書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ヲヤヂ。

2013年08月08日 15時31分34秒 | 日記
○ヲヤヂ一覧。 しょうもないギャグも連続すると笑えるかも。

超音波電動羽村市

見晴らしの良い三原市

わたばっ ひでぶっ 宇部市っ。

子供に靴を葉加瀬太郎

少数派とかけまして、タクシーの助手席に乗りたがる奴とときます。その心は、前ノリティ。

多数派と混ジョリティ

このステテコもう古いから、この辺に棄ててこ。

野茂のもの真似は野茂真似。

このアジアアロワナの水槽だいぶ汚れているねぇ、そろそろ洗ろわな。

カギ括弧で「ククれ」カレー

いっぱいあってもスコッティ。

賞味期限内でもFREE。

どんなに探してもミツカン。

梅花藻が普通よか多いね、倍かも。

近くの雑巾、遠くのフキン。

ベタついていても皿

サラサラしていても熱湯

おねいちゃんでも杏ちゃん

奥さんになっても檀さん。

どんなに育ってもマダコ

すいててもcomm

血に餓えている ウエルチ

ミノキシ汁が頭皮に効く

ニコチンは体内に入るとコチニンに変わる ←本当




水野真紀、水野美紀、坂井真紀、酒井美紀、もう誰が誰だかわかんないっす。:松本人志

堀北真希と河北麻友子、森下千里と森高千里もごちゃまぜになる。

はしのえみとほしのあきも混同です。


Ende;
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小笠原。

2013年08月08日 15時29分18秒 | 意識論関連
○小笠原流。

 北野武がやたらと小笠原流を推すんだけど、作法という形式外見への気分的安心を安全性と履き違えている文科系大衆観念に基づいた大衆迎合に過ぎない。

 作法などの外見的形式さえ教え込んでおけば社会安全性や持続可能性が構築される論理的根拠も、統計的根拠もなく。単に外見的に「美しい。」などという観念だけで安心しているに過ぎない。

 そもそもヤクザ暴力映画で大衆人気を得ている芸人が作法形式を論じていること自体が支離滅裂である。

 ヒトの多くは気分的な安心満足に意識を奪われ、簡単に実証不能の観念を信じ込みがちな習性がある。だからこそヒトの多くは論理的思考を簡単に喪失し、回避可能なはずの「人災」に陥るのである。

 小笠原流というのは、元々室町武士が作り出したものであり。封建的差別主義を正当化するために形式外見的に取り繕うためにでっちあげたものに過ぎない。武力抑圧による封建社会体制を維持するために、外見的に偉そうな雰囲気や、形式的な権威性を用いた、一種の錯覚を促すための手口手法に過ぎない。

 どんなに小笠原流に気分的安心感を得ても、封建的差別主義自体は正当化され得るものではない。


 小笠原流を教え込んでおけば原発の危険性が放置されなかったとでも言えるだろうか。

 小笠原流を教え込んでおけば役人は天下りをしなくなるであろうか。

 だとすれば、どうして刑務所では小笠原流作法を教え込まないのであろうか。受刑者のケツの穴を覗き込むことは作法だと言えるのだろうか。

 どうして体育会系組織は怒鳴り声を作法とするのであろうか。

 作法などの形式外見というのは、無思考な大衆の脳を酔わせて安心満足させるだけの洗脳に過ぎず。ヤクザが形式外見に執着するのも、それによってありもしない権威性を演出し、バカな大衆の脳を洗脳させているのである。

 作法形式というものと、個人の自律的な社会的責任判断能力は無関係である。形式外見で本質的な人間性など形成されることはない。

 作法形式のような簡単でバカみたいな手法で、あらゆる「人災」への対策が出来るなら、既に統計的実証があって然るべきであって、そんなものは最初から存在しないのである。


 北野武なんぞ所詮は大衆迎合であり、「こうすれば世間的評価が得られる。」といった目先の効用しか意識の俎上にはなく。具体性のある論理的人間性の論証など眼中にはない。

 こんな話はいちいちおいらが言わなくても自律的に検証すべきことである。

 特にマスコミは。

 だから学力学歴が高いだけのバカは要らないって言っているのである。





Ende;
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他律。

2013年08月08日 15時17分45秒 | 意識論関連
○自律とは自発の中にある。

 「好きなことばかりをして、多数迎合や権威への服従をすることを覚えないと、社会的責任判断をしなくなる。」という規範意識の観念には論理的根拠がない。

 文科系大衆観念的には、自分の好きなことと、他人の顔色を窺うことはバランス問題だと思われているようだが。他人の顔色を窺い、表面的/外見的に取り繕うことでは自律というのは育たず、決してバランス問題ではない。

