○行動バイアスと意思。
先天的本能欲望に基づいた行動バイアスを、意識的行動選択として扱うべきではない。
先天的本能欲望が促す行動バイアスは、数億年の生物進化の結果としては、概ね個体の生存や種の保存に適した洗練はされているものの。その行動バイアスがもたらす結果の全てが論理的に絶対に常に個体の生存や種の保存に適する論証はなく。生命史の中で度々起こっている大絶滅からも、先天的本能欲望が促す行動バイアスというものには何の保証もされていないのである。
「目的」選択としての意識とは、あくまでヒトが可能な範囲において論理検証した上での統合的判断であって。大抵の場合、可能でありながらも本能気分的に「やりたくない。」ために、ヒトの多くは本質的意識を持ち得ない。
ヒトという種の生物の脳は、自律的に論理検証を追求するようには出来ておらず。大抵は目先の欲望気分でしか行動が決定することはなく、むしろ先天的には論理検証性が阻害されるようにしか出来ていないのである。
先天的に論理検証を嫌う習性が多くのヒトには存在するからといって、後天的にも論理検証性を拒絶しないようには絶対に出来ないことの証明も存在しないのである。
本能欲望でしか行動が決定しないというのは、本質的な個人の主体的意志選択による「考え」が働いていないからであり。どんなに学力学歴が高くても自律的に社会的責任判断を行わないヒトが多いのは、個人の本質的主体性を無視しているからである。
入試学力ビジネスにとっては、生徒の学力成績や大学合格率は組織の利益と直結しており、生徒個人の本質的主体性に基づく自律的な社会的責任判断力の有無などどうでも良いのである。それが社会的に無責任であることを、多くのヒトは認識していない。
簡潔に言えば、「組織の利益にさえなれば、社会安全性など知ったことではない。」という意味である。
これは東電の原発危険性放置の構造と全く同じである。
現在の進化生物学が、「先天的本能欲望気分による行動バイアス」と「本質的な意識的選択としての意志」を混同することも。自分達の組織体制を維持することで既得権益を守ろうとしているだけであり、構造的には全く同じものである。
ヒトですら自己の行動バイアスから逃れられずに同じような「人災」を繰り返しているにも関わらず、ヒト以外の生物の先天的本能による行動バイアスを、どうして「意思」であると言えるのであろう。
最も根源的な「意思」や「意識」といったものの定義を間違えたまま、生物進化における意識的目的選択についての論証を繰り返しても、論理検証思考を撹乱することはあれ、有効な真理を抽出することには全く至らず、極めて不毛で無責任であると言える。
その場限りの「やる気」を環境依存的にそそのかしておいて。あたかも生徒の自主性を引き出したかのように錯覚するのも、社会的無責任であることに違いはない。
のべつまくなしその場限りの気分本能によって行動変化を繰り返した結果、それが自然淘汰によって洗練されたとしても。あくまで自然淘汰によって洗練される「結果」であって、行動変化自体には個体の主体的「目的」行動選択は全く介在しないばかりでなく、その洗練の「結果」についても、何の安全性や持続可能の保証も存在しないのである。
自然淘汰という「結果」に依らず、個人が主体的に目的行動選択を行うことで「意志」や「意識」と定義可能なのであって。その場限りの行動変化や特定能力の獲得というのは個体の意識的目的行動選択であるとは言えないのである。
Ende;
○phenotypic accommodation genetic accommodation。
如何なる生物の「表現型」が出現しようとも、潜在的に先天的可能性が伴わない限り出現不可能である。
生物の「表現型」というのは、遺伝要因と環境要因によって決定するものであって、「通常の環境」で発現しない「珍しい」表現型であるからといって、遺伝要素を超越して自分自身で自分の形態能力を変化させたことには全くならない。
潜在的な「表現型」というものは、あらゆる環境状況下においてみなければ現状では誰もわからないものであり。未知の「表現型」が多数存在するとしても何ら不思議ではない。また、多数の潜在的「表現型」という能力の余裕を持っていることによって、結果的に進化変化の可能性を持ちうるのであり、「通常の環境」でしか見られない「表現型」だけが遺伝的に決定しているとは限らない。
「通常の環境」では見られない「珍しい」表現型を発現したとしても、それが先天的遺伝要因を超越して個体自身の意識的選択によって発現させたものであるなどという話は。オカルト超能力に過ぎない。
「表現」可能な範囲というものは、自ら選択不可能なものであり、先天的に選択可能な範囲内でしか選択することは出来ないものであって、先天的に可能な範囲そのものを逸脱して「表現型」を獲得することは出来ない。
個体が先天的な可塑性自体を選択することは構造原理的に不可能なのであり、たとえ可塑性が自然選択による淘汰によって固定されることがあるとしても、淘汰という偶発性による選択を介している以上、もはや個体の意図目的選択が介在する余地は一切ない。
たとえ進化変化が促進されたからといって、進化変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適する保証はなく。どこにも意図意識的選択の余地などない。
前足を失ったヤギが二本脚で立ち上がることを、あたかも「先天的能力を超越した進化だ。」と言い張るのはキチガイ生物学者のオカルト話である。
ヤギが二本脚で立ち上がることは、多数抽出的には「珍しい」ことではあろうが。これは潜在的に獲得可能性を持っていたからこその結果であり、ヤギが先天的に二本脚では絶対に立ち上がることが出来ないことの証明がある訳もなく、あくまで先天的に潜在していた能力である。
どんなにたくさんの「二本脚では立ち上がらない。」事例を抽出枚挙しても、先天的に二本脚では立ち上がることが絶対に不可能であることの論証にはならない。カール:ライムンド:ポパーが論じた「白いスワン。」の例え話と同じで、どんなに「二本脚で立ち上がらないヤギをたくさん集めて来ても、ヤギは先天的に絶対に立ち上がらない。」ことの証明にはならないのである。
後天的学習などで潜在的能力を発揮する可能性を多数持っていたとしても、用がなければ発揮する必要性もなく、潜在能力のままである。
生物は潜在的に獲得可能な能力の全てを獲得する必要性はなく、必要に応じて必要な能力を獲得する以上は無駄であり。潜在的にどのような能力をどの程度獲得するのかは、状況や環境の条件によって異なるのは当たり前である。
通常4本脚で生活する生物が、後ろ脚だけで立ち上がることは実際にはそんなに珍しいことではなく、最近YouTubeでは猫が立ち上がる動画は大量に掲載されており、猫以外でも様々な4足歩行動物による立ち上がり事例というのは観測されている。
