書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

その他。

2012年07月30日 17時51分49秒 | 日記

○わがまま。

 中国政府がやたらと他国の領土を欲しがるのは、国家のわがままを他国に押し通せるという「力。」を誇示することによって、バカな大衆からの人気を得ようとしているらしい。

 こうした他国へのわがままを押し通すことで国力を誇示することに熱狂するのは基本的にバカ国民。バカの多数決で政策を進めておけば、バカな結果しか及ぼさないのは必然的結果。バカっていうのは自律的な責任なんかどうでも良いと思っているからね。

 まぁ、日本も戦時中は同じことをやらかしていたので、独裁政権特有の普遍的暴走性なんだろうな。

 多分フィリピン政府とかベトナム政府とかからすれば、日本の対応が弱腰だと中国政府が調子に乗って占領政策を進めかねないので、国際社会的にも弱腰外交は良くない。

 と、思う。(若干弱腰。)



○パワハラ

 イモトアヤコの蛇ロケって、スタッフがイモトをイジメて楽しんでいるように見える。パワハラの一種に相当するのではないだろうか。

 子供のイジメを助長しかねないので、やめた方が良いと思う。

 ぶっちゃけ騒々しくてうるさいし。騒々しいとか修造しいとか大嫌い。興奮して喜んでいるのは精神年齢が低すぎる。


○デモ。

 国会前の歩道からデモ参加者が車道にあふれているなら、緊急措置として自動車進入禁止にしとけばいいのに。どうせ議事堂前なんて迂回路いっぱいあるんだから。

 そういうのって国会議員の一声でどうにかなるんじゃないのかね。選挙の時だけ「お願いします。」ってへりくだっておきながら、一旦当選すると無視するってのは汚い。人間として出来損ない。

 国会議員ってのは本来権力自体が目的ではなく、国民生活のためという目的のための権力。手段と目的を履き違えるのは利己的欲望に意識を奪われているから。

 企業経営者とかも組織の利益を優先して、企業というものの社会的役割を放棄するのも同じ構造。

 脳科学も社会心理学も、こうした心理構造について全く言及せず、アハ体験などでの人気取りウケ狙いしかしないことに誰も気付かないのも問題なんだけどね。

 ヒトという種の生物が持つ危険性を放置しておいて、脳科学も社会心理学も社会的役割は果たしていないことを認識すべき。

 また、デモなどの集団になると群集心理が働いて血の気の多い若者が暴走することもあるから、若者だけの集団を放置しない方が良いと思う。デモの目的とは無関係に、単に騒いで暴れたいだけの集団が混入すると暴動に発展して反ってうやむやになってしまう。

Ende;
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やる気。

2012年07月30日 17時34分02秒 | 意識論関連

○やる気。

 修造しい扇動誘導による、環境依存的な「やる気。」というものは、本質的には自発性ではない。

 「やる気。」というのは、他人からの評価などの環境に左右されない個人の本質的なものと、他人からの評価や評価の比較による優越感を動機とした本質的には自発性を伴わないものがある。

 前者は多数他人からの評価や報酬を必要としないため、世間の流行や集団組織のマインドセットに流されることなく主体的な判断選択が可能であり。自律的に社会的責任判断も可能となる。

 後者は多数他者からの評価報酬や、修造しい先導誘導といった気分による行動選択に促されることでしか「やる気。」が働かず、行動選択自体を自発的には選択することも出来なくなる。

 通り魔犯や銃乱射犯人といった自暴自棄な暴走を行う者における学力の高さは、学力成績という環境依存的外的評価という抽象化された「エサ。」に対する気分的快楽に無意識的に流された結果であって。本質的自発性を伴わない学力への「やる気。」への執着の結果に過ぎない。

 本質的自発性を伴わないあらゆる能力の結果とは、いわばチンパンジーの瞬間記憶能力と同じであり、環境依存的に満足感を提供されなくなればぶちギレて暴れるのである。

 一種の「ゲームバランス。」的な快楽と行動のバランスによっては暴走的に特定能力を発揮することもあるが、これはこうした環境を整備することによってでしか発揮されることはなく。ほったらかしておけばただのチンパンジーに過ぎない。

 イヌなどに見られる統率的協調行動であっても、それを何に用いるのかの意識がなければイジメなどの排除差別という暴走を招くだけである。

 単なる習性傾向の「結果」的な特定能力の全ては、それを何に用いるのかの意識的「選択」が介在しなければ単なる暴走の結果として破綻しか導き出さない。

 環境を整備することで無意識に誘導扇動された特定能力向上というのは、チンパンジーの瞬間記憶と何ら変わりはない。

 つまり、修造しく扇動され、気分的誘導によって促される環境依存的な意欲「やる気」というものは。本質的な個人の自発的選択を意識から引き剥がし、自発的に合理性を追究する能力を喪失させ、結果的に行動の全ては気分感情という本能欲望によってのみ選択されるようになるのである。

 本質的自発性に基づいた意欲によって選択された、環境依存性を持たない主体的純粋行為に価値を持つ場合。自発的に論理検証するという「考え」が可能となり、他人からの評価報酬やマインドセットに左右されることなく自己検証も可能となるのである。

 ノーベル賞受賞者の小柴昌俊が、「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。」と論ずるのは、本質的自発性なくしてあらゆる人間性は発揮されることがなく、どんなに学力学歴が高くてもチンパンジー同様に簡単にぶちギレたり、自律的な社会的責任判断を放棄したりするようになるからである。



 学問というものは、世間多数から評価や強迫観念によって刷り込むものではなく、本来個人の自発的興味や好奇心によって主体的に学ぶべきものである。

 主体的であるということは「自分本位」性を含むものであるが、決して他人への気遣いが全く出来ないような自己中心的なものではない。

 そもそも自己中心的で他人への配慮が足りないのは、本質的主体性による自己検証が全く働いていないための結果であり。むしろ本質的な「自分本位」性が欠落しているからこそ他人への配慮まで意識が働かないのである。