 自律というものは自発の中にあり、他にはない。これは定理であり構造原理である。

 個人が主体的に社会の調和/持続可能性を追求するためには、何よりも自発性が重要であり。この自発性というものの解釈の仕方に曖昧さが存在するため、本質的には自発性ではないものを自発性であると錯覚している場合が少なくない。

 「やる気。」「意欲。」といったものには、環境依存的なものとして。他者との比較競争や差別化を主体とした意欲というものがあるが、これはあくまで「比較差別を行う多数他者との関係性。」という環境依存性を伴うものであり、本質的な主体性ではない。

 学力成績が高い割には自主的に何かを考えることが大嫌いなヒトというのは、成績評価という抽象化された「エサ」報酬に対する条件反射として成績に執着していただけであって。具体的に主体的目的意識も何もなく、ただ無意識に流されるまま強迫観念だけで学力成績を追求してきたヒトである。

 こういうヒトには自律がない。

 なぜなら自分の行動自体に本質的主体性がなく、環境依存的に提供される「エサ」報酬を動機としてしか行動が促されないように行動「学習」されてしまっているため。「エサ」報酬の約束どころか身の安全の保証すらない自律判断など最初からするつもりは一切ないからである。

 「学力成績さえ高ければ、人生の全てが保証されるものである。」という短絡的で安易な大衆観念を鵜呑みにしていなければ、こうした自律のない「高学歴なバカ。」は出てこない。

 では、自律はどのようにして行われるようになるのか。

 身の安全性の保証すらない自律判断を行うためには、環境依存性を伴うあらゆる「動機」を排除し、本質的に主体性のある純粋で自発的な意欲によって、自分から「生きよう」とする主体的意志が必要不可欠である。

 文科系大衆観念的には「社会から生かされている。」などと「生存」自体を絶対視した観念に基づき、現状世間に服従迎合することこそが「社会のため。」だと勘違いしておけば安心満足なのであろうが、こうした主体性の欠落こそが個人から自律を喪失させるのである。

 自分自身から「生きよう」とすることで、逆に「いつ死ぬべきか。」も自律的には選択可能となるのであり。その自律選択こそが、本質的な社会安全性にもつながるのである。

 事故が起こる前に原発の危険性を訴えていれば、東電内部から排除されるであろうことは予測に難くない。それを「生きるためには。」などと称して東電幹部に服従したからこそ、原発の危険性は放置されたのである。

 文科系大衆観念的には、従順で扱い易い子供であれば、常に都合の良い判断の全てをしてくれるものであると勝手に勘違いする傾向があろうが。「自分にとって取り扱い易い。」子供であることが、人間として社会的責任判断を行うことの論理的証明が存在しないことを、多くのヒトは認識していない。

 自分にとって取り扱い易い従順なヒトでさえあれば、多くのヒトは安心満足することによって。そのヒトが誰にとっても従順で取り扱い易いという安易さをも兼ね備えていることにまで意識が働いていない。

 東電幹部達にとって、従順で取り扱い易い社員は便利で、組織の金儲けを行う上において有利な存在であるため、原発の危険性を隠蔽黙殺させるためには「必要」な存在なのである。

 ヒトの多くは自律的な社会的責任判断の重要性にまで配慮することはなく、目先の生活の便利さや、他人との比較による優位性といった物質的豊かさにしか意識が働いていない。

 経済学上における自由市場原理というものも、個人が目先の利益効用にしか配慮が回らないという意識狭窄性が生み出すものであり。一人一人が社会全体の公益性にまで配慮する意識の広さを持たないことが自由市場原理の根源的劣悪性を作り出しているのである。

 こういった話をすると、大抵の場合、「それは難しい。」などと称して、あたかも論理的に不可能を証明したかのように言い張るバカが少なくないが。「難しい」ことを根拠に「やらなくて良い。」ことにすり替えて良いようなものではない。