特定個体が他の多数の個体が発揮しない「珍しい」能力を獲得したとしても、それが先天的遺伝要素自体を能動的に変化させることにはならず、結局は環境依存的に淘汰されることでしか進化変化は生じず、決して能動的変化を意識的に選択したことにはならない。
潜在的に珍しい能力を獲得したからといって、それが短絡的に「個体の意思的選択」によるものであるとは言えない。
「行動進化」などという言葉も作り出されているが、遺伝的要素に影響がない以上、遺伝的には進化しておらず、生物「種」としての進化にはなっておらず、偶発的必然結果でこそあれ、その偶発性に当人の意図選択が介在する余地はなく、あくまで環境依存的結果論の一部に過ぎない。それはすなはち、環境依存的な自然淘汰の一部に過ぎないのである。
phenotypic accommodationというのは先天的能力の淘汰過程の一形態に過ぎず、何ら個体の意図的進化選択の論証には全くならない。
如何なる進化変化も、結果的に自然淘汰を介している以上、そこには個体の意図意識的選択が介在する余地はない。
ヤギの欲望であれ、ヒトの欲望であれ、先天的に決定している大脳辺縁系が促す行動バイアス自体には、社会持続可能性や安全性の保証など全くないのである。ヒトの大脳辺縁系というのは神が創り賜うた絶対優位性など存在せず、単に祖先のサルから受け継いだだけの本能習性という「結果」以上の意味は存在しない。
たとえば、チーターがどんなに速く走ったとしても、それは先天的に獲得可能であったからこその結果であって、所詮は先天的獲得可能性の上での淘汰の結果であり、どんなに外見上「突出」した能力であっても先天的獲得可能性の範囲から逸脱することにはならない。外見上の「突出」性に意識を奪われ、論理的根拠を無視した観念に囚われておいて、科学もすったくれもあったものではない。
そもそも先天的であれ遺伝要素の変異のほとんどは生存に適さず、どんなに後天的に「珍しい」能力を獲得しても能動的に自己の遺伝要素を選択することには構造原理的にはならず。「生存戦略」などという観念の正当化にもならない。
phenotypic accommodationによる遺伝要素を超越した進化仮説というのは従来の生物学上の「生存戦略」という観念を温存し、従来の生物学の体制を維持するための言い逃れや思考撹乱に過ぎない。本来構造原理的に解りきっている話を「わからない。」と言い張るのは、単に論理検証が出来ないただのバカである。
どんなに進化生物学者達の間で盛んに取り沙汰されても、論理的根拠がない以上科学的論証には全くならず。所謂「ハーメルンの笛吹。」につられているバカ生物学者達による大衆観念的「バカ騒ぎ」に過ぎない。
振り込め詐欺師が、どんなに突出した詐欺能力を後天的に獲得したとしても。これをヒトという種の生物の「進化」として短絡的に解釈するのは、あまりに断片的論証に過ぎず、ヒトという種の行動進化としても認めるわけにはいかない。なぜなら行動変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適するわけではなく、たとえ偶発的に適したとしても偶発性に依存している点において意図意識的選択が介在していないからである。
後天的にどんなに特殊で珍しく突出した能力を獲得したとしても、その能力の全てが種の保存や生存に絶対的に適することの論証にはならず。あくまでその場限りの個体生存価の論証くらいにしかならない。
個体生存価だけを断片的に取り上げている限り、種全体の環境調和性を無視した論証に過ぎず、本質的には「生存価」にすら適することの証明にもなっていないのである。
食物連鎖の頂点に属する生物の多くが無駄な繁殖力を持たないのも、無駄に繁殖すれば環境との調和が取れずに結果的に淘汰された結果である。断片的に「特定能力さえ高ければ生物として高等だ。」などと言い張るのは、あまりにバカげた大衆観念であり、科学的論証をパスした、科学としての社会的役割や責任を放棄した「バカの論証」である。
それとも進化生物学者達は自分自身の遺伝要素を素手で自由に変化させられるとでも言うのであろうか。そんなオカルトを鵜呑みにしている時点で、もはや科学の領域を激しく逸脱している。
自分の遺伝要素は誰も自分では選択不可能なものであり、自然選択の「結果」以上の何物でもない。
生物学上の進化というものは、あくまで変化の結果論以上の意味を持たず。どんなに観念的で断片的な論証を繰り返しても、意識的目的選択性を抽出することは構造原理的に不可能なのであり。「生存戦略」という観念の正当化は研究費の浪費という迷惑行為の温存にしか供さない。
こんな話は本来生物学者自身が自律的に検証すべきことであって、自律的に何も検証しないからこそ不毛な無駄遣いがなくならないのであり、結果的であれ体制腐敗を招いているのである。
体制腐敗や洗脳といったものは、無意識の産物であり。論理検証性の欠落に起因するものである。当人達が「自分達は腐敗なぞしていない。」とどんなに強く主張したとしても、そんなものは酔っ払いが「俺は酔っ払ってなんかいねぇ。」と言い張っているのと同じである。
科学とは、本来論理検証性によって論理的根拠のない観念からの脱構築性を持っているからこその存在価値であり。論理的検証性を持たない現在の生物学には社会的な存在価値が全くないのである。
どんなにチンパンジーに珍しい芸をさせたとしても、東電社員達が原発の危険性を放置した原因の解明には全くつながらないのは明白である。その場限りにのらりくらりと言い逃れを繰り返す現在の進化生物学というのは、自分達の体制維持だけを目的とした詐欺行為の温存に他ならない。
むしろ、現在の進化生物学界のこうした論理検証性の欠落による組織腐敗性こそが、東電原発の危険性放置の原因と同根であると言える。
「意識=気分感情の強度」という文科系大衆観念的錯覚を、錯覚として認識していないからこそ、本質的意識である「統合的な論理検証性」を喪失するのである。
理性とは、純粋には人畜無害のただの論理性に過ぎない。論理性は何も「欲求」することはなく、なにがしか「欲求」するのは本能感情である。一個のヒトの中には様々な価値観や感情があり、大脳辺縁系はその感情の強度だけで行動が決定するように出来ている。人間性とは、先天的に組み込まれた本能的行動バイアスである感情強度に流されることなく、論理検証的に最も大切であると選択した価値観に基づいて行動することである。
人格とは、性格だの外見的キャラクターを指すのではなく、自律的に社会的責任判断を行うかどうかを指すのである。先天的、或は環境依存的な行動バイアスとしての性格自体は、人格そのものを証明しない。