 「自分を大切に出来ない者は、他人も大切にすることも出来ない。」のである。これもまた定理である。



 現在の日本の教育者達が主体性という自分本位性を蔑ろにし、自律的な社会的責任判断能力可能性を無視し。規律という自律を必要としない他律的強制性ばかりを優先したがるのは。教育者自身が個人の主体性を尊重されたこともなければ、自律的に社会的責任判断を行うことより権威に服従迎合することしかしたことがないため。あたかも「規律さえ守っていれば全ての問題が解決するものである。」というマインドセット(意識狭窄)が働いているからである。

 これは一種の「虐待の連鎖。」である。

 虐待を連鎖する親が自分の行動を事後正当化する言い逃れは、「そういう育て方しかされていないからだ。」である。養老孟司も似たようなことを論じており、「教えられていないことは、教えられないじゃありませんか。」などと共感を強要する言い回しを用いるのである。

 教えられていないことを教えられないというのは、教えられたこと以外のことは絶対に何も気付くことは出来ないと言っているのと同義である。

 それはただのバカに過ぎない。 

 バカであることをどんなに多数のバカ同士で共感しても、社会的に正当化できるようなものではないのである。

 暴走族だの振り込め詐欺師同士の共感性に社会的正当性があるわけがないからだ。



 ヒトという種の生物は、バカでいることの方が本能的に楽であるため、バカになるような誘導には簡単に引っ掛かる習性があり。逆に自分のバカさを認識させるような話を観念的に拒絶するのである。

 組織集団だとか教団だとかに服従迎合して、社会全体の安全性や持続可能性を自発的には全く追究しなくても、気分的安心や精神的満足を得ることによって、何も「考え」ないようにしておくことも可能であろう。

 バカであるなら、強制的に規律を守らせておいたり、地下鉄に毒ガスを撒いたり、原発の危険性を放置させておけば「人類の救済。」だとでも思っていられるのも必然である。



 規律を守らせるというのは、いわば「現場の判断。」である。感情でしか行動が選択できないバカなクソガキ相手に自律的思考を促すのは簡単ではないため、規律だの法律とった通念や観念という無思考な強制的誘導でしか外見上の「人間らしさ。」を獲得できないための暫定的措置としての「規律」に過ぎない。

 幼稚園児相手に「なぜ道路には飛び出してはいけないのか。」の論理的理解をさせることは簡単ではないため、短絡的に「悪いこと。」と分類させて「怒られるからやってはいけない。」という強制的誘導でしか子供の安全が確保できないための、あくまでも暫定的措置としての役割しか存在しないのである。これを小学校高学年や中学生に行うというのは、教師自身に自律的社会的責任判断能力が欠如しているからである。

 自分にないものは他人にもないものであると「思う。」のも必然であろう。バカにとっては何が一体バカなのか自体が認識できないのである。

 「アメとムチ。」を用いた環境依存的行動抑制とは、無意識な誘導を促しているだけであって、当人が自発的自律的な行動選択を出来るようになる論理的根拠は全くない。

 エサと引き換えに高度な瞬間記憶能力を獲得させても、本質的な知能の論証にはならないのと同様。強迫観念的恐怖心によって規律を守らせても自律的な社会的責任判断能力は構造原理的に不可能なのである。



 人間としての本質的知能というものは、自律的に社会的責任判断が出来るかどうかが核であり。これがないことにはあらゆる特定能力の全ては意味を為さない。

 自律的な社会的責任判断というものは、社会全体の安全性や持続可能性を検証判断する本質的な自発的意思が不可欠である。

 無意識条件反射的に多数や権威、規律や制度法律に服従迎合するだけでは社会的責任「判断」自体が成立しない。「判断」とは個人の主体的「考え」なくして有り得ないのである。

 むしろ既存の規律、法律制度手続きだけに服従しておきさえすれば、自律的には何も社会的責任判断を一切放棄できるものであると錯覚しているからこそ、自律的な社会的責任を誰も負おうとしなくなるのである。



 個人の主体的意欲というものは、単なる目先の欲望だの誘惑に惑わされない、個人の一貫した意欲の自発的選択がなされたものである。他人への羨望や利己的利益追究ではない、一貫性を持った個人の主観的意欲こそが、小柴昌俊の言う「これなら一生続けられるもの。」なのである。

 個人が自分自身で自己の精神的満足を獲得出来れば、多数他人や体制からの評価、盲目的な集団の規範などに惑わされることなく自律的に社会的責任判断も負える可能性がある。

 しかし、個人が自己の自律的な精神的満足を獲得する術を知らず、環境依存的に多数他人や体制からの評価、盲目的な集団の規範に基づいた、気分的安心満足による結果的選択しか出来なければ。自ずと自律的な社会的責任判断は構造原理的に不可能になる。

 修造しい「やる気スイッチ。」的な扇動というのは、意識誘導であって意識狭窄性を作り出す洗脳に過ぎない。修造本人にそのつもりがあるかないかは無関係で、「人類の救済。」と称してテロを行った者達と何ら変わりはない。

 意識を誘導され、気分的に楽しく愉快にさせられておけば、ヒトの多くは自発性であると勘違い錯覚し。あたかも気分が良いことは短絡的に「頭が良くなった。」と錯覚するのである。

 洗脳されている者というのは、自分は頭が良いものであると錯覚しており、自分が選択した行動こそが絶対的に正しいものであると信じ込んでいるからこそ、洗脳というのは解けないのである。自発的に論理検証を行うことが出来れば洗脳だのマインドセットなどに惑わされることはない。

