書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

熱血。

2013年08月23日 15時39分50秒 | 意識論関連
○熱血。

 「熱血」などと称して感情的に怒鳴り散らすような行為を人間性だと勘違いするのは、文科系大衆観念に基づいた錯覚に他ならない。

 こうした錯覚というのは、「ヘタクソなパラパラ漫画で感動して号泣したから人間性だ。」などいう観念と一緒で、単に大脳辺縁系の活動が激しく、行動に直結しているという「結果」に過ぎない。

 感情的に他者を服従させる行為というのは、権威に服従するだけの従順で自律判断のないバカを育てる安易な方法論であり。こうしたヒステリー行為こそが社会安全性を根幹から破壊する犯罪行為である。

 「感情=意識=人間性」という論理的根拠のない文科系大衆観念を振り回すことは、論理検証性を放棄する無責任行為を助長するだけである。

 教育というものには尾木ママや桑田真澄のような冷静さが人間形成には必要であり、論理的に説明することや対策を立てることが人間形成には最も重要であり。「気に入らないから怒鳴り散らす。」感情論こそが本質的人間性を破壊するのである。

 安易な従順性ばかりを追求する教育手法に依存することは、社会安全性を蔑ろにする無責任行為であり、社会的な犯罪行為でもある。

 子供は社会の財産であって、バカな親の個人所有物ではないのである。あらゆるヒトは誰がしかの子供であり、原発の危険性を放置した東電原発安全担当者であっても「人の子」であり、無責任な人を作りだした責任というものは個人の主体的判断を蔑ろにしてきた社会全体の責任でもあるのだ。

 人は全てつながっており、それぞれ個人が自分の責任を全うすることによって、社会安全性というのは向上するのである。他人にばかり責任を求め、自分自身の社会的責任を放棄しておいて良い理由など存在し得ない。

 論理的根拠のない文科系大衆観念に依存する無責任さを改めないことには、人類は永遠にバカげた結果に陥ることは構造原理的に出来ない。

 より多くのヒトに論理検証性を追求させることが困難であることは否定出来ないが、だからといって「やらなくてよい。」などという社会的「甘え」や、「論理的に絶対不可能である。」かのように言い張る実証不能の観念に耳を貸すつもりはない。

 技術者などの特定個人にばかり責任を求め、自分自身が社会的に最も重要な社会安全性について配慮しなくて良いなどという無責任を振り回して良い理由などない。

 ええ加減にせぇよ、ポンコツ共め。(←ヒステリー)

Ende;
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老子。

2013年08月23日 15時38分27秒 | 意識論関連
○老子。

 「老子から、生きるヒントを貰う。」などというのは老子の思想を全く理解していない。

 老子は社会全体の持続可能性や安全性について追求しているのであって、個人的な「生存」のための「ヒント」小手先技を述べているのではない。

 文科系大衆の多くは、哲学というものからこ個人的生存手法や精神的救済ばかりを求めようとするが。哲学というのはそういった姑息な個人的利益や快楽を求めることではない。

 プラトン的に酔っ払い同士で話を丸めて精神的に安心満足しておけば、大衆の多くは哲学だと勝手に妄想しているが。そんなものは哲学(論理的検証の追求)ではない。

 ヒトの多くは哲学から個人的利益や気分的安心満足さえ得られれば良いと勘違いしているが。個人的利益や気分的安心満足などという主観的効用を追求することは哲学というものの本質を逸脱している。

 哲学というものは個人的利益や気分的安心満足を目的にしているものではなく、あくまで自己を含めた社会全体を俯瞰した統合的論理検証という、意識の広さを追求するものであって、大衆のご機嫌取りや主観的気分のためや生物的生存のためにあるのではない。

 個人的利益や気分的安心満足を求めるというのは、極めて主観的な効用を求めているだけであって。こうした個人的効用ばかりを追求しているからこそ、統合的な社会全体への配慮を喪失することに陥るのであり。むしろ思考停止の意識狭窄を促すだけのバカの論理であり、哲学というものの本質である論理検証性の追求という根源を逸脱している。