どんなに外見上冷静そうに見えようが、品行方正そうに見えようが、「見える。」などという観念には意味がない。なぜなら文科系大衆観念に基づいたアプリオリな錯覚に過ぎない場合がほとんどだからである。特に権威性に対してはヒトの多くは権威性バイアスがかかり、アイヒマン実験などに簡単に引っ掛かる習性がある。故の振り込め詐欺でもある。
プラトンだのニーチェが論理的根拠がない不毛な文科系大衆観念に過ぎないことを一切論じない現在の学術「哲学者」というのは、実際には気分感情を満足させるだけで何も「考え」検証することをしない大衆迎合的ペテン師集団に過ぎない。生物学上の「社会性」には人間としての自律的な社会的責任判断が伴わないことや、司法刑罰というものには犯罪の根源的原因究明性が欠如していることにも全く言及していないのが現在の哲学界の実態である。当然生物学が実証不能の観念を振り回していようとも、何の検証も批判もしない。危険工学的にヒトの危険性というものにも全く言及せず、論理的根拠のない観念を組織内部の多数で共有して安心満足しているだけのオカルト集団に過ぎないことを、同じ文科系マスコミは一切指摘することも出来ない。
「髪の毛を染めたから、ヒトも変態する。」的な全く不毛な観念で大衆の脳を撹乱させておいて、哲学としての社会的役割を果たせる訳がない。何が本当の哲学なのかを論理的に検証しないことには、哲学としての社会的役割は失われたままであり、当然社会安全性や持続可能性といった議論に対しても撹乱するだけで一向に進展を促さない。
社会安全性や持続可能性についての議論を撹乱しておいて、何ら有効な意見を持たない現在の哲学界というものは。体制維持のためだけの組織腐敗による税金の無駄遣いのみならず、社会にとって最も重要な議論を撹乱する犯罪行為でもある。
理工学系の研究者の多くは、哲学や生物学の非論理性に呆れて何も言及したがらないが。「呆れる。」という気分感情で無責任性を放置することもまた、無責任に加担しているのと同罪である。
Ende;
如何なる生物の「表現型」が出現しようとも、潜在的に先天的可能性が伴わない限り出現不可能である。
生物の「表現型」というのは、遺伝要因と環境要因によって決定するものであって、「通常の環境」で発現しない「珍しい」表現型であるからといって、遺伝要素を超越して自分自身で自分の形態能力を変化させたことには全くならない。
潜在的な「表現型」というものは、あらゆる環境状況下においてみなければ現状では誰もわからないものであり。未知の「表現型」が多数存在するとしても何ら不思議ではない。また、多数の潜在的「表現型」という能力の余裕を持っていることによって、結果的に進化変化の可能性を持ちうるのであり、「通常の環境」でしか見られない「表現型」だけが遺伝的に決定しているとは限らない。
「通常の環境」では見られない「珍しい」表現型を発現したとしても、それが先天的遺伝要因を超越して個体自身の意識的選択によって発現させたものであるなどという話は。オカルト超能力に過ぎない。
「表現」可能な範囲というものは、自ら選択不可能なものであり、先天的に選択可能な範囲内でしか選択することは出来ないものであって、先天的に可能な範囲そのものを逸脱して「表現型」を獲得することは出来ない。
個体が先天的な可塑性自体を選択することは構造原理的に不可能なのであり、たとえ可塑性が自然選択による淘汰によって固定されることがあるとしても、淘汰という偶発性による選択を介している以上、もはや個体の意図目的選択が介在する余地は一切ない。
たとえ進化変化が促進されたからといって、進化変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適する保証はなく。どこにも意図意識的選択の余地などない。
前足を失ったヤギが二本脚で立ち上がることを、あたかも「先天的能力を超越した進化だ。」と言い張るのはキチガイ生物学者のオカルト話である。
ヤギが二本脚で立ち上がることは、多数抽出的には「珍しい」ことではあろうが。これは潜在的に獲得可能性を持っていたからこその結果であり、ヤギが先天的に二本脚では絶対に立ち上がることが出来ないことの証明がある訳もなく、あくまで先天的に潜在していた能力である。
どんなにたくさんの「二本脚では立ち上がらない。」事例を抽出枚挙しても、先天的に二本脚では立ち上がることが絶対に不可能であることの論証にはならない。カール:ライムンド:ポパーが論じた「白いスワン。」の例え話と同じで、どんなに「二本脚で立ち上がらないヤギをたくさん集めて来ても、ヤギは先天的に絶対に立ち上がらない。」ことの証明にはならないのである。
後天的学習などで潜在的能力を発揮する可能性を多数持っていたとしても、用がなければ発揮する必要性もなく、潜在能力のままである。
生物は潜在的に獲得可能な能力の全てを獲得する必要性はなく、必要に応じて必要な能力を獲得する以上は無駄であり。潜在的にどのような能力をどの程度獲得するのかは、状況や環境の条件によって異なるのは当たり前である。
通常4本脚で生活する生物が、後ろ脚だけで立ち上がることは実際にはそんなに珍しいことではなく、最近YouTubeでは猫が立ち上がる動画は大量に掲載されており、猫以外でも様々な4足歩行動物による立ち上がり事例というのは観測されている。
特定個体が他の多数の個体が発揮しない「珍しい」能力を獲得したとしても、それが先天的遺伝要素自体を能動的に変化させることにはならず、結局は環境依存的に淘汰されることでしか進化変化は生じず、決して能動的変化を意識的に選択したことにはならない。
潜在的に珍しい能力を獲得したからといって、それが短絡的に「個体の意思的選択」によるものであるとは言えない。
「行動進化」などという言葉も作り出されているが、遺伝的要素に影響がない以上、遺伝的には進化しておらず、生物「種」としての進化にはなっておらず、偶発的必然結果でこそあれ、その偶発性に当人の意図選択が介在する余地はなく、あくまで環境依存的結果論の一部に過ぎない。それはすなはち、環境依存的な自然淘汰の一部に過ぎないのである。
phenotypic accommodationというのは先天的能力の淘汰過程の一形態に過ぎず、何ら個体の意図的進化選択の論証には全くならない。
如何なる進化変化も、結果的に自然淘汰を介している以上、そこには個体の意図意識的選択が介在する余地はない。
ヤギの欲望であれ、ヒトの欲望であれ、先天的に決定している大脳辺縁系が促す行動バイアス自体には、社会持続可能性や安全性の保証など全くないのである。ヒトの大脳辺縁系というのは神が創り賜うた絶対優位性など存在せず、単に祖先のサルから受け継いだだけの本能習性という「結果」以上の意味は存在しない。