 ヒトの多くは論理検証的な「考え」と、固定観念的な「思い込み」を区別することが出来ず。気分的に安心感が得られる慣れた固定観念を優先しておく本能習性がある。

 意識的な「考え」なのか、それとも無意識的「思い込み」であるのかを区別するのは意識的「考え」論理検証であるため。意識的「考え」が成立していない者にとっては、そもそも原理的に区別自体が自律的には不可能なのである。

 固定観念に基づく思い込みに執着することは「考え」ではなく。自律的判断でもない。

 自分自身では自律判断自体が何かを区別不能な者に何を論じても、観念的拒絶反応を示すだけで全く話が通じないのはこのためである。

 文系大衆観念者というのは、自分の間違いは矮小化し、他人の間違いだけを重大問題視したがる傾向習性がある。物事の区別判断に合理性がなく、ただ自分の気分にとって有利なように事後正当化することによって全く反省することがないため、行動や思考判断に全く影響が及ぼさない。

 観念的な疑い深さや条件反射的拒絶反応による執着心というものは、無意識下に刷り込まれた観念が促す気分的安心でしか物事を判断することが出来ないからである。



Ende;
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集団生活。

2012年07月30日 17時32分48秒 | 意識論関連

○集団生活。

 文系大衆観念者達は「集団生活をさせれば、集団規範が身につく。」などと言い張り、学校においても、少年院においても集団生活をさせれば個人の自律的社会的責任判断ができるようになるわけではなく。あくまで集団への迎合や、権威に対する服従性を動物的行動学習をするだけであって。こうした無意識への刷り込み学習を指して「集団規範が身につく。」と言っているだけである。

 目先の集団に迎合し、権威に対して何の疑問も持たずに盲目的に服従するように、動物行動学習的に無意識下に刷り込むことを、「集団規範が身についた。」と言うのは。あくまで教育者にとって表面的に取り扱い易い子供に仕立て上げるだけであって、何ら自律的な社会的責任判断を行うようにはならない。

 文系大衆観念者にとって、子供に生物本能的な統率的服従迎合性を刷り込み、大人にとって便利で扱い易い子供になることだけが気分的安心や満足を得られるために。実際には何ら自律的社会的責任判断の出来ない者を大量生産しているにも関わらず、合理的根拠もなく気分的安心や本能的満足ばかりを優先して、本質的自発性を重んじる教育を拒絶するのである。

 規範とは、要するに社会制度や法律などの既存システムと同じ「決まりごと。」である。

 規範にさえ服従迎合させておきさえすれば、本質的人間性が養われる論証も統計的証明も全くない。

 大人が管理する集団において服従迎合性を発揮していれば、外見上は「社会規範を身につけた。」ようにも見えるであろうが。これはあくまで大人が管理する集団においての表面的で断片的な「結果」に過ぎず、教育者に対して何の疑問も持たずに盲目的に服従する者というのは、東電に入社しても東電内部の集団規範に服従迎合するだけであって、実質的には社会的な責任判断能力は全く育っていないのである。

 東電でなくとも、振り込め詐欺師の集団に誘惑されれば、振り込め詐欺師集団内部の規範に迎合し。オウム教団の集団に誘惑されれば、オウム教団内部の規範に迎合するだけであって、何ら自律的には社会的責任判断を行うわけではない。


 本質的な自発性を持たない者というのは、どのような集団に誘惑されるのかは自律的には論理検証的に選択することは出来ず、あくまで環境依存による気分的選択「結果。」として誘惑されるだけであり。集団内部に問題があったとしても、自律的には論理検証も批判も出来ず、ただ集団内部の「常識」という規範に服従迎合するだけである。

 教育が変わらないのは、教育者の多くが集団に服従迎合することだけが人間性であると錯覚しているからであり。こうした自律的な論理検証性のない文系観念者ばかりが教育に携わっているため、集団の利益に適さない事実を隠蔽したり捏造したりするようにもなるのである。これは東電におけるマインドセットの雛形に他ならない。

 生徒がイジメによる自殺の可能性があっても、学校組織に責任が及ぶ可能性のある原因を全く認めようとせず、家庭内部に問題があるかのような「作文。」を捏造してしまうのも、「組織の利益を優先し、社会的安全性を無視した。」行為にほかならず、東電の体質と全く同じ構造によって行われる非人間的な機械的条件反射行為である。



 「自分本位で社会の規範を守らない。」ことばかりを問題視したがるが、これは子供の主体性を重要視することが面倒なために、「主体性=反社会性。」という断片的方程式をこじつけることで問題を単純化し。あたかも規範意識という無意識な動物行動学習だけが全面的に「社会性。」であるかのようにしておきたいからである。

 或は、当人達が文系大衆観念的に「主体的に社会安全性や持続可能性を追究する。」ことをしたことがなく。目先の組織における規範に迎合すること以外を全く知らないため、その重要性を認識することが全く出来ないのかも知れない。いずれにせよ、これらの行動というのは気分的安心や精神的満足を優先し、論理的自己判断検証を全くしていない無意識が促すものである。

 原因がどうあれ、組織に都合の良いように事実を捩曲げ、勝手に作文捏造をしても良い理由には全くならない。集団生活によって、社会の規範を守らせておいても、自律的に社会的責任判断を出来るようにもならず、組織の都合を優先するようなバカが大量生産されるだけであり。その結果が教育者による作文捏造という結果を導き出したのである。

