書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

顔料?。

2013年09月03日 17時13分57秒 | 日記
○中国製衣料品の色移り。

 やたらと摩擦で他のバッグや衣料品に色移りがする癖に、どういう訳か色が抜けない染みが生じる衣料品があるそうだ。

 もしかすると染料じゃなくて顔料なんじゃね。

 単純に高圧空気で吹き飛ばせば色が抜けるのかも。

 でも、一体どういう顔料なのか得体が知れないので、飛び散った顔料粒子を吸い込まないよう注意。

 中国製品って恐い。

 キーエンスの高性能顕微鏡で顔料粒子が見えたりしないのかな。


Ende;
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悪ノリ。

2013年09月03日 17時13分04秒 | 意識論関連
○悪ノリ。

 Web上で悪ノリ投稿がエスカレートするのは、「目立つこと」を短絡的に社会的評価か何かと勘違いする文科系オカルト大衆観念に基づいた無意識性暴走性によるものである。

 目立つことというのは個人的利益でもなければ、人間としての価値の証明にもならない。文科系オカルト大衆観念上では目立っていることを短絡的に何かの価値だと錯覚しているようだが、実質的には何の意味もない。

 「目立つ」かどうかで行動責任の有無が決定するわけでもないのに、「普段は目立たない」ことを根拠に「責任を問われる」ことに結び付けるのも論理的根拠のない観念である。

 目立つかどうかという環境に関わらず、自発的に社会安全性を求める主体性こそが人間性の源であり、目立つことを自体を求めるのは多数大衆からの注目を集めることを目的とした、本質的主体性の欠落を意味する無意識な行動である。

 こうした短絡的に「目立ち」さえすれば満足するという価値観は、通り魔が主張する「大きなことをしてやりたかった。」という動機と同じものであり、あまりにバカ過ぎる。

 ありていに言って、悪ノリ投稿などというのは、ほとんど酔っ払いの行動と同じである。



 文科系のマスコミは悪ノリ投稿に対して「世間の目」云々を論ずるが、これは大間違いである。単純に「誰も見てなきゃ良いのか。」という話になるからだ。

 そもそも悪ノリ投稿自体が目立とうとする「世間の目」を動機とするものであり、「世間の目」を気にするというのはヒトという種の生物の本能的社会形成習性が促す無意識性に他ならず、本質な意識的選択を介さない。

 「世間の目」という環境依存性を論じている限り、自律的な社会的責任判断を無視しており、極めて不毛である。

 本当に必要なのは多数他者からの外見に関わらず、自律的に社会的責任を負うことが重要であって。原発の危険性放置なども「誰も見ていない」から良いという話にも、「法律手続き的に合法だから良い。」という話にもならない。

 「メディアの影響」というのも嘘で、メディアも含めて環境からの影響に「流される」という無意識性こそが問題であり。環境に依らず自律的に判断する本質主体性を持たないことが原因なのである。

 こういったマスコミの文科系大衆観念のオカルト性、論理的根拠の欠落性こそがバカを助長するのであり。見方によってはマスコミも同罪なのである。



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 藤圭子の葬儀で娘(宇多田ヒカル)に大声で話かけるというのは品性に欠けた無神経な行為である。「有名だから」とか、「目立つ」ことを根拠に何をしても良いことにはならない。

 葬儀の時に大声で遺族に話かけるような無神経な奴は、社会的に排除されなければおかしい。こうした無神経さというのは悪ノリ投稿の無神経さと同質な多数派同調性が根幹にあるからだ。

 マスコミが率先して多数派同調迎合しておいて、悪ノリ投稿するバカを批判する権利はない。無神経な悪ノリであることに何の違いもないからだ。

 目立つ「有名人」だからといって、むやみやたらとプライバシーを侵害して良い根拠にはならない。







Ende;
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人格と性格。

2013年09月03日 17時11分58秒 | 意識論関連
 ○性格は人格ではない。

 たとえ虐待を連鎖してしまっている親であろうとも、自分の性格としての行動バイアスを抑制しようと努力する時点においては人格性が働いているのであって。単に虐待連鎖などの性格由来の行動さえ正常であれば人間としての人格性を常に絶対発揮可能であることの証明には全くならない。