 入学試験だのビジネスにおいては、やたらと「難しい。」ことを他人に強要する癖に。社会にとって最も重要な安全性に関わる話になると突然「それは難しい。」などと称して拒絶するのは支離滅裂無責任というものである。

 こうした論理的には支離滅裂で無責任な観念を、何ら自律的には論理検証せずに漫然と鵜呑みにしているからこそ、ヒトはいつまでもバカが治らないのである。

 ヒトの多くは何を優先しなければならないのかという根源的優先順位を忘れ、目先の世間的成功だの評価報酬、他人との比較優位性といったものばかりに意識を奪われている状態というのは、どう考えても「バカ」としか形容不能である。




 一部の思想家においては、民主主義自体を否定する向きもあるようだが、これは理想というものを放棄したとんでもないオカルトである。

 確かに従来世間においては多数大衆の迎合性判断というものは、社会を破綻にしか導かない傾向性はあったが。それなら専門家である東電原発安全担当者達による判断が正しいと言えるであろうか。

 問題の本質というのは制度自体にあるのではなく、個人の自律的な社会的責任判断にあるのであって、バカしかいないから民主主義が「バカ主義」に陥るのであって。これは専門家の集団であっても結果は同じことである。

 ナチズムにおいても、当時のドイツ国民の多くはナチズムという権威専門家集団にお任せしておきさえすれば全ては上手く行くものであると錯覚したからこそ、ナチズムに傾倒してしまったとも言えるのであり。権威専門家の全てが常に正しい判断を下すものであると決め付けることこそが独裁政権を生み出す高い危険性を孕んでいる。

 航空機の運行や原発の運転など、専門家でなければ危険な事柄というものが存在することは確かであるが。専門家であっても、専門家個人が自律的に社会的責任判断を下せないのであれば、バカげた結果に陥ることは明らかである。

 従って最も重要なのは制度そのものではなく、制度の具体的問題点にまで言及可能な個人の自律判断能力の獲得であって。外形である制度そのものを批判することこそがトンチンカンと言える。

 原発の過酷事故のような特殊な場面以外においては、原発行政の在り方については市民の意見も採り入れる必要性はあり、決して権威専門家だけに任せ切りにすべきものでもない。利権が絡む以上権威専門家が必ずしも社会的責任判断を優先するとは限らないからである。

 制度というのは外形であり、形式の話であって。どのような制度であろうと個人に自律的な社会的責任判断があることが重要なのであり、個人の自律を尊ぶ民主主義制度自体を批判するというのは「何も考えていない。」のと等しい。

 「何も考えていない。」ポンコツを「思想家。」として扱うマスコミにも問題がある。




 「企業が利益を追求しなければ、公益法人だ。」などというバカげた見解を読んだことがあるが、企業としてのマスコミが単に視聴率だけを追求していれば無責任に数字の採れそうな映像ばかりを垂れ流しておくことも正当化されるのであり。それは東電の原発事故までをも正当化するような話である。

 企業であれ、個人であれ、ヒトである以上は社会的責任を負うことから免れることなど構造原理的に出来ない。

 それが嫌で、どうしても目先の利益だけしか考えることが出来ない、意識出来ないというのであれば、もはや人間として社会的存在価値など存在せず、動物園の檻の中にでも閉じ込めておく他あるまい。

 企業の利益というのは、企業存続のための「手段」であって、企業自体の存在「目的」ではない。これを忘れて利益追求だけを正当化することなど本来出来るわけがないのである。



Ende;
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自律。

2013年08月08日 15時16分53秒 | 意識論関連
○論理検証性には自発性が優先される。

 本質的な自発的論理思考というのは、先ず初めに自発性が優先されなければならない。

 現在の認知科学的基準における論理思考能力試験でどんなに高い成績を獲得しても、試験でしか発揮されない論理思考などクソの役にも立たないからである。

 現在の認知科学者達がでっちあげた能力試験のほとんどには、論理的根拠などほとんどなく、「論理的思考能力を測るには、こういった試験問題が基準になるであろう。」という観念的憶測によって作られたものに過ぎない。