たとえば、チーターがどんなに速く走ったとしても、それは先天的に獲得可能であったからこその結果であって、所詮は先天的獲得可能性の上での淘汰の結果であり、どんなに外見上「突出」した能力であっても先天的獲得可能性の範囲から逸脱することにはならない。外見上の「突出」性に意識を奪われ、論理的根拠を無視した観念に囚われておいて、科学もすったくれもあったものではない。
そもそも先天的であれ遺伝要素の変異のほとんどは生存に適さず、どんなに後天的に「珍しい」能力を獲得しても能動的に自己の遺伝要素を選択することには構造原理的にはならず。「生存戦略」などという観念の正当化にもならない。
phenotypic accommodationによる遺伝要素を超越した進化仮説というのは従来の生物学上の「生存戦略」という観念を温存し、従来の生物学の体制を維持するための言い逃れや思考撹乱に過ぎない。本来構造原理的に解りきっている話を「わからない。」と言い張るのは、単に論理検証が出来ないただのバカである。
どんなに進化生物学者達の間で盛んに取り沙汰されても、論理的根拠がない以上科学的論証には全くならず。所謂「ハーメルンの笛吹。」につられているバカ生物学者達による大衆観念的「バカ騒ぎ」に過ぎない。
振り込め詐欺師が、どんなに突出した詐欺能力を後天的に獲得したとしても。これをヒトという種の生物の「進化」として短絡的に解釈するのは、あまりに断片的論証に過ぎず、ヒトという種の行動進化としても認めるわけにはいかない。なぜなら行動変化の全てが必ずしも種の保存や環境調和に適するわけではなく、たとえ偶発的に適したとしても偶発性に依存している点において意図意識的選択が介在していないからである。
後天的にどんなに特殊で珍しく突出した能力を獲得したとしても、その能力の全てが種の保存や生存に絶対的に適することの論証にはならず。あくまでその場限りの個体生存価の論証くらいにしかならない。
個体生存価だけを断片的に取り上げている限り、種全体の環境調和性を無視した論証に過ぎず、本質的には「生存価」にすら適することの証明にもなっていないのである。
食物連鎖の頂点に属する生物の多くが無駄な繁殖力を持たないのも、無駄に繁殖すれば環境との調和が取れずに結果的に淘汰された結果である。断片的に「特定能力さえ高ければ生物として高等だ。」などと言い張るのは、あまりにバカげた大衆観念であり、科学的論証をパスした、科学としての社会的役割や責任を放棄した「バカの論証」である。
それとも進化生物学者達は自分自身の遺伝要素を素手で自由に変化させられるとでも言うのであろうか。そんなオカルトを鵜呑みにしている時点で、もはや科学の領域を激しく逸脱している。
自分の遺伝要素は誰も自分では選択不可能なものであり、自然選択の「結果」以上の何物でもない。
生物学上の進化というものは、あくまで変化の結果論以上の意味を持たず。どんなに観念的で断片的な論証を繰り返しても、意識的目的選択性を抽出することは構造原理的に不可能なのであり。「生存戦略」という観念の正当化は研究費の浪費という迷惑行為の温存にしか供さない。
こんな話は本来生物学者自身が自律的に検証すべきことであって、自律的に何も検証しないからこそ不毛な無駄遣いがなくならないのであり、結果的であれ体制腐敗を招いているのである。
体制腐敗や洗脳といったものは、無意識の産物であり。論理検証性の欠落に起因するものである。当人達が「自分達は腐敗なぞしていない。」とどんなに強く主張したとしても、そんなものは酔っ払いが「俺は酔っ払ってなんかいねぇ。」と言い張っているのと同じである。
科学とは、本来論理検証性によって論理的根拠のない観念からの脱構築性を持っているからこその存在価値であり。論理的検証性を持たない現在の生物学には社会的な存在価値が全くないのである。
どんなにチンパンジーに珍しい芸をさせたとしても、東電社員達が原発の危険性を放置した原因の解明には全くつながらないのは明白である。その場限りにのらりくらりと言い逃れを繰り返す現在の進化生物学というのは、自分達の体制維持だけを目的とした詐欺行為の温存に他ならない。
むしろ、現在の進化生物学界のこうした論理検証性の欠落による組織腐敗性こそが、東電原発の危険性放置の原因と同根であると言える。
「意識=気分感情の強度」という文科系大衆観念的錯覚を、錯覚として認識していないからこそ、本質的意識である「統合的な論理検証性」を喪失するのである。
理性とは、純粋には人畜無害のただの論理性に過ぎない。論理性は何も「欲求」することはなく、なにがしか「欲求」するのは本能感情である。一個のヒトの中には様々な価値観や感情があり、大脳辺縁系はその感情の強度だけで行動が決定するように出来ている。人間性とは、先天的に組み込まれた本能的行動バイアスである感情強度に流されることなく、論理検証的に最も大切であると選択した価値観に基づいて行動することである。
人格とは、性格だの外見的キャラクターを指すのではなく、自律的に社会的責任判断を行うかどうかを指すのである。先天的、或は環境依存的な行動バイアスとしての性格自体は、人格そのものを証明しない。
どんなに外見上冷静そうに見えようが、品行方正そうに見えようが、「見える。」などという観念には意味がない。なぜなら文科系大衆観念に基づいたアプリオリな錯覚に過ぎない場合がほとんどだからである。特に権威性に対してはヒトの多くは権威性バイアスがかかり、アイヒマン実験などに簡単に引っ掛かる習性がある。故の振り込め詐欺でもある。
プラトンだのニーチェが論理的根拠がない不毛な文科系大衆観念に過ぎないことを一切論じない現在の学術「哲学者」というのは、実際には気分感情を満足させるだけで何も「考え」検証することをしない大衆迎合的ペテン師集団に過ぎない。生物学上の「社会性」には人間としての自律的な社会的責任判断が伴わないことや、司法刑罰というものには犯罪の根源的原因究明性が欠如していることにも全く言及していないのが現在の哲学界の実態である。当然生物学が実証不能の観念を振り回していようとも、何の検証も批判もしない。危険工学的にヒトの危険性というものにも全く言及せず、論理的根拠のない観念を組織内部の多数で共有して安心満足しているだけのオカルト集団に過ぎないことを、同じ文科系マスコミは一切指摘することも出来ない。
「髪の毛を染めたから、ヒトも変態する。」的な全く不毛な観念で大衆の脳を撹乱させておいて、哲学としての社会的役割を果たせる訳がない。何が本当の哲学なのかを論理的に検証しないことには、哲学としての社会的役割は失われたままであり、当然社会安全性や持続可能性といった議論に対しても撹乱するだけで一向に進展を促さない。
社会安全性や持続可能性についての議論を撹乱しておいて、何ら有効な意見を持たない現在の哲学界というものは。体制維持のためだけの組織腐敗による税金の無駄遣いのみならず、社会にとって最も重要な議論を撹乱する犯罪行為でもある。