 アイヒマン実験において権威に服従した被験者の多くは、特に虐待を連鎖しているわけではなく、むしろ一般的な普通の人々であり。性格というものが自律的な社会的責任判断能力と直結しているわけではない。

 性格というのは多数他者との比較における傾向性を述べているに過ぎず、単に行動バイアスの差異を論じているに過ぎない。

 どのような行動バイアスを持っているかが人格を決定するのではなく、行動バイアスに流されないように自律的に判断する本質的意志選択を行えるかどうかが、人格というものの本質である。

 「性格=人格」という短絡性は、論理検証性のない文科系オカルト観念に過ぎず、語るにも足らないバカげた方程式である。





Ende;
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天才ではなければ社会的責任を放棄してよいわけではない。

2013年09月03日 17時10分11秒 | 意識論関連
○飯田泰之。

 飯田は朝の情報番組で偉そうに講釈たれてるけど、こいつは公然と「自分や多くの人は社会全体の安全性や持続可能性を考えられる程の天才ではないから、自分の目先の効用だけ追求しておいたら、結果的に社会全体の効用が得られたら良いな。」などというトンデモない無責任なことを論じていた男である。

 「自分は天才ではない。」ことを根拠に、社会全体の安全性や持続可能性を考えなくても良いことには全くならない。

 東電原発安全担当者が、「自分は天才ではない。」ことを理由に、自律的に社会安全性を優先しなかったことを正当化出来るであろうか。

 こんな話は、糞チンピラが無責任行動を採る言い逃れに「俺って、バカだからさ~。」などと言うのと同じレベルであり、論外である。

 どんなに経済学の知識が豊富であっても、単に「知っている。」だけで自律的には何も「考え」ないのであれば、経済の本質的問題点を指摘することは出来ず、経済学者としての社会的役割を全く果たせないのは当然である。

 飯田に限らず、経済学者の多くというのも、「目先の効用。」の追求ばかりを論じており、これもまたバカ大衆の目先の欲求を満たすだけの大衆迎合に他ならない。こういった大衆迎合というのは、哲学者の多くが目先の気分感情を満足させ、人々を思考停止に陥れているのと同じ文科系オカルト大衆観念を蔓延させている原因でもある。

 「自分は頭が悪いから」とか、「自分は天才ではない」ことを根拠に、社会的責任判断を放棄して良いなどという理屈を鵜呑みにして良い理由もない。飯田の言っていることを無批判に鵜呑みにしているテレビ朝日の編成局員や視聴者も無責任であることにおいて同罪である。

 こういった論理的根拠のない文科系オカルト大衆観念に基づいた無責任性こそが、最も重要な安全性や持続可能性といったものを社会から奪うのである。

 「自分は天才ではないから、社会的責任は負わない。」というのは、謙虚なのではなく卑屈傲慢無責任に過ぎず。占い師が「ズバリ言うわよ、だけど占い師の言うことなんか真に受けるんじゃないわよ。」などと言っているのと何ら変わりはない。

 経済学者が率先して社会的責任を放棄していれば、原発が暴走しようと高速バスが壁に突っ込もうとも文句を言えた義理ではない。








○松沢哲郎。

 京都大学の松沢哲郎というのは、「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという論理的根拠の全くない大嘘をマスコミに垂れ流したオカルト野郎である。

 人間としての社会性とは、本能習性に流されることなく自律的に社会的責任判断を行うことであって、先天的本能習性の「結果」をどんなに陳列枚挙しても構造原理的に立証不可能であることは始めから自明である。

 こうしたオカルト観念に気付かず、京都大学教授という権威性を鵜呑みにしているマスコミもまた無責任な共犯者であり。ましてや放送大学で未だに松沢の講義を垂れ流しているというのは社会安全性に対する反逆行為である。

 松沢は、その場限りに話をコロコロ変え続け、「想像するから、人間性ではないか。」などという言い逃れをしているが。想像力だけなら振り込め詐欺がカモを騙す時にも発揮する能力であり、被害者が騙される原因も想像力であり、想像力を短絡的に人間性の予測にするのは間違いであり、稚拙で無責任なその場限りの言い逃れ/取り繕いに過ぎない。