 こういった文科系大衆観念に基づいた身勝手な「解釈」ばかりを求め、論理的「理解」を拒絶しているからこそ原発の暴走や戦争といったあらゆる「人災」への具体的対策が放棄されるのであり。論理的根拠を持たない観念に基づいた身勝手な「解釈」によって論理的「理解」を放棄することこそが、人類の犯してきた最大の罪だと言える。

 生物学者達や哲学者の多くは、「生存戦略」などという実証不能の観念を振り回しておいても、気分的には「恐く」はなかろう。多数派で話を丸めて仲間内で気分的に「納得」でもしておけば、論理的「理解」が出来なくても良いものであると勝手に勘違いすることも簡単であろう。こうした気分感情論によって論理的思考を放棄していて学術理論もすったくれもあったものではない。

 「生存」というのは自然界における「結果」論以上の意味など存在せず、「戦略」などという意識的目的行動選択の介在する余地など構造原理的に有り得ない。後天的にどのような能力を獲得可能だとしても、先天的に獲得可能な範囲以上の能力は個体には獲得不可能であり、ヤギが二本脚で歩いたからといって遺伝的進化に影響を及ぼすようなものでも何でもないことは明らかである。遺伝的要素は個体自身には選択不可能な「結果」に過ぎず、そこに意識的「目的」論をこじつけようとすること自体に論理科学的根拠が全く存在しない。

 ましてや個人個体が「生きるため。」などという断片的で統合性を欠いた目先の個人的利益快楽を絶対的価値であるかのように扱うのは、極めて利己的であり、自分が有限の存在に過ぎない事実を忘れた普遍性を持たない身勝手な屁理屈に他ならない。

 目的というものは、人間としての本質的意識によって、統合的に論理検証されることで抽出可能なものであって。ヒトという種の生物でありさえすれば常に可能であるというような短絡的で安易なものではない。

 「生きるヒント。」などと称して、生物的生存を絶対価値であるかのように取り上げるNHK教育テレビというのは、文科系大衆観念に基づいた論理検証性の放棄に他ならず。極めて非学術的であり、「バカの観念」の共感ひけらかしに他ならない。

 ヒトは必ず死ぬ。この厳然たる事実を無視し、意味もなく永遠に生きようとする無為な観念こそが、社会安全性や持続可能性という統合的な人間性を伴う価値判断を喪失させるのである。

 生きるために原発の危険性を放置し、

 生きるために高速バスの安全性を無視し、

 生きるためにシエラレオネのゲリラに迎合し、

 生きるためにナチズムに迎合し、

 生きるために「お国の方針」に迎合し、

 生きるためにイジメに加わる。

 こうした生存絶対主義こそが、社会から安全性を喪失させ崩壊へと導く「暴走」を促すのである。

 生存という「結果」を正当化していれば、そこに意識的「目的」選択が介在しなくなるのは必然的結果である。



Ende;
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恐くなくてもダメです。

2013年08月23日 15時36分39秒 | 意識論関連
○恐い。

 犯罪者の逮捕直前でのインタビューなどで、時折犯罪者自身が「恐くない。」というキーワードを発することがある。

 「恐い」かどうかは気分の問題であって、社会的に迷惑で「悪い」かどうかとは無関係であり、個人の主観的感想に過ぎない気分感情を優先しているからこそ「恐くない。」などと述べているのであって、これこそが自律的な社会的責任意識の働いていない証拠である。

 不正をやらかすことは、社会全体にとって損失であり。自分が社会の一員としての責任を放棄しているということにまで配慮(意識/論理検証性)が働いていないからこそ、主観的感想に過ぎない「恐くない。」かどうかを優先的に主張すると考えられる。

 個人の主観的気分感情が、行動と直結しているからこそ社会的には迷惑で、「自己中心的」だと言えるのであり。気分感情という大脳辺縁系が促す行動バイアスに無意識に流されているというのは本質的には自己抑制制御をする「自分」がないことを意味する。故に「自己中心的な者には、自分がない。」と形容されるのである。

 犯罪行為が「恐い」かどうかは個人の主観的気分の感想であって、自分の行為が自分を含む社会全体にとって損失であるかどうかへの検証によって、迷惑で「悪い」行為かどうかを自律的には検証せず、国家権力などからの外的抑圧でしか行動が抑制されていない状態こそが、「自律がない。」と言える。