理工学系の研究者の多くは、哲学や生物学の非論理性に呆れて何も言及したがらないが。「呆れる。」という気分感情で無責任性を放置することもまた、無責任に加担しているのと同罪である。
Ende;
○どんなに「反省」しても自律的な社会的責任判断力の保証にはなりません。
その場限りに反省している風味を装うことは簡単である。演技でなくても、単にその場限りの気分で反省しているだけなら、反省を促されないと反省もしないし、自律的に責任判断も行わない。
糞チンピラが下手くそなパラパラ漫画に感動するのと同様、その場限りに「反省」しても自律判断力の証明には全くならない。
外見上その場限りに反省している風味、後悔している風味を醸し出していれば、バカな大人は短絡的に「反省しているから大丈夫、安心だ。」と錯覚するであろうが。これこそが典型的な文科系大衆観念である。
その場限りの気分感情が行動に直結している短絡性こそが、自律的責任判断の喪失原因であって、騙されている大人の方も無責任であり、同罪である。
「バカガキが反省しているから、赦してやろう。」などというその場限りの気分だけで判断していることもまた、バカヲヤヂの無責任性を作り出しているのであり、バカである点において全く同じである。
その場限りの気分的安心と、論理的安全性を履き違えていることは、社会的無責任というものである。
こういった文科系大衆観念に基づいた、論理的根拠のない身勝手な解釈による無責任な判断をしているからこそ、社会全体から安全性が失われることに陥るのである。
「気分感情=心」などという短絡的で安易な観念を鵜呑みにしているからこそ、「反省=人間性」などという身勝手な判断をすることに陥るのである。
気分的に「赦してやる。」というのは、論理的根拠のない個人の主観的観念に過ぎず。個人の主観的判断を、あたかも社会的価値として扱っている時点で、とんでもないペテンと言う他ない。
Ende;
その場限りに反省している風味を装うことは簡単である。演技でなくても、単にその場限りの気分で反省しているだけなら、反省を促されないと反省もしないし、自律的に責任判断も行わない。
糞チンピラが下手くそなパラパラ漫画に感動するのと同様、その場限りに「反省」しても自律判断力の証明には全くならない。
外見上その場限りに反省している風味、後悔している風味を醸し出していれば、バカな大人は短絡的に「反省しているから大丈夫、安心だ。」と錯覚するであろうが。これこそが典型的な文科系大衆観念である。
その場限りの気分感情が行動に直結している短絡性こそが、自律的責任判断の喪失原因であって、騙されている大人の方も無責任であり、同罪である。
「バカガキが反省しているから、赦してやろう。」などというその場限りの気分だけで判断していることもまた、バカヲヤヂの無責任性を作り出しているのであり、バカである点において全く同じである。
その場限りの気分的安心と、論理的安全性を履き違えていることは、社会的無責任というものである。
こういった文科系大衆観念に基づいた、論理的根拠のない身勝手な解釈による無責任な判断をしているからこそ、社会全体から安全性が失われることに陥るのである。
「気分感情=心」などという短絡的で安易な観念を鵜呑みにしているからこそ、「反省=人間性」などという身勝手な判断をすることに陥るのである。
気分的に「赦してやる。」というのは、論理的根拠のない個人の主観的観念に過ぎず。個人の主観的判断を、あたかも社会的価値として扱っている時点で、とんでもないペテンと言う他ない。
Ende;
○取れない責任。
福島第一原発における汚染水漏洩対策の不備隠蔽というものは、精神論的な努力辛抱根性だけで全てを解決しようとする強迫観念が働いているためである。
東電社員達が「万全を尽くしている。」などと言い張るのは、あくまで「自分達の可能な範囲において万全を尽くしている。」に過ぎず。客観的に見ればちいとも「万全」ではない。
出来ないことがあるならば、「これこれこういった理由で出来ません。」と正直に申告すれば良いのだが。自分達だけで
全ての責任を全うしなければならないという強迫観念が働いているため、取れもしない責任を取ろうとすることに陥るのである。
事故当時もそうなのだが、何が起きていて、何が欲しいのかを公開すれば、高価な圧送機だって供与してもらえたのであり。汚染水漏洩現場の実態を公開することで民間から広くアイデアや資材を提供して貰える可能性は高い。
オリンピック招致する金があるなら、汚染水漏洩や廃炉に回すべきであり。優先順位が明らかにおかしい。
「希望」だとか「勇気」なんてものは、社会安全性が確保された上での「気分の問題」であって、汚染水漏洩問題が解決しないのに気分だけ安心満足しようとするのは現実逃避に他ならない。
ぶっちゃけ、福島第一原発問題というのは、もはやウンザリしていて言及する気が起きない。
これは沖縄の米軍基地問題も、北朝鮮による拉致問題も、あまりに長引くと気分的には面倒臭くて考える気が起きなくなる。
もちろん、これらはヒトという種の生物における習性に他ならないので、意識的に回避するべきことではある。
ヒトは永く続くことは、永遠に続くものであると錯覚しがちな傾向があるので、諦めて対策など考えない方が気分的には楽になれる。
こうした気分的バイアスこそが、ヒトから論理検証性を喪失させ、思考停止へと導くのである。
原子力規制委員としては、いちいち東電の問題点を指摘するのは面倒臭いことかも知れないが。ありていに言って現場で日々対応している職員達の方がもっとウンザリしているに違いない。
廃炉対策などというものには希望がない。
日本の技術力というものは、そこに希望とか未来があるからこその安全性へのモチベーション(自発性)が働くのであって。日本の科学技術力の全てが常に安全性の高さを発揮するという短絡的なものではない。
原発関係者達の多くは、「事故を踏まえて安全性を高める。」などと言い張るが、政府の規制委員会が入るまで汚染水問題すら進展しないというのは、原発関係者達の多くが何ら具体的に安全性を高めるための対策に関わっていない証拠である。
要するに、その場しのぎの「嘘」だったのである。
原発再稼動問題において、やたらと取り沙汰される「国際競争力」であるが。バブル期に国際的に金儲けが出来ていた時代に日本人が幸福だったかと言えば、地上げ屋達による暴力が蔓延っていたのであり、バカ騒ぎで浮かれていただけに過ぎない。
金儲けによる国際競争力と、社会の幸福には相関関係がないのである。
幸福だと「感じない。」のは、物質的豊かさへの過剰な欲求がもたらすものであって。物質的豊かさ自体に問題があるのではなく、物質的にしか豊かさを求められない精神的貧困こそが問題なのである。