 身勝手な作文捏造をするような教育者の観念に価値など存在しない。報告書の作文捏造というのは犯罪であって、公文書偽造で訴追すべきなのである。

 ヒトという種の生物が人間としての本質的社会性を持つというのは、個人が自律的に社会的責任判断を行うことであり、決して多数や多数によって認証された権威や制度法律に服従迎合しておくことではなく、「社会の規範」を無批判に服従迎合しておきさえすれば自律的に社会責任判断が出来るようになるわけではない。

 「主体的に社会安全性や持続可能性を追究する。」という、個人の本質的自発性による意識的行動選択性の存在を無視し、教育者にとって都合の良い、取り扱い易い無批判なバカを大量生産しておいた方が簡単で便利だからであって、これは手抜き怠慢のための言い逃れに過ぎない。

 本質的な自発的純粋行為というものに自発的価値を持ち、自己自身で自分の知的欲求を満足させられる者にとって。規範云々以前に社会安全性や持続可能性にも意識が働くのは必然的結果である。自分が世界において自発的に存在しようとしている者にとって、自己存在を維持するために社会自体の維持持続性や安全性にも意識が働くのは当たり前であるからだ。 

 本質的自己とは何かといえば、動物本能的な無意識ではない、合理的論理性を持った自発的「考え」に基づく自律的判断選択のことである。自律的に問題解決が出来ないのであれば、これは人間としての個人の存在意義自体が存在しないということでもあり、無意識な迎合的規範意識に流されているだけなら互換可能なチンパンジーと何ら違わないのである。

 ヒトは誰も自分の意思選択で産まれて来たわけではなく。自分の遺伝子を自分では選択しておらず、その遺伝子から作り出された脳自体も、自分自身の意識的選択によって作り出されたものではない。

 自分自身では選択していない脳から本能気分的に生ずる無意識な行動選択というものは本質的意思ではないのである。

 文系観念者の多くは、これを論ずると短絡的に「自由意思などない。」などと言い出すのであるが。それは単に自律的な論理検証による社会的責任判断をしたくないための言い逃れに過ぎない。自律的選択不可能性の論理的証明もなしに自由意思が存在しえないなどと断言するのは論理的根拠が全くなく、身勝手な感情論による取り繕いに過ぎない。

 ヒトという種の生物が、人間たりうる所以とは。論理検証という本質的意識に基づいて選択された、自律的な社会的責任判断選択可能性が存在するからである。それ以外の能力がどんなに優れていようとも人間としてはクソの役にも立たないからである。

 人間性の論証というものは、決して本能習性的な集団組織への服従迎合性による従順性の断片的「結果」の枚挙によって証明することは出来ない。




 ヒトの多く、文系大衆観念的には。目先の多数に従順で権力権威に服従することこそが人間性であると錯覚しがちであるが、論理的には自律的に社会的責任判断を行うことこそが本質的な人間性の証明である。

 多数に迎合し、多数で認証した権威に服従していることは、文系大衆観念的/本能的には安心や満足を与えるものであるため。それこそが個人の自律的な判断というものを喪失させている最も大きな原因である。

 本能的な気分的安心しか求めないから文系大衆観念なのであり。厳密な論理検証がスルーされ、自律的には何も社会的責任判断が一切されることはない。


 懲役刑による刑務所での集団生活を強制しさえすれば自律的な社会的責任判断を行えるようになる統計的証明も論理的根拠もなく、これは少年院や学校での集団生活であっても同様である。

 刑務所で集団生活を何年行っても、再犯率が下がる統計的根拠もなく。集団生活によって刑務所内部の規範に従うようにしているだけであって、刑務所内部での気分的安心満足を満たしているだけの無意味なものである。

 刑務所や少年院の内部において従順に服従するよう観念させても、それは刑務所や少年院の内部における気分的安心を追究しているだけであって、何ら合理的根拠に基づいた自律判断能力の獲得の論証などなく。世間に出れば自律的には社会的責任判断が出来ずに何度も同じ過ちを繰り返すのである。

 司法は「出所後の対策。」を行うことによって、あたかも懲役刑の無効性や無責任性を「なかったこと。」にしようとしているが。これは「はぐらかし」撹乱でしかなく、全く根本的問題には言及していない。懲役刑自体の無効性や、それを放置する無責任性に言及することは司法にとって権益に関わるために、「組織の利益を優先し、社会の安全性を蔑ろ。」にしているのである。

 教育関係者が「集団生活=人間としての社会性。」と短絡的に信じ込むのは、本能気分的な安心が優先されていて、論理検証による根拠の欠落を無視し、意識から外し、「なかったこと。」にしたい文系大衆観念者だからである。

 体育会系の大学寮で大麻が栽培されていたり、集団レイプが行われたり。或は少年野球チームの部員が自転車を何台も並走させて道路を占有したりするのも。これらは集団生活というものが必ずしも人間としての社会的責任判断能力の形成に役立たないことの論証である。それを「何度裏切られても、子供を信じる。」などという精神論的盲目性を発揮して無駄な努力をし続けるのは、むしろ精神の怠慢、気分的安心の追究でしかないのである。

 無駄な努力に忙殺されて、有効な対策を放棄無視しているのは固定観念的「思い。」に囚われ、論理的「考え。」が働かないからである。当人達がどんなに社会的責任を果たしていると錯覚していても、無駄な努力に執着することは社会的には迷惑でしかなく。オウム教団がどんなに「人類の救済。」だと勝手に思い込んでいても迷惑なだけなのと同じである。

 ヒトの多くは観念的な「思い」こそが意識であると錯覚しがちであるが、「思い」というのは感情と直結した条件反射的無意識であり。こうした無意識に意識を奪われているから論理的「考え」が全く出来なくなってしまうのである。

 マインドセットとは思い込みのことであり、強力な「思い」、感情によって促される固定観念を指すのである。

 ヒトの多くは固定観念的な「思い。」と、論理的根拠に基づいた「考え。」の区別が明確に出来ず。また、どうしても動物本能的な「思い」込みによって機械的条件反射に意識の大部分を奪われてしまう習性傾向があるために、とかく合理性のない行動選択に陥りがちである。