 自律の有無というのは外見的には全くわからない。糞チンピラ風味な外見であっても社会的責任判断を下す者もいれば、弁護士免許や一級建築士免許を持っていても自律のない奴は少なくない。




 文科系大衆観念的には、「理性というものは環境と深く結び付いているもの。」であり。個人がおかれている環境や状況によってのみ理性が働くかどうかが決定するものであると錯覚されている。

 確かにヒトという種の生物の行動習性的には、論理思考は環境からの影響を受けやすい傾向性は否めないが。論理性というものが環境や状況によってでしか発揮されることが構造原理的に不可能であることの証明はない。

 ヒト以外の動物であれば、先天的な本能習性に抗うことは極めて困難であり。イヌなどを人為的に訓練することで外的行動抑圧を刷り込み「学習」させることくらいしか出来ないが。ヒトの場合、極端な知的障害でもない限りは自分の本能習性や、成育環境によって刷り込み学習された無意識行動の自律制御が絶対に不可能であることの論理的証明は存在しない。

 いつ、如何なる状況や条件下であろうとも、自律的に社会的責任判断を行うという主体的な自律判断というものは。個人の自発性の中にしか存在し得ない。

 「社会に生かされている。」などと卑屈な態度を取っておけば、卑屈な文科系大衆観念的多数派の内部においては「謙虚」だと錯覚させることが可能であるため。主体的自発性というものはなくても良いと勘違いさせることは簡単である。

 「存外、人間とは簡単なものだ。」などという主張は、言うなれば「自分を含めてヒトなんてどうせバカなんだから、その場限りにご機嫌取りをしておけば安心で満足だ。」という単なる無責任性の事後正当化のための屁理屈に過ぎない。

 多くの「ヒト」は、その先天的本能習性のままに、多数派に迎合しておけば気分的には安心で満足を得られ、何が論理的根拠のある普遍性を持った話かを、自律的には判断することが出来ない。

 「ヒト」の先天的行動習性として、自律的に社会全体の安全性や持続可能への配慮を行うようには出来ておらず。目先の利己的利益や快楽安心ばかりを追求する傾向がある。

 こうした無意識性というのは、自閉症同様スペクトラム(連続的傾向性)があるため。自律判断の困難さにおいては個人差が存在することは確かであろう。故に「困難なこと=不可能。」と短絡的に「思って」いる程、無意識性が強い証明でもある。

 「思い。」という主観的な気分感情と、「考え。」という客観的思考を混同しているからこそ。環境や状況に意識や思考が奪われ、自律的判断力が喪失するのである。

 「思い。」という大脳辺縁系が促す行動バイアスを、あたかも主体的意欲であると勘違いしていれば。論理検証的「考え。」が働くなるのは必然的結果である。

 ヒトによっては、否、ヒトの多くにとっては、気分感情が促す「思い」の強度に依存した行動バイアスに逆らうことは「困難」かも知れないが。「困難さ。」を根拠に不可能の証明であるかのように言い張るのは、無責任極まりない詐欺行為である。

 スポーツ競技だの大学入試だの金儲けビジネスにばかり困難さを要求しておいて、社会にとって最も優先されるべき安全性や持続可能性については、困難であることを根拠に拒絶や否定するのは支離滅裂というものであり。本質的な合理性が全く追求されていない。

 それは多くのヒトにとって「恐く」はないのであろうが、こうした先天的本能由来の気分感情による行動バイアスこそが、合理性ある社会安全性を喪失させているのである。

 「恐い」かどうかだけで行動判断しているということは、言うなれば犯罪者の行動心理と全く同じものであり。法律には触れていなくても、人間としての道義的社会責任を果たしていないことになるのである。



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泣いてもダメです。

2013年08月23日 15時34分59秒 | 意識論関連
○号泣。

 糞チンピラが鉄拳の漫画見て号泣したからといって、それが短絡的に人間性の証明には全くならない。

 感動しやすいというのは、現実には情動と行動が直結しやすい短絡性を意味するものであって。その場限りの気分で行動が決定する単なるバカに過ぎない。

 DV男が暴力を振るった後、脳内物質の相転移によって外見上急に優しくなるのと同様。その場限りに外見的に感動したり優しくなるというのは人間性の論証ではなく、むしろ動物的な「ヒト」習性が強いことを意味しているに過ぎない。