脳が餓えていれば、どんなに大量の食物を摂取しても満足することはない。
例えば、満腹中枢に障害が起きて、どんなに食べ物を食べても気分的に満足しない状態であるならば。食べ物を増やすことよりも、満腹中枢の障害を取り除くことの方が先である。
そんなことは臨床だって当然の処置である。
その「満腹中枢の障害」こそが、文科系大衆観念に基づいた強迫観念的価値観に由来するものなのである。
「国際競争力を持たなければならない。」ことの、合理的根拠は何処にも存在しない。
何でもかんでも金で解決しようとする精神的貧困こそが、ヒトを無意味な暴走へと駆り立てるのである。
年寄りから仕事を奪い、子供から希望を奪い、目先の他人との比較による物質的豊かさを追い求めた先に一体どういう未来があるのかを、多くのヒトは「考え」ない。
何も考えなくても法律上は罪にはならない、愚かであることは法手続き上は犯罪ではない。しかし、法律というものが何かを保証してくれるという論理的根拠なんぞ一切ないのである。
事実、現状の司法裁判システムというものは、犯罪というものの根源的原因究明にも再発防止策にもつながらない。
「法律さえ守らせておけば、あらゆる問題は解決する。」などと思っているのであれば、これはキチガイの妄想に他ならない。
誰も法律に違反などしていないにも関わらず、原発は暴走したのである。
「これさえやっときゃ、全ての問題は解決する。」などという観念は、要するに考えるのが面倒臭いから短絡的方法論への依存が生じるのであって。バカ特有の思考パタンである。
バカがバカたりうる所以とは、自律的に論理検証するという「考え」が働いないからである。
司法関係者のほとんど全員は、法律さえ守らせておけば全ての問題は解決するものであると妄想している。これは原発関係者達が原発さえ稼動しておけば国際競争力が担保出来ると妄想しているのと同じ意識狭窄性と同根である。
経済学者の多くも、個人が世間的に成功しておきさえすれば、全ての問題が解決すると妄想しており。こうした観念を利用することによって、「個人の世間的成功。」ばかりが人類共通の目的であるかの如く錯覚されるように誘導しているのである。
妄想による誘導であれば、誘導している当人には罪の意識はない。だから無意識な暴走破綻を促すのであり、洗脳なのである。
罪の意識がなければ、当然責任を取るつもりもない。
Ende;
福島第一原発における汚染水漏洩対策の不備隠蔽というものは、精神論的な努力辛抱根性だけで全てを解決しようとする強迫観念が働いているためである。
東電社員達が「万全を尽くしている。」などと言い張るのは、あくまで「自分達の可能な範囲において万全を尽くしている。」に過ぎず。客観的に見ればちいとも「万全」ではない。
出来ないことがあるならば、「これこれこういった理由で出来ません。」と正直に申告すれば良いのだが。自分達だけで
全ての責任を全うしなければならないという強迫観念が働いているため、取れもしない責任を取ろうとすることに陥るのである。
事故当時もそうなのだが、何が起きていて、何が欲しいのかを公開すれば、高価な圧送機だって供与してもらえたのであり。汚染水漏洩現場の実態を公開することで民間から広くアイデアや資材を提供して貰える可能性は高い。
オリンピック招致する金があるなら、汚染水漏洩や廃炉に回すべきであり。優先順位が明らかにおかしい。
「希望」だとか「勇気」なんてものは、社会安全性が確保された上での「気分の問題」であって、汚染水漏洩問題が解決しないのに気分だけ安心満足しようとするのは現実逃避に他ならない。
ぶっちゃけ、福島第一原発問題というのは、もはやウンザリしていて言及する気が起きない。
これは沖縄の米軍基地問題も、北朝鮮による拉致問題も、あまりに長引くと気分的には面倒臭くて考える気が起きなくなる。
もちろん、これらはヒトという種の生物における習性に他ならないので、意識的に回避するべきことではある。
ヒトは永く続くことは、永遠に続くものであると錯覚しがちな傾向があるので、諦めて対策など考えない方が気分的には楽になれる。
こうした気分的バイアスこそが、ヒトから論理検証性を喪失させ、思考停止へと導くのである。
原子力規制委員としては、いちいち東電の問題点を指摘するのは面倒臭いことかも知れないが。ありていに言って現場で日々対応している職員達の方がもっとウンザリしているに違いない。
廃炉対策などというものには希望がない。
日本の技術力というものは、そこに希望とか未来があるからこその安全性へのモチベーション(自発性)が働くのであって。日本の科学技術力の全てが常に安全性の高さを発揮するという短絡的なものではない。
原発関係者達の多くは、「事故を踏まえて安全性を高める。」などと言い張るが、政府の規制委員会が入るまで汚染水問題すら進展しないというのは、原発関係者達の多くが何ら具体的に安全性を高めるための対策に関わっていない証拠である。
要するに、その場しのぎの「嘘」だったのである。
原発再稼動問題において、やたらと取り沙汰される「国際競争力」であるが。バブル期に国際的に金儲けが出来ていた時代に日本人が幸福だったかと言えば、地上げ屋達による暴力が蔓延っていたのであり、バカ騒ぎで浮かれていただけに過ぎない。
金儲けによる国際競争力と、社会の幸福には相関関係がないのである。
幸福だと「感じない。」のは、物質的豊かさへの過剰な欲求がもたらすものであって。物質的豊かさ自体に問題があるのではなく、物質的にしか豊かさを求められない精神的貧困こそが問題なのである。
脳が餓えていれば、どんなに大量の食物を摂取しても満足することはない。
例えば、満腹中枢に障害が起きて、どんなに食べ物を食べても気分的に満足しない状態であるならば。食べ物を増やすことよりも、満腹中枢の障害を取り除くことの方が先である。
そんなことは臨床だって当然の処置である。
その「満腹中枢の障害」こそが、文科系大衆観念に基づいた強迫観念的価値観に由来するものなのである。
「国際競争力を持たなければならない。」ことの、合理的根拠は何処にも存在しない。
何でもかんでも金で解決しようとする精神的貧困こそが、ヒトを無意味な暴走へと駆り立てるのである。
年寄りから仕事を奪い、子供から希望を奪い、目先の他人との比較による物質的豊かさを追い求めた先に一体どういう未来があるのかを、多くのヒトは「考え」ない。
何も考えなくても法律上は罪にはならない、愚かであることは法手続き上は犯罪ではない。しかし、法律というものが何かを保証してくれるという論理的根拠なんぞ一切ないのである。
事実、現状の司法裁判システムというものは、犯罪というものの根源的原因究明にも再発防止策にもつながらない。
「法律さえ守らせておけば、あらゆる問題は解決する。」などと思っているのであれば、これはキチガイの妄想に他ならない。