 「文武両道」というものには統計的にも論理的にも人間性形成の論証などなく、ただ単に文化系大衆観念的に「身体的刷り込み学習をさせておけば気分的に安心。」なだけであって、何の根拠もないのである。

 オリンピックメダリストの柔道家がセクハラを行うのも、文武両道を実践しているはずの警察官による不祥事も、これらは文武両道というものが人間性形成に全く無関係であることの論証である。

 むしろ元自衛官による皇居への手作りミサイル攻撃などは、むしろ文武両道というものが社会的責任判断能力を喪失させ、ひたすら誰かに責任をなすりつけようとする無責任性を形成する可能性の証明でもある。

 JR西日本 福知山線 尼崎の事故も、組織の規範に無為に服従迎合した結果である。「教育」と称してイジメのような体罰によって動物的行動学習をした結果、強迫観念的にスピードを出したために自律的に安全性を優先しなくなってしまったのである。

 「集団生活によって社会の規範を身につける。」などという観念は、こうした精神論的な強迫観念の無意識的植え付け刷り込み体制を観念的に維持保守したいだけであり、むしろこうした精神論の強要によって社会安全性は脅かされているのである。

 日本の学校やシエラレオネの少年ゲリラに見られる子供達による集団暴力残虐性というものは、むしろ子供達だけの集団内部の勝手な規範に服従迎合した結果である。集団生活さえさせておけば人間性が養えるなどというのはとんでもない大嘘なのである。また、捏造をするような教育者の規範に従っていればイジメがなくからないのも必然である。イジメられている子供が学校に馴染めないことを問題視する前に、イジメている方の本質的社会性の欠落を問題視すべきなのである。



 ヒトというのは短絡的に「これさえやっときゃ、全ては安心。」という観念的で安易な対策によって気分的安心、精神的救済満足を優先し、合理的で実質的効果のある対策とは何かを知ろうとはしなくなる傾向がある。

 教育者の多くが教育委員会や文部科学省に従順なだけで、自律的に「子供が自律的に社会的責任判断能力が身につくようになるのか。」を考えるよりも、「上」の者に服従して成績評価を得ることしか頭にないため、頭の悪い「上」の者の実証不能の観念に無為無策に迎合するだけの、無意識的「結果」しか導き出さず、単なるカルト集団化してしまうのは、誰にも論理的検証や批判精神が全く働いていないからである。



 論理的根拠の欠落を無視し、意識から外し、「なかったこと。」にしてしまうのは、気分的安心や精神的満足を優先しているからであり。本能習性という無意識に意識を撹乱され、意識狭窄状態に陥っているためである。

 論理検証性が失われていれば安全性が蔑ろにされるのは必然的結果である。気分的安心と論理的安全性を混同することは非常に危険で無責任なことであることを認識すべきである。

 文化系大衆観念者というものは、ただ「上」の命令に条件反射的に服従するだけで、何ら自分自身の自発的「考え」を出すことはない。命令自体の論理的検証も批判も全く行わず、ただ動物的従順さを発揮しておくことが「社会のため。」だと勝手に錯覚しているためである。

 錯覚を錯覚であると認識しないことは、社会的責任判断の放棄になるのである。これこそが「人間としての社会性の欠如。」であり、あらゆる問題解決に対する障害の原因となるヒトの行動習性傾向なのである。

 動物本能的行動だけしておけば、気分的には安心で満足することが出来るであろう。そりゃ当たり前である、気分的安心満足というものは、予め組み込まれた本能習性が促すものであるからだ。

 ヒトの多くは、既に刷り込み学習された固定観念に基づく無意識的行動判断を漫然と繰り返しておいた方が気分的に安心で満足を得ることができる。オウム信者がそれを「やめることができない。」のも、ヤクザが「今更やめられない。」のも、全ては脳内物質ドーパミンの持つ常習性によって作り出された条件反射行動の「結果」である。

 司法や教育機関による「はぐらかし。」取り繕い、言い逃れというものは。カルト宗教や東電による無意識なマインドセットに基づく結果的体制組織腐敗と同じであり、当人達には何ら罪の意識など一切ない。そもそも何が罪であるのかの論理的検証自体が自律的には一切行われないためである。

 既存の体制組織、制度、法律というものに対し。ただ無為に服従迎合して自律的には何も考えなければ、あらゆる問題や危険性は放置されることになる。いちいち制度法律を与えなければ自発的には一切動かない役人の神経というのは、そこに本質的意識という自律的な論理検証に伴う批判精神が全く働いていないからである。

 科学で全てを説明することは出来ないが、説明可能な事柄までをも観念的に取り繕って良い根拠には全くならない。

 芸術やスポーツであれば、これは根本的に観念に基づいたものであるから、理論的根拠などなくても構わないが。社会安全性や持続可能性に関わる話にまで芸術やスポーツにおける世間的成功事例を根拠にはぐらかして良いわけではない。

 無意識的条件反射能力で原発や高速バスを運転していたのでは、安全性が全く確保されないのは当たり前である。努力辛抱根性という精神論でバスを運転するから事故が起こるのであって、社会安全性というのは精神論でどうにかなるようなものではないのである。

 「真夏の炎天下にグラウンド100周。」などという無茶なことを強要してしまうのは、一種の「虐待の連鎖。」であり、当人の脳に刷り込み学習された観念に対して無為無策に「流された。」結果である。

 それを指摘されてから「申し訳ない。」などと言うのは簡単である。とても簡単なことである。大切なのは、なぜこうした刷り込み学習されている観念に無意識に「流されて。」しまったのか、そのプロセス構造こそを共有して、普遍的な再発防止策に活かすことが必要なのである。