 糞チンピラが糞チンピラ足りうる所以とは、その場限りの環境依存的に起因する気分感情だけで行動が決定してしまう短絡性であり。「感動したから人間性だ。」などという話は典型的に論理的根拠を持たない文科系大衆観念に他ならない。

 DV男に暴力を振るわれても、相手を「優しい所もある。」などと錯覚するバカ女同様。「感動したから人間性がある。」などと言う話も、実際には論理的根拠を全く伴わない大衆観念的錯覚に過ぎない。

 芸術作品というのは、どんなに多数大衆の大脳辺縁系を「感動」させたとしても、それが短絡的に社会安全性や持続可能性に影響するような社会的意義を持つわけでも何でもない。

 芸術作品というのは、あくまで個人の主観的好き嫌いに依存するものであって、多数派が「感動」する作品に感動しないからといって短絡的に「人間性がない。」ことの論証にも全くならないし。むしろヘタクソなパラパラ漫画に過剰に「感動」する方が異常と言えるのである。

 どんなに芸術的に優れた作品が作られようとも、それをナチス政権下のドイツ人に見せればユダヤ人虐殺が止まるわけでもなく。非情な独裁者に見せて感動させたとしても独裁自体に影響は及ぼさない。

 東電原発安全担当者に芸術的に優れた作品を見せれば原発の危険性が放置されなくなる論理的根拠も全く存在せず。あくまで「感動」などというのは大脳辺縁系が促す気分感情が促す行動バイアス以上の何でもない。

 むしろ芸術作品というものは、オウム真理教が洗脳に安っぽいアニメーション映画を用いたように。被洗脳者の気分感情としての恐怖心、強迫観念を植え付けるのには有効であるが。自律的な論理検証性が促されることはない。

 そもそも芸術作品を鑑賞して「感動した。」などというのは、自発的意欲に起因するものではなく。環境依存的に気分感情を動かされているだけであって、その場限りの雰囲気に流されているに過ぎないのである。

 「感動」などというのは脳内物質の相転移に過ぎず、どんなにその場限りに脳内物質の相転移が生じても、論理的には自律的な社会的責任判断能力とは全く関係がない。

 感動しやすいというのは、気分感情に流され易いことを意味し。イジメを行う心理的な動機としての嫌悪感がイジメという差別排除迫害に直結し易いことと関連がある。

 その場限りにヘタクソなパラパラ漫画に異常に感動したりするからこそ、その場限りに集団に迎合しない個人を差別排除したがるのであって。こうした「その場限り。」の短絡的錯覚を鵜呑みにしているからこそ、問題の本質を論理的に検証出来なくなるのである。

 ヒトの脳は錯覚に流される性質がある。錯覚を錯覚であると自律的に認識できなければ、錯覚に基づいた間違った認識でしか行動が促されることはない。

 同じ過ちを何度も繰り返すというのは、文科系大衆観念的な錯覚を、錯覚として認識していないという非合理性が生み出すものであり。合理性がないから努力辛抱根性的精神論に陥ることになるのである。

 「懲罰さえ与えておけば、犯罪が減る。」などという観念に基づいた固定観念こそが、現在の司法システムの根源的無駄を助長していることを、多くのヒトは全く認識しようとはしないように。「感動さえさせておけば糞チンピラが更生する。」などと思っているから糞チンピラが糞チンピラのまま放置されるのである。

 どんなに気分感情的に「感動」しても、自律的な社会的責任判断力にはつながらない。

 こんな論理的には極めて簡単なことであっても、自律的には誰も気付かない頭の悪さこそが、社会を崩壊へと導くことを認識しなければならない。



 その場限りに気分感情に流され易い者に人間性が伴うというのは、とんでもない錯覚である。

 自律的に社会的責任判断を行うためには、その場限りの気分感情に流されることなく、客観的統合判断を失わない冷静さを伴わなければならない。それこそが社会安全性の基本なのである。


Ende;
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