○悪ノリ。
Web上で悪ノリ投稿がエスカレートするのは、「目立つこと」を短絡的に社会的評価か何かと勘違いする文科系オカルト大衆観念に基づいた無意識性暴走性によるものである。
目立つことというのは個人的利益でもなければ、人間としての価値の証明にもならない。文科系オカルト大衆観念上では目立っていることを短絡的に何かの価値だと錯覚しているようだが、実質的には何の意味もない。
「目立つ」かどうかで行動責任の有無が決定するわけでもないのに、「普段は目立たない」ことを根拠に「責任を問われる」ことに結び付けるのも論理的根拠のない観念である。
目立つかどうかという環境に関わらず、自発的に社会安全性を求める主体性こそが人間性の源であり、目立つことを自体を求めるのは多数大衆からの注目を集めることを目的とした、本質的主体性の欠落を意味する無意識な行動である。
こうした短絡的に「目立ち」さえすれば満足するという価値観は、通り魔が主張する「大きなことをしてやりたかった。」という動機と同じものであり、あまりにバカ過ぎる。
ありていに言って、悪ノリ投稿などというのは、ほとんど酔っ払いの行動と同じである。
文科系のマスコミは悪ノリ投稿に対して「世間の目」云々を論ずるが、これは大間違いである。単純に「誰も見てなきゃ良いのか。」という話になるからだ。
そもそも悪ノリ投稿自体が目立とうとする「世間の目」を動機とするものであり、「世間の目」を気にするというのはヒトという種の生物の本能的社会形成習性が促す無意識性に他ならず、本質な意識的選択を介さない。
「世間の目」という環境依存性を論じている限り、自律的な社会的責任判断を無視しており、極めて不毛である。
本当に必要なのは多数他者からの外見に関わらず、自律的に社会的責任を負うことが重要であって。原発の危険性放置なども「誰も見ていない」から良いという話にも、「法律手続き的に合法だから良い。」という話にもならない。
「メディアの影響」というのも嘘で、メディアも含めて環境からの影響に「流される」という無意識性こそが問題であり。環境に依らず自律的に判断する本質主体性を持たないことが原因なのである。
こういったマスコミの文科系大衆観念のオカルト性、論理的根拠の欠落性こそがバカを助長するのであり。見方によってはマスコミも同罪なのである。
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藤圭子の葬儀で娘(宇多田ヒカル)に大声で話かけるというのは品性に欠けた無神経な行為である。「有名だから」とか、「目立つ」ことを根拠に何をしても良いことにはならない。
葬儀の時に大声で遺族に話かけるような無神経な奴は、社会的に排除されなければおかしい。こうした無神経さというのは悪ノリ投稿の無神経さと同質な多数派同調性が根幹にあるからだ。
マスコミが率先して多数派同調迎合しておいて、悪ノリ投稿するバカを批判する権利はない。無神経な悪ノリであることに何の違いもないからだ。
目立つ「有名人」だからといって、むやみやたらとプライバシーを侵害して良い根拠にはならない。
Ende;