 文系大衆観念者の多くは、他人から誤りを指摘されてから気分的に凹むことばかりに意識を奪われ、合理的で効果的な対策を工夫する「考え」にまで意識が働かない傾向がある。

 自分という「ヒトという種の生物」の行動習性を客観的科学的に検証し、過失の原因を論理的に検証することによって、はじめて合理的根拠のある効果的対策の確立が可能となるのである。

 社会的責任判断を行うというのは、目先の気分や集団における規範常識に囚われることなく、具体的に実効性のある理論的で普遍性を持った対策を提案実現することであって、目先の気分や精神論的観念によってこれらを無意識に放棄してしまうことこそが無責任な「結果」に至る原因なのである。

 目的意識を持つというのは、自発的に物事を「考え」ることであり。「考え」というものは論理的に検証する客観的視点が不可欠である。主観的な固定観念や、多数他人からの無意識的抑圧といった気分感情に流されてしまうことによって、本質的意識というものを喪失してしまうのである。

 既に長い期間自己検証をしてこなかった文系大衆観念者にとって、それは「慣れて」いないために、なかなか実現することが困難かも知れないが。不可能性の論証がない以上、また人間として社会的責任を果たすためにも不可避なものである。

 制度法律上何も責任を問われないとしても、「人間として。」の道義的責任が果たせないのであれば「人間。」とは言えないのである。

 狂暴なチンパンジーを檻の中に閉じ込めておくように、ヒトの行動を制度法律によって環境的抑圧だけで抑制するというのは、全く当人の自発的自律的判断というものを必要としない無責任性の放置に他ならない。そりゃ自発的に問題解決が出来ないのは当たり前である。天下りがなくならないのも当たり前である。

 チンパンジーは檻に閉じ込めておいても不平不満を述べたりはしない。それはチンパンジーが「観念」してしまって、「そういうものだ。」と諦めているからである。

 諦めること、「観念する。」ことというのは、自発的思考を停止させることでもある。ヒトの多くは飼われているチンパンジーのように現状世間体制の制度に対して何ら自発的論理検証を行わず、無為無策に服従迎合しておくことで動物的安心のまどろみに浸って満足したがる。

 既に存在する制度法律に従うだけであれば、その制度法律の問題点を自律的に認識できないのは当たり前である。

 当たり前という必然性に流されていることこそが無意識であり、その無意識こそがあらゆる「人災」やその危険性を放置してしまう原因なのである。

 「組織の体質。」というのは、あくまでその組織を構成する個人の意識の欠落によって作り出されるものであって、組織に所属しているからといって組織を構成している個人の自律判断が欠落してしまうからこそ、結果的に「組織の体質。」として現象表出するのであって。多数の無意識結果であるからといって個人の自律的責任が薄まって軽くなると「思う。」のはとんでもない錯覚なのである。



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気分が荒む。

2012年07月30日 17時31分22秒 | 意識論関連

○「気分が荒む。」

 美術や芸術といったものは、どんなに現状世間における評価や収入があるとしても、単なる「気晴らし。」に過ぎず、人類にとって普遍的な価値のあるものにはならない。

 文系観念上では金儲けが上手く世間的成功者でさえあれば人間としての価値であると短絡的に錯覚しているため、世間的成功者でさえあれば「偉い。」だのといった論理的根拠のない観念に基づいて判断「してしまう。」のである。

 ヒトという種の生物は、「楽しい。」ことに意識を奪われ、「楽しい。」ことこそが「正しい。」ものであると錯覚しがちである。

 イジメがやめられないのも、気分的に「楽しい。」からであって。気分的に楽しいイジメを抑止するような意見は気分が悪いので、それも集団暴力によって統率的協調的に黙殺粛正「してしまう。」ため。一切論理的検証判断が働かないため、イジメというものは恐喝や障害致死といた「破綻」にいたるまで狂暴性が自律的には止まることがないのである。

 イジメというのは、環境依存的な行動習性の「結果」であり、無意識行動である。自律的に自己の行動を抑制することが出来ないのは、当人にとって本質的な自発性がないからであり。常に快楽の全ては環境から与えられるものでしかないために、自律的には自分の脳を満足させる術がなく、ただ漫然と周囲の環境に流される形で無意識にイジメを行って「しまう。」のである。

 また、自分が自律的には行動抑制できないことは、他人の誰にも出来ないことにしておかないと、自分達だけが特別に頭が悪いことになってしまうため。これを共有可能な集団内部だけで共有することによって、安心して破綻に至るまで暴走することが出来るようになるのである。かくして、集団内部の偏ったマインドセットの出来上がりである。

 文系大衆観念上では、論理的合理性を必要とする自律的な社会的責任判断という「考え」は、気分的に嫌で「心が荒む。」ために。意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしたがる習性傾向がある。

 文系観念者というのは、自律的には自分の行動が選択できず、環境によって促される気分だけで行動が決定してしまうため。自律的な論理検証よりも気分的に楽になることを優先することによって、文系大衆観念者達はその「気分的安心。」を指して「心。」と言い張り、観念的拒絶によって自律的判断を放棄を正当化しようとするのである。

 文系観念者というのは、気分が悪くなると自分自身の暴力的行動が自律的には抑制が出来ないため。気分が悪くならないことだけを優先することによる精神的安定や気分的安心が優先されてしまうのである。

 単なる環境依存的な感情は「心。」ではなく、動物の本能習性的条件反射行動に過ぎない。

 文系観念者が論じる「心。」とは、実際には感情気分のことであって、何ら人間性を伴った本質的な「心。」などではなく。「気分が荒むと行動に直結してしまう。」ために気分が優先されることを正当化したいだけなのである。



