、永遠に誰も責任を取らない無責任社会に陥るのは必然である。

 他人に社会的責任判断を求めるのであれば、先ず自分自身の社会的責任判断を自律的に行うことである。それが自己の権益や気分的満足に関わるとしてもである。

 一人一人の民衆が自分の責任を持ち、社会の一員として、社会を構成する本質的な「社会性」を持たなければ、社会のあらゆる問題は解決することはない。

 社会制度や法律というシステムは、既に発生した問題に対する対処療法的バッチ処理でしかなく、これから発生しうる問題や、旧来から放置されてきた危険性への対処には結びつかない。

 社会制度や法律という機械手続き的条件反射は無意識であり、問題の根源的原因究明や対策自体には原理的にならない。警察がどんなに取り締まりを行っても、犯罪や違反といったものの根源的原因は一切究明されず、当然具体的で有効な対策も立てることは出来ないのは、このためである。

 イジメを実行した子供を処罰しても、露見しないイジメの全ての原因究明にも対策にも全くならないし。通り魔の実行犯を死刑にしても、通り魔自体が発生するメカニズム構造の究明にも対策にもならず、通り魔事件の根絶には全く結びつかない。

 社会制度や法律に頼り切って、実質的な原因究明や対策を怠ることは、そこに本質的な「考え」が全く伴わないからである。「考え」ていないのであればバカとしか他に言いようはない。






Ende;