誰も法律に違反などしていないにも関わらず、原発は暴走したのである。
「これさえやっときゃ、全ての問題は解決する。」などという観念は、要するに考えるのが面倒臭いから短絡的方法論への依存が生じるのであって。バカ特有の思考パタンである。
バカがバカたりうる所以とは、自律的に論理検証するという「考え」が働いないからである。
司法関係者のほとんど全員は、法律さえ守らせておけば全ての問題は解決するものであると妄想している。これは原発関係者達が原発さえ稼動しておけば国際競争力が担保出来ると妄想しているのと同じ意識狭窄性と同根である。
経済学者の多くも、個人が世間的に成功しておきさえすれば、全ての問題が解決すると妄想しており。こうした観念を利用することによって、「個人の世間的成功。」ばかりが人類共通の目的であるかの如く錯覚されるように誘導しているのである。
妄想による誘導であれば、誘導している当人には罪の意識はない。だから無意識な暴走破綻を促すのであり、洗脳なのである。
罪の意識がなければ、当然責任を取るつもりもない。
Ende;
○環境依存的意欲。
「友達」と称して、半ば強制的に集められたクラスメート同士での信頼関係には、本質的には個人の選択が介在していない。
教師が求めるカリキュラムにも、生徒の選択は介在しない。
こうした状況下において、どんなに生徒同士の信頼関係を教師が作り出しても、あくまで環境依存的「結果」以上の何も導き出されることはない。教師が作り出していること自体が環境依存性の根源であり、生徒の環境依存性自体には何も影響を与えておらず、自律的な社会的責任判断能力の獲得にはつながらない。
その場限りの目先の多数派に迎合するからこそ、東電内部では原発の危険性が放置されたのであり。こうした仲間内での信頼関係というのは、仲間以外との社会全体への配慮意識を喪失する要因ともなりうる。
振り込め詐欺師集団というのも、結局は仲間内での信頼関係によって作り出されるものであり。ナチズムもシエラレオネの少年ゲリラもソマリアの民族浄化も同様である。
こうした本能的な社会形成習性を、環境依存的に発揮させて安心満足するというのは、大人教師の勝手な自己満足に他ならない。
そもそも「成功体験」に依存しているからこそ、失敗を拒絶するようになるのであり。失敗を恐れず多数派に迎合せず物事に向き合う本質的自主性こそが、自律的な社会的責任判断の源であって。「成功体験」なんぞに依存しているからこそ、社会が崩壊に向かうのである。
コロンビア大学のシーナ:アイエンガーの講義も、結局は個人的「成功」だの「自分の幸福。」ばかりを基準にした話しかしておらず。本質的な人間性について何も考慮していない大衆迎合に過ぎない。
アイエンガーの言っていることには論理整合性がなく、「かも知れません。」という予測ばかりが陳列されており、何ら論理的根拠のある証明がされておらず、内容のほとんどが占い師レベルの大衆迎合である。
一方では「多くの人が失敗したことは成功しない」と決め付け、その一方では「成功者の多くは失敗にめげずに挑戦し続けることで成功した。」などと、その場限りの結果論を陳列しているだけであり。要するに統計的根拠も論理的根拠もアイエンガーは持ち合わせていないのである。こんなあやふやな話で満足しているコロンビア大学生達というのは、ほとんどバカの集団としか言いようがない。
「理性=10年後の幸福。」「直感=目先の幸福。」などという規定についても論理的根拠はなく。アイエンガーの勝手な観念論に他ならない。純粋な理性は何も「欲求」することはなく、「10年」という時間にも論理的根拠は全くない。100年千年先のことまで考慮してこその人間性であり哲学と言えるが、「10年」しか考慮に入れない時点でその場限りの話でしかなく、論理的普遍性を持たない大衆迎合に過ぎない。
ベンヤミンがナチズムを批判した結果、それが原因で不幸を招いたのであり。地動説を唱えたガリレオが火炙りにされそうになったことを、どうして「理性=10年後の幸福」などと規定可能であろう。
「哲学ではなく経済学だから、目先の利益だけ考慮に入れておいても構わない。」などという話には全くならない。それは無責任以外の何物でもないからだ。
身勝手な規定に基づいて、「これさえやっときゃ、世間的に成功する。」的大衆観念を披露しておけば、バカな大学生の脳を安心満足させておくのは簡単である。
アイエンガーの講義には、個人の自律的な社会的責任判断についての配慮が全く伴っておらず、思考停止によって社会を破綻に導く無意識洗脳に他ならない。
ヒトという種の生物の多くは、精々数年程度の個人の利己的利益こそが絶対的価値であるとしか考慮意識に入れることが出来ない傾向があるが。自分が死んだ後の世界全体にまで考慮に入れることが絶対に不可能であることの論理的根拠は存在しない。
多くのヒトは、こう反論したがるであろう、「だって、自分が生きるだけで精一杯だから、仕方ない。」と。
「仕方ない。」というのは、「他に選択の余地が絶対に存在し得ない。」ことの論証であろうか。それなら原発の危険性を放置した東電社員達を糾弾する権利がどこにあろう。あらゆる危険性「人災」を放置した責任が、「自分が利己的に生存するため。」であると称して正当化しているからこそ、具体的犯罪防止策を持たない司法行政のような不毛な公金の無駄遣いすらも無くならないのである。
失敗を教訓へと変えるためには、まず失敗そのものの根源的原因を認識し、自らの過ちを認識しなければならない。自分だけは社会的責任判断をせずに、他人にばかり責任をなすりつけるのは社会的「甘え」に他ならず、こういった身勝手な文科系大衆観念こそが社会を暴走破綻へと導く結果を招くのである。
法律というものは神から与え給うた絶対的価値を持ったものではない。飲食店の中で客が踊っていただけで店主が逮捕拘留されるのが法律というものである。実質的に誰も被害を被っていないにも関わらず、単に法手続きだけに従って権力を行使するのは横暴であり、むしろ道義的な犯罪なのである。
法律というのは、法律を立法した際の「趣旨」というものが肝要であり、趣旨を逸脱した法律の行使は役人の利己的業績を目的とした脱法犯罪である。
役人が率先して脱法行為をしておいて、脱法ドラッグも、脱法風俗もすったくれもあったものではない。
緒方貞子が国際法上の難民規定に遵って、国外に脱出することが叶わない実質的難民を救わないことが「正しい」選択ではなかったことは明らかである。
最も重要なのは法手続きを機械条件反射的に守らせることではなく、法律の有無に関わらず自律的に社会的責任判断を行う個人の本質的意識こそが社会安全性や持続可能性を導き出すのである。全ての個人が自分の行動に責任を持って行動していれば、刑法などという無駄な懲罰は必要なくなるのである。