 東電幹部達にとって、組織の利益にならないことは個人的に気分が悪く、「気分が荒む。」ので、意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしておくことが優先されたのも。

 オウム教団において、自分達の教祖がキチガイに過ぎないことを認識することも。

 イジメを行っている集団内部において、誰も自分達の行動を抑制出来ないのも。

 ヒトという種の生物が引き起こすあらゆる「人災」には、個人的な気分にとって嫌な話を意識から外し、無視し、「なかったこと。」にするという観念的判断結果がつきまとうのである。


 文系大衆観念という、現状世俗の「常識」において、利己的行動選択を優先し社会安全性や持続可能性を蔑ろにすることは、気分本能的に「楽しい。」ために、これを短絡的に「正しい。」と錯覚しがちである。

 「自分の利益を追究して、何が悪い。」というのは、単に法律制度上における正当性を述べているだけであって。人間としての行動の正当性の論証があるわけではない。

 個人の社会は常に運命共同体である。個人の意識が個人内部で閉じているからといって、「ばれなければ、何をしても許される。」わけではない。ヒトはいつか必ず死ぬのであり、死んだ後の社会持続可能性にまで意識が働かないのであれば、もはや一分一秒たりとも個人的な動物的「生存。」には意味がないのである。




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原因。

2012年07月30日 17時29分24秒 | 意識論関連


○原因。

 「バカで鈍いから嫌われる、だからイジメられる方にも原因がある。」っていう意見があるけど、実は嘘。

 実際にはバカで鈍くても、暴力的で簡単にぶちギレる奴はむしろイジメる方になる場合がほとんどで、現実にイジメられているのはイジメても報復されそうにない弱そうな奴。

 実際、おいらがぶちギレた翌日から誰もおいらに手を出さなくなったし。逆にうれしそうな顔で「おはようございます。」なんて敬語で挨拶してきた奴までいる始末。イジメをやっている奴は基本的に偏執狂で暴力的な相手に服従迎合して満足している自分を卑しいとは全く思わない。

 「畏敬の念。」というのも、畏れ敬うことがヒトにとって習性的に快楽であるためのであり。恐怖を感じる相手に盲目的服従迎合をしておくことが本能習性的に安心な結果。

 だから、イジメられる原因ていうのは「イジメても恐くない。」だけであって、恐くなければ誰でも良くて、当人自体に原因があるわけではない。

 まぁ、個人的好き嫌いがあって、多数から無視されているだけならイジメとは言わないかもね。そもそも多数から好かれる合理的必要性自体が存在しないしね。

 イジメと言えるのは集団暴力であって、どんな理由があっても暴力は正当化されるものではない。

 個人的に嫌いなら付き合わなきゃ良いのに、イジメの場合は逆に執着心が凄くて、学校以外に相手の家まで行って暴力を振るう場合も多い。これはイジメられている奴のことを「嫌い。」なんじゃなくて、集団で個人を攻撃するのが興奮できて楽しいからやっている証拠。

 集団で個人を攻撃することっていうのは、仲間意識、集団心理的に同じ観念を共有できるために、安心で快楽なわけです。暴力っていうのは麻薬みたいなもので、本能的に組み込まれた暴力性の「結果。」であって、警察沙汰にまで発展したりすると、「悪いことをしてしまった、申し訳ない。」なんて言い出す。

 「してしまった。」っていうのは、当人の自発的意識による目的行動ではなく、無意識に「やっちゃった。」という結果であることの論証で、暴力を伴うイジメというのは無意識行動の暴走した結果。本来なら警察や世間に知られる前に自分達で抑制しておかなければならないもの。事件が発覚してから謙虚そうに振る舞っていても、自分が無意識に「やってしまった。」ことは、本当は自分の責任だとも、悪いとも思ってはいなくて、たまたま捕まって「運が悪かった。」とか、本能なので自分自身ではどうにもならないものだと思っている。

 ナチズムやポルポトやオウム教団のように、自律的に暴走を止める個人の自律的な社会的責任判断が誰にも伴わないから、暴走は破綻するまで止まらない。

 集団暴力っていうのは、社会的にはカルト宗教と一緒なんだけど。ヤクザをカッコイイなどと思い込む性質が文系大衆観念的にはあって、映画や漫画で賛美していたりするので、バカな子供は短絡的に憧れてしまったりする。「バスジャックをやったら凄い。」などという訳のわからない価値観も、「重大犯罪を犯す奴は根性がある。」などという大衆観念に基づくもの。

 個人的に誰かを嫌いで関わりたくないっていうのは自由。特に女子の場合動物本能的「生理的」に嫌な相手っていうのがあるので、個人的な無視はイジメの範疇とは言えないけど。陰でコソコソ「みんなで無視しよう。」って共謀するのは人間として汚い行為。逆に多数に人気があるからといって同調する必要もない。

 教室の同級生なんていうのは、生徒自身では選べないので、好き嫌いがあるのは仕方ない。でも多数で個人を嫌うことを共有して仲間意識や集団心理を満足させるのは、偏執的で「人間」として出来損ない。

 教室っていう閉鎖空間内部だけの「常識」なんていうのは、東電におけるマインドセットと同じで、普遍性のない偏った思い込みに過ぎない。閉じた集団内部での人気だとか、評価なんてものにはさしたる意味などなくて、社会に出ればクソの役にも立たない。

 そもそもイジメを止められない集団内部である以上、そんなバカの集団内部でしか通用しない「常識。」なんて、社会から見れば非常識でしかない。

 自分達の内部だけの「常識」を、あたかも絶対的で普遍性があるものだと思い込み、世界全体や社会全体からの視点を喪失するのは傲慢なのです。

 「人間」としてね。

 ナショナリズム民族主義っていうのも、生物学的根拠のない民族という区別を永久絶対不変の価値観であると錯覚しているから生ずるものであって、これも合理性のないマインドセットに過ぎない。