 知能指数いわゆるIQというものも、そもそもは60年以上前に兵隊への適性を検証するために作られた基準に過ぎず、IQが高いからといって人間としての知能を兼ね備えていることの論理的根拠など一切ない。大体兵隊に適しているということは権威への服従迎合性を兼ね備えていなければならず、自律的論理検証性を測る基準には全くなっていないため、何ら本質的知能を測る基準にはならない。

 そもそも論理検証というのは先天的或は後天的な思考バイアスに流されることなく、本質的な自己による主体的選択によって築かれるものであるからだ。

 数学数理というのもかなり怪しく、数学マニアが養老孟司の論理整合性の欠落を指摘した例はほとんどない。数学能力が論理検証性を促すというのであれば、数学者のほとんど全員が養老の支離滅裂さを指摘していないとおかしいのだが。現実にはほとんど誰も言及していない。

 「品格」云々の流行を作った数学者というのがいるが、そもそも「品格」自体に論理的根拠など一切なく、あくまで主観的な感覚以上の何も論じてはいない。彼は東北震災時の千葉県ブタンコンビナート火災を挙げて、「ブタンが燃えても二酸化炭素しか出ないから人体には無害だ。」と言い張ったが、現実には二酸化炭素というは無色透明であって、黒煙を上げているのは不完全燃焼による煤煙であって、これは決して無害ではない。ネット上で騒がれた程の危険性はないものの、大気汚染があったのは事実である。

 文科系大衆観念的には多数大衆に人気が出て、世間的に成功していさえすれば常に正しい判断を下すものであると勝手に妄想する性質があるが。マスコミが取り上げる基準自体が科学論理的根拠に乏しく、あくまで大衆多数人気を基準にしたウケ狙いに過ぎないことを認識すべきである。

 そもそもマスコミというのは、読者視聴者に判断責任をなすりつけて、自分達の判断責任を「メディアリテラシー」などと称して丸投げするものであり。マスコミの目的は自分達の表面的評価による組織の利益追求であって、こうした無責任さは東電原発の暴走と構造的には全く同じものである。



 自分の感情が促す行動バイアスの全てが常に正しいという妄想を、ヒトの多くは漠然と抱いているため、「感情=人間としての心。」という短絡的方程式に則って判断しがちである。

 ヒトの多くは大脳辺縁系が促す感情によって作り出される思考バイアス自体が無意識であることを認識していない。だからこそ気分感情が促す思考バイアスを短絡的に「心」であると言い張るのである。

 ヒトの多くは環境依存的要因によって行動のほとんどが決定する傾向習性があり、これらは全て無意識な感情が作り出す条件反射行動に過ぎない。

 原発の危険性を放置したのも、スペースシャトルの危険性を放置したことも、集団組織的な暴動や虐殺に加わることも、学校や企業でのイジメ差別迫害も、これらは全てヒトの感情が促す無意識な行動バイアスの結果であり。これを短絡的に「ヒトの心。」などと形容するのはとんでもない大嘘なのである。

 チンパンジーなどのサルには感情は存在しても、人間としての「心。」に至るまでの自己行動検証性など存在しない。それを「サルにも心がある。」などと言い張る現在の生物学者はオカルト宗教としか言いようがない。

 ヒトが差別迫害を行うのは、気分感情による行動バイアスに無意識に流されているからこその結果であり。差別迫害が正当化されないのは「人間」にとってだけの価値観であって。現在の生物学上における生存価だけを論ずれば、差別迫害であっても「より強い生存に適した個体を選択するための本能的目的である。」などと言い張ることは極めて簡単である。

 「心。」とは、単なる感情に由来する無意識な行動バイアスに流されることなく、自律的論理検証によって社会全体の安全性や持続可能性に供する行動を採ることによって、結果的に促されるものであって。ヒトの感情の全てが短絡的に「心。」であるなどと言い張るのは、あまりに無責任な文科系大衆観念である。

 「優しい気持ち。」になれるかどうか、それを「心。」などと形容するのも無責任である。気持ちという大脳辺縁系の反射が行動に短絡的に影響している時点で、これは心でもなんでもなく、DV男が散々暴力を振るった後に脳内物質の相転移によって行動が急変しているのと同じであるからだ。