「懲らしめられるから、法律に従う。」という条件反射短絡行動原理に頼っているからこそ、自主性や主体性のない者が増えるのであり、結果的に無責任な者が増え、誰も主体的に「考える」ことをしなくなるのである。これは特定権威だけの責任ではなく、民主主義制度国家である以上は国民全ての責任なのである。
自分が責任判断をするのが嫌だというのであれば、北朝鮮でもどこでも民主主義制度を導入していない国に亡命すればよかろう。それもまた「自由」なのが民主主義国家というものでもある。
Ende;
「友達」と称して、半ば強制的に集められたクラスメート同士での信頼関係には、本質的には個人の選択が介在していない。
教師が求めるカリキュラムにも、生徒の選択は介在しない。
こうした状況下において、どんなに生徒同士の信頼関係を教師が作り出しても、あくまで環境依存的「結果」以上の何も導き出されることはない。教師が作り出していること自体が環境依存性の根源であり、生徒の環境依存性自体には何も影響を与えておらず、自律的な社会的責任判断能力の獲得にはつながらない。
その場限りの目先の多数派に迎合するからこそ、東電内部では原発の危険性が放置されたのであり。こうした仲間内での信頼関係というのは、仲間以外との社会全体への配慮意識を喪失する要因ともなりうる。
振り込め詐欺師集団というのも、結局は仲間内での信頼関係によって作り出されるものであり。ナチズムもシエラレオネの少年ゲリラもソマリアの民族浄化も同様である。
こうした本能的な社会形成習性を、環境依存的に発揮させて安心満足するというのは、大人教師の勝手な自己満足に他ならない。
そもそも「成功体験」に依存しているからこそ、失敗を拒絶するようになるのであり。失敗を恐れず多数派に迎合せず物事に向き合う本質的自主性こそが、自律的な社会的責任判断の源であって。「成功体験」なんぞに依存しているからこそ、社会が崩壊に向かうのである。
コロンビア大学のシーナ:アイエンガーの講義も、結局は個人的「成功」だの「自分の幸福。」ばかりを基準にした話しかしておらず。本質的な人間性について何も考慮していない大衆迎合に過ぎない。
アイエンガーの言っていることには論理整合性がなく、「かも知れません。」という予測ばかりが陳列されており、何ら論理的根拠のある証明がされておらず、内容のほとんどが占い師レベルの大衆迎合である。
一方では「多くの人が失敗したことは成功しない」と決め付け、その一方では「成功者の多くは失敗にめげずに挑戦し続けることで成功した。」などと、その場限りの結果論を陳列しているだけであり。要するに統計的根拠も論理的根拠もアイエンガーは持ち合わせていないのである。こんなあやふやな話で満足しているコロンビア大学生達というのは、ほとんどバカの集団としか言いようがない。
「理性=10年後の幸福。」「直感=目先の幸福。」などという規定についても論理的根拠はなく。アイエンガーの勝手な観念論に他ならない。純粋な理性は何も「欲求」することはなく、「10年」という時間にも論理的根拠は全くない。100年千年先のことまで考慮してこその人間性であり哲学と言えるが、「10年」しか考慮に入れない時点でその場限りの話でしかなく、論理的普遍性を持たない大衆迎合に過ぎない。
ベンヤミンがナチズムを批判した結果、それが原因で不幸を招いたのであり。地動説を唱えたガリレオが火炙りにされそうになったことを、どうして「理性=10年後の幸福」などと規定可能であろう。
「哲学ではなく経済学だから、目先の利益だけ考慮に入れておいても構わない。」などという話には全くならない。それは無責任以外の何物でもないからだ。
身勝手な規定に基づいて、「これさえやっときゃ、世間的に成功する。」的大衆観念を披露しておけば、バカな大学生の脳を安心満足させておくのは簡単である。
アイエンガーの講義には、個人の自律的な社会的責任判断についての配慮が全く伴っておらず、思考停止によって社会を破綻に導く無意識洗脳に他ならない。
ヒトという種の生物の多くは、精々数年程度の個人の利己的利益こそが絶対的価値であるとしか考慮意識に入れることが出来ない傾向があるが。自分が死んだ後の世界全体にまで考慮に入れることが絶対に不可能であることの論理的根拠は存在しない。
多くのヒトは、こう反論したがるであろう、「だって、自分が生きるだけで精一杯だから、仕方ない。」と。
「仕方ない。」というのは、「他に選択の余地が絶対に存在し得ない。」ことの論証であろうか。それなら原発の危険性を放置した東電社員達を糾弾する権利がどこにあろう。あらゆる危険性「人災」を放置した責任が、「自分が利己的に生存するため。」であると称して正当化しているからこそ、具体的犯罪防止策を持たない司法行政のような不毛な公金の無駄遣いすらも無くならないのである。
失敗を教訓へと変えるためには、まず失敗そのものの根源的原因を認識し、自らの過ちを認識しなければならない。自分だけは社会的責任判断をせずに、他人にばかり責任をなすりつけるのは社会的「甘え」に他ならず、こういった身勝手な文科系大衆観念こそが社会を暴走破綻へと導く結果を招くのである。
法律というものは神から与え給うた絶対的価値を持ったものではない。飲食店の中で客が踊っていただけで店主が逮捕拘留されるのが法律というものである。実質的に誰も被害を被っていないにも関わらず、単に法手続きだけに従って権力を行使するのは横暴であり、むしろ道義的な犯罪なのである。
法律というのは、法律を立法した際の「趣旨」というものが肝要であり、趣旨を逸脱した法律の行使は役人の利己的業績を目的とした脱法犯罪である。
役人が率先して脱法行為をしておいて、脱法ドラッグも、脱法風俗もすったくれもあったものではない。
緒方貞子が国際法上の難民規定に遵って、国外に脱出することが叶わない実質的難民を救わないことが「正しい」選択ではなかったことは明らかである。
最も重要なのは法手続きを機械条件反射的に守らせることではなく、法律の有無に関わらず自律的に社会的責任判断を行う個人の本質的意識こそが社会安全性や持続可能性を導き出すのである。全ての個人が自分の行動に責任を持って行動していれば、刑法などという無駄な懲罰は必要なくなるのである。
「懲らしめられるから、法律に従う。」という条件反射短絡行動原理に頼っているからこそ、自主性や主体性のない者が増えるのであり、結果的に無責任な者が増え、誰も主体的に「考える」ことをしなくなるのである。これは特定権威だけの責任ではなく、民主主義制度国家である以上は国民全ての責任なのである。
自分が責任判断をするのが嫌だというのであれば、北朝鮮でもどこでも民主主義制度を導入していない国に亡命すればよかろう。それもまた「自由」なのが民主主義国家というものでもある。
Ende;