 人間としての社会的責任判断能力と、生物学上の本能的な社会形成習性が全く異なるものであることに対し、「本能的な行動習性から、人間としての社会性が立証できるかも知れない。」などと言い出した時点で、従来の生物学の観念を温存することで、現状の体制維持を目的としたその場しのぎの言い逃れ/取り繕いに過ぎず、科学としての論理検証性を蔑ろにした極めて悪質な撹乱行為である。

 後になってから、その場限りに「想像力があるから人間性かも知れない。」などという稚拙な言い逃れでごまかそうとするばかりであり。これは何ら「人間性を伴った本質的社会性」についての検証性も、論理的根拠も何も持たないことの顕れである。

 裁判であれば、その場限りにのらりくらりと証言を変えれば信用に値しないのは当然であるが。どういうわけか学術権威性においては、その場限りの言い逃れ/取り繕いが正当化されてしまい、学術権威としての社会的役割を全く果たしていない。

 放送大学というのは、「技術者倫理」の講義においても、「元気が出る、勇気がわく。」などという観念論を持ち出しており。組織として無責任で他人の倫理を云々述べるにも価しない。

 「元気」だの「勇気」だのといった気分感情で社会安全性を論ずることなど、構造原理的に支離滅裂であることは明白である。むしろ気分感情こそが社会安全性を脅かす最大の原因であり、論理的根拠のない観念で技術者倫理を説こうとするのは支離滅裂無責任というものである。

 放送大学だの国立大学が、こうした論理的根拠のない無責任な観念論を鵜呑みにしているからこそ、地下鉄に毒ガスが撒き散らされたり、原発の危険性が放置されたりするのである。

 教育というのは、その場限りの学力成績だけを向上させておけば良いという短絡的でバカげた観念を振り回しておいて良いようなものではなく。社会全体の安全性や持続可能性というものを、自律積極的配慮する人間性を養うべき場所でなくてはならず。当然教員達には自律的な社会的責任がなくてはならない。

 教育としての社会的役割を放棄しておいて、学力だの進学就職率ばかりを追求することは、社会を破綻に導く無責任な破壊行為の源である。





Ende;
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加害者意識。

2013年09月03日 17時08分51秒 | 意識論関連
○加害者の精神構造。

 イジメ関連番組っていうのは、やたらと被害者の方ばっかり取り上げるけど。これって「お涙頂戴。」的に大衆人気取りを目的とした日和見主義なんじゃないかと思う。

 イジメに限らず犯罪というものは加害者の方の精神の問題、無意識な無責任性の問題であって、被害者がどんなに可哀相なのかを論じても何ら具体的原因究明にも再発防止対策にもつながらない。

 「可哀相だから、イジメない。」という行動を期待しているとすれば、それは加害者の方が「可哀相だとは思わない。」という観念論に終わってしまい。加害者の気分感情に左右される不毛な主張に過ぎない。

 「可哀相だ。」と思う思わないに関わらず、自律的に「やって良いのか、悪いのか。」を判断する理性こそが重要なのであって。「こんだけ被害者は可哀相だ。」などという観念論をどんなにマスコミが主張しても無意味不毛である。

 加害者側が「自分の行っていることがイジメに相当しない。」と「思って」いるからこそイジメが収まらないのであって。こうした「思い」の大きさ強度ばかりを論じているからこそ、実証不能の観念論に陥るのである。

 なぜ加害者はイジメをしてしまうのか、その理論的根拠に基づいて、生物学的に差別排除してしまう習性傾向がヒトという種には存在し、こうした本能習性に流されていれるからこそ、あらゆる「人災」がなくならないという事実を、きちんと「理解」させることこそが重要なのである。