 社会安全性に関わる判断を行う場合、それが企業組織の利益に反するなどの「理由」によって、安全性を優先することが個人の利益に反する場合というのは決して少なくはない。イジメにおいても暴力的イジメ集団に迎合しておかないと自分も排除される可能性は少なくない。

 こうした集団的な「力」に抗うのは気分感情ではなく、徹頭徹尾自律判断であって。どんなに気分の悪い結果になりそうだとしても個人が自発的に選択しなければ人間としての「心。」とは形容すべきではない。

 ヒトの多くは自分の意識の全てが常に100%意識であると錯覚しているため、自分の気分感情を短絡的に人間としての「心。」であると勘違いする傾向がある。こういった錯覚に陥っているヒトに限って「自分だけは大丈夫。」などと言い張るものである。

 ヒトである以上、間違えないヒトなどいない。

 自分が間違った判断を下す可能性を認識しているからこそ、本当の意味での意識/自律的論理検証が働くのであり。これを拒絶するのは気分感情が優先しているからに他ならない。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」だと盲信しておけば、自分の頭の悪さを認識せずに済むため、気分的には安心で満足なのであろう。

 自分が間違った判断をしてしまう理由も、多数他人が作り出した社会環境の処為であると思い込んでおくことで判断責任を放棄出来るものであると勝手に勘違いすることも簡単であろう。

 実際には多数他人が作り出す社会環境自体には、論理的には何の安全性の保証も存在しないことを、ヒトの多くは認識しておらず。単に「多数である。」というだけで安心満足しているに過ぎない。

 目先の気分感情でしか行動が決定しないというのであれば、これは統合失調症の一種に過ぎず、病気である。多数派が共通して持っている病理であれば、多くの場合病気としては扱われないものであるが、本能先天的行動バイアスによって自律的な社会的責任判断が失われることは充分先天的疾患なのである。

 こうした本能由来の社会迎合習性による自律判断の喪失性というものが、あらゆるヒトに存在することを前提とすれば。「自分だけは絶対に大丈夫。」などという無責任な妄想に陥ることはなく、「感情気分=心。」などという短絡的方程式を鵜呑みにすることもないはずである。




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腐敗。

2013年08月08日 15時13分47秒 | 意識論関連
○腐敗。

 ヒトの集団による組織腐敗というのは珍しいものではない。

 大王製紙の御曹子による使い込みや、西武グループ元会長によるインサイダー取引、東電による原発の危険性放置など。挙げればキリががないが、組織腐敗というものは組織を構成する個人には腐敗の意識が全くないことによって、組織腐敗というものは進行する。

 子供や企業でのイジメというものも、ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた組織腐敗性によって作り出されるものであり。組織腐敗というものは極めて普遍的なヒトの先天的習性によって促される日常的なものである。

 オウム真理教の幹部達が、自分達のテロ行為を本気で「人類の救済」だと信じ込んでいるように。大王製紙の経理担当者は取締役幹部の使い込みを隠蔽することが仕事だと思い込み、西武グループの社員達は会長の権限は絶対だと思い込み、東電原発安全担当者達は津波の影響を考慮に入れないことが仕事だと信じ込んでいたのである。

 かつてナチス政権下のドイツでは、国民の大半がナチズムを信奉したが。これはヒトラー個人による洗脳能力によって作り出されたものではなく、ヒトラーを信じ込んだ多数派が作り出した雰囲気、空気によって洗脳というものは進行するのである。

 イジメというものも、個人が個人を攻撃しているだけならイジメにはならない。イジメがイジメとなるのは多数派同調バイアスが作り出す気分的安心満足という先天的行動バイアスによって集団組織的な排除差別の結果であり、「ヒトという種の生物でありさえすれば人間性が先天的に宿っているものである。」という文科系大衆観念的妄想こそが、イジメ差別というものを正当化してしまう大きな要因でもある。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」とは、振り込め詐欺被害者の多くが信じ込んでいた勝手な妄想である。これと同様、組織腐敗に加担しているヒトの多くも、自分だけは異常ではないと勝手に妄想しているからこそ、組織腐敗は進行するのである。