 ヒトの多くは、ヒトという種の行動習性や傾向性を多数で共有して、「ヒトとは、そういうものである。」と称して自律的判断が困難であることを、あたかも絶対に不可能である論証であるかの様に言い張る。

 それは本当は、気分的に嫌なことを意識から外し、観念的拒絶をしているだけであって、論理的正当化なんかありゃしない。



 現在の生物学界はヒトという種の生物が持つ危険性を無視し、根拠のない楽観主義によって大衆ウケの良い、文系観念に寄り添った断片的立証の枚挙によって、あたかも科学的論証であるかの如く言い張る。

 「ヒトは本能習性的に平和的で暴力性を抑制するものである。」なんて言っておけば大衆マスコミの脳が酔っ払って撹乱されるので、安心してヒトの暴力性や危険性に対する意識/論理的検証性を失う。

 「空気を読むことは、一般的に良いこととされている。」などと言うのも、何ら論理的根拠のない大衆観念であって、東電社員のほとんど全員が「空気を読んで。」いたからこそ、津波対策は放置された訳です。

 「空気を読む。」っていうのは、要するに多数派迎合による気分的安心感のことであって、これは芸術とかバラエティー番組なら許されるけど、人間としての社会的責任判断においては許されるものではない。

 自分や、自分達がやっていること、考えていることが人間として正しいのかどうかくらいは自分達で検証してください。それが出来なければどんなに学力成績が高くても、年収が高くても、社会にとっては要らない「ヒト。」なんですから。

 この国は民主主義の国です。とりあえず制度上はそういうことになっているんですから、国民の一人一人が自発的に社会的責任を負わなければ国が崩壊するのは必然というものです。




 ヒトの本能習性として、暴力などの強制力を用いて統率する相手を「カッコイイ。」などと観念的に思い込む性質があり、無為に服従することで安心する習性があります。

 「決断力。」と称して、実際には短絡的で決めつけが早いだけの相手を「カッコイイ。」と「感じ。」る性質があります。

 「カッコイイ。」っていうのは本能的な「感じ。」であって、合理性根拠に基づいた人間性の論証ではないのですが。ヒトというのは初期的には動物であるため、本能感覚的「感じ。」こそが意識であると錯覚し、論理検証性を簡単に失う傾向があるわけです。

 DV:近親者暴力なんていうのも、動物本能的な好き嫌い感覚に意識を奪われ、合理性のある判断が出来ないから暴力的な相手にいつまでも付き合ってしまうための「結果。」なのです。特に女性は本能生理的好き嫌いが優先されがちなため、冷静に考えれば意味がない行動選択であっても感情に流され無意識に偏執狂的に執着してしまう傾向があります。

 男の場合は集団暴力の結果に陥り、女性の場合はDVに陥る結果になるわけです。

 年寄りが「暴れん坊将軍。」とか「水戸黄門。」といった、短絡的な権威暴力による統制に快楽を感じるように、ヒトというのは普遍的に目先の暴力的統率者に対して忠誠忠実(盲目的)に服従することに快楽を感じる習性があるためです。

 文化系大衆観念というものは、ヒトの動物本能的な「好き嫌い。」に基づいた気分的安心快楽を与えるため。思考力が失われた結果、論理検証性に基づく行動判断を喪失させる要因となるのです。

 固定観念というものは脳の無意識下に行動学習的に刷り込まれている思考パタンであるため、感情と直結しており短絡的拒絶反応を示す傾向があります。

 個人的好き嫌いというものは自分で選択できるものだと錯覚しがちですが、好き嫌いを作り出す脳の構造自体は自分では選ぶことが原理的に出来ないものであって、個人的好き嫌いに基づいた判断というものは必ずしも合理性を伴った人間としての判断には結び付かないのです。

 個人的好き嫌いがあるのは当然であって、自分の好き嫌いを主張するのであれば、相手の好き嫌いもそれなりに尊重しなければ社会が成立しないのは当たり前です。

 そのため、大人が権威や力を用いて子供を抑圧していると、抑圧統制の連鎖が生じてしまう傾向があります。

 イジメの対策として体罰を復活させようという流れがありますが、これは大衆観念的でヒステリックな対応であって。イジメを無意識に行ってしまう子供に対して、「それは正しいことなのか。」「なぜ、イジメを行ってしまうのか。」を子供自身に考えさせることが重要なのです。

 とかく感情的に「怒って」しまう大人が多いのですが、「怒る」ことは感情であって、気分的満足/大脳辺縁系の快楽シーケンスに過ぎません。大切なのは感情に流されずに根気よく「考え」させるように仕向けることであって、短絡的に抑圧統制に流されるべきではありません。

 大人が感情に流されていて、子供が冷静に自分の行動を検証するようになるわけがありません。

 危険学のように工学的、論理的に原因を究明しなければ、どんな問題であっても根本的対策にはならないのです。

 ヒトはとかく短絡的な最終解決を選択しがちですが、それは気分的に安心で簡単そうだからであって。こうした短絡性こそが論理的な根本的対策を忘れてしまう原因でもあります。

 イジメというものも一種の最終解決であり、短絡的に「気に入らないから排除しちまえ。」という解決ですから、イジメを止めるためには先ず大人から冷静に考えを促すようにすべきなのです。

 「イジメをやるようなクソガキはぶん殴っちまえ。」という最終解決は、イジメをやっている子供の観念と全く同じものであり、こうした短絡的で気分的な解決に意識を奪われているから、論理的検証が出来なくなってしまうのです。





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