 東電原発安全担当者が、なぜ原発の危険性を放置したのかと言えば。「危険性を主張しても、上司は聞き入れてくれそうにないから、諦めた。」からであろう。

 こうした観念的「諦観」が行動に直結しているからこそ、論理検証的行動選択が喪失するのであり。これはイジメにおいても「自分がイジメを止めたりすれば、自分がイジメられるかも知れない。」という諦めからくる無為性の行動学習によるものである。こうした「諦め」を行動学習してしまうのは、そこに失敗体験があるからであり、失敗とか成功といった目先の気分感情だけで行動が決定してしまう短絡性こそが、個人の自律判断というものを喪失させるのであり、「成功体験。」などという「ご機嫌取り」を目的にした教育では人間性は養われないのである。

 ヒトの多く、日本人の多くは「多数派に迎合しておかないと嫌な思いをする。」と行動学習しているために、個人が自律的に社会的責任判断を行う自主性が喪失しているのである。

 特に日本人は、こうした諦めというものを文化的に「連鎖」しているため。自律的判断というものが見事に働かないのであろう。その一つがイジメという現象を引き起こしているのである。

 実際にイジメを主導的に扇動している生徒というのは、実は極少数であり。大脳辺縁系の活動が活発であるため、個人的好き嫌いが激しく、結果的に特定個人を攻撃しがちな傾向があり。その少数派の暴力迫害というものに対して、気分的に「恐いから」という理由で服従迎合してしまう無為性が、多数の傍観者を作り出すのである。

 本来暴力迫害を行う少数派こそが、排除の対象となるべきなのだが、暴力的威圧に屈服する形で服従迎合してしまうのである。

 暴力的威圧に屈服するというのは、気分的に「面倒臭い。」からであろう。それが社会的責任に関わる問題であるとしても、「自分がやらなくても、誰かが何とかしてくれるであろう。」という社会的「甘え」依頼心によって、自分の無責任性を正当化出来るものであると勝手に勘違いしているからである。

 こうした勘違い錯覚というものは、「だって、皆が悪いから。」などという、極めて子供じみた言い逃れに過ぎず。「皆という多数派で間違えている限り、自分には責任がかからないはずである。」という、主観的気分でしか行動が決定しない本質的主体性の欠落による自律の喪失結果である。

 イジメ被害者だけを集めた特殊な学級というものもあるが、むしろ加害者だけを集めておいた方が問題の根源は明確化されるはずである。

 加害者だけを集めた学級というものは、さぞかし収拾がつかないバカ学級であろう。そんな生徒をそれ以外の生徒と一緒くたにしておくことの方が異常なのである。

 加害者になる精神医学的原因や、生物学的習性といった論理的根源原因を無視しておいて、「イジメをやっては、いけません。」などという観念論の繰り返しは不毛という他ない。

 不毛なことを漫然と繰り返すのを、「バカ」という。

 「バカ」な教育者は不毛な観念論にすがり、その場限りに日和っておけば、「どうせ生徒が卒業しちまえば後は知ったことではない。」とでも思っているに違いない。

 こうした無責任性こそが、東電原発の危険性までをも放置させたのである。

 都営地下鉄での毒ガステロも同様であろう。

 あらゆる「人災」の根源というものには、個人の自律的な社会的責任判断の欠如が存在しており、これについての具体的対策というものを確立しないことには、あらゆる工学的対策の全ては枝葉の対策に終始するのである。

 どんなに工学的方法論や、物理的対策、制度手続き規定を施したとしても、相手が通り魔テロリストであれば何の役にも立たないのは必然である。

 教師の仕事というのは、一人一人の生徒の自発的純粋動機を見つける手助けをし、自律的に社会安全や持続可能性を求めるような人間性を育てることにあり。学力成績や進学率を上げることではない。

 ところが、親の多くは生徒の利己的な世間的成功ばかりを追求し、学力学歴こそが絶対的人間としての価値であるかのように勘違いしているのである。

 持続可能性や安全性のない社会で、どんなに目先の利益成功を享受したとしても、それがどれだけ不毛であるかを認識していないのが「バカ」が「バカ」たる所以であろう。



 その場限りに「お涙頂戴。」的に憐れみを誘っても、そんな観念論に頼ってれば問題が解決しないのは当たり前である。犯罪被害者がどれだけ憐れであるかを公表周知しても、加害者の無責任性の論理的解明にも対策にもならない。

 こうした不毛な行為を漫然と無意識に続けるのは、社会的無責任というものである。



Ende;
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