 生物学者達の多くも、よもや自分が組織腐敗に加担しているとは夢にも思っていないかも知れないが。「生存戦略」などという論理的根拠を全く伴わない妄想観念を、観念かどうかを全く論理検証しない無意識性こそが腐敗を招いているのである。

 あらゆる遺伝要素は自然淘汰の「結果」であり、何ら個体の「目的」意識が介在する余地は論理構造原理的にない。従って、生物の先天的機能の全ては個体の選択が介在する余地はない。

 生物の行動の全てが、常に個体や種の保存に適した行動しかしない論証など存在せず。全ては「結果」論以外の何物でもない。

 生物学者の多くは、特定能力だけを取り上げることで、あたかも知能の全てを説明したかのような妄想に取り憑かれているが。自律的な社会的責任判断が伴わないあらゆる特定能力の全てには、本質的な人間としての知能の証明には全くならない。




 ヒトの先天的な社会形成習性が、常に社会全体の安全性や持続可能性に基づいた結果しかもたらさない証明などなく。むしろ集団組織的な暴力をもたらすことの方が普遍的で圧倒的に多く。実証の必要性もない現象的事実である。

 組織腐敗というものは、現在の生物学上では何ら「悪い。」ことではなく。むしろ断片的に生存に適する結果をもたらしさえすれば、生物の行動としては「正しい。」と定義されているのである。

 こうした生物学界の異常性を、生物学に分類される認知神経脳科学者の誰も言及していない。

 「これさえやっときゃ脳の良い。」などという大嘘で大衆人気を得て世間的には金儲けに成功した茂木健一郎などというのは、いうなれば振り込め詐欺の要領手口を応用した脱法詐欺に他ならない。

 茂木健一郎を全く批判せず、あわよくば自分達も脳ブームに便乗して脱法詐欺に加担しようとしている現在の認知神経脳科学者達のほとんど全員も、生物学界の組織腐敗に加担しているのである。

 彼等はこう取り繕うであろう、「世間のニーズである。」と。だが、これは大衆迎合ではあっても科学としての社会的要求に応えたことには全くならない。

 たとえどんなにマスコミ文科系高学歴エリートの多くが現在の生物学界の組織腐敗を認識出来ないとしても、認識出来ない時点で組織腐敗に加担していることになるのである。




 あらゆる企業は組織の利益を追求することが目的ではなく、あくまで企業活動によって社会貢献することが目的でなくてはならない。企業存続のための利益というのは社会貢献の結果でなければならないのである。

 こういった「理想」を述べると、無意識なヒトの多くは「それは理想だ。」などと称して、あたかも実現不可能なお伽話であるかのように言い張るが。理想を持たずに一体どこへ向かおうとしているのであろうか。一体何を基準に行動選択を行うつもりなのであろうか。

 単に現状世間に迎合し、何の理想も持たずに漫然と目先の利益を追求していれば、気分的には安心で満足を得ることは簡単であろう。

 事故さえ起きなければ原発の危険性を放置することは、東電にとって組織的利益となっていたであろう。しかし、事故が起きる前に危険性を訴え続ければ、東電をクビになるのは当たり前である。

 現状世間構造に迎合し、漫然と無意識に流されるままでいることは、組織腐敗に加担していることと等価である。

 すなはち、「それは理想だ。」と称して実現不可能性の証明であることのように言い張ることは、現状世間の腐敗性や問題点の全てを放置することを意味するのである。

 人間としての社会的責任判断というものは、本来全てのヒトに課された義務である。特定の技術者や天才だけにお任せしておけば社会安全性や持続可能性が確立されるような短絡的で安易なものではない。

 社会全体の安全性や持続可能性を考慮の全てに入れて行動することは簡単ではない。見落とすことも少なからずあるはずであり、これは「ヒト」である以上不可避ではあるが。可能な範囲ですら考慮に入れないための言い逃れとして理想を放棄することは、社会的には合法犯罪に他ならない。

 こうした合法犯罪というものは、司法手続き上は罪を問われることはないが。社会の破綻を放置し、暴走を促すことで社会全体が被害を被るのである。

 ヒトの多くは多数派に迎合しておけば、社会が破綻しても責任は多数派にあって自分にはないと勝手に妄想するであろう。こういった無意識な無責任さこそが、組織腐敗を招き、社会を破綻暴走へと導くのである。




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