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北野武がやたらと小笠原流を推してたけど、小笠原流などの「形」「型」といったものにはイジメが減るなどの統計数理的根拠も、個人が自律的に責任判断を行うようになることの論理的根拠も一切なく、要は北野武の個人的好き嫌い観念に過ぎない。
個人的好き嫌いという観念に対し、北野の権威性によって誰も検証反論しない状態というのは。これこそがオカルト宗教における教祖への批判精神の欠落と同じ構造である。
誰も反論しないことは、誰がしかが責任を持ってくれているものであると、多くのヒトは妄想するが。これこそが文科系オカルト大衆観念の源であり、イジメ差別迫害などの「人災」を助長暴走させる無意識性の根源でもある。
「何となく安心。」することで、論理検証性を喪失し、論理的根拠のない観念の世界に流される無意識性が文科系オカルト大衆観念の源である。ヒトという種の生物には、こうしたオカルト性が先天的習性として組み込まれており、これこそがあらゆる「人災」の最も根源となっているのである。
どんなに検証したとしても構造原理的に予測不可能な危険性であれば、これは「人災」には該当しない。「人災」が「人災」たりうる所以とは、予測可能性がありながら放置するという未失性にある。
「ヒトは間違えるものである。」故に北野武個人が間違えることこと自体が問題なのではなく、むしろ北野武の観念に論理検証的批判を誰もしなくなる未失性にこそオカルト暴走性が芽生えるのであり。「北野武だって、間違えることはある。」という前提が失われるから誰も批判しなくなるのである。
ヒトの多くは権威に服従してさえおけば気分感情的に安心で満足である。しかも、多数派が権威に批判せず、その場限りに話を丸めて漫然と同調し「社会性」を発揮していれば、誰かの保証が担保されているものであると勝手に妄想するのが「ヒトという種の生物。」の習性というものである。
日本人の多くは論理検証的議論というものを忌み嫌う「文化」があり、民族的に苦手な傾向が激しい。
その場限りに多数派と話を丸め、「空気を読む。」ことで同調迎合することを自己の存在価値とすり替えるのである。
「皆と仲良くしないと、生きてゆけない。」という多数派同調観念こそが、イジメという集団的差別迫害への同調性を生み出す原因であることを。ヒトの多くは認識したがらない。
故に「世間の目」だとか「規範意識」に頼ることに陥り。個人の自律の重要性を喪失するのである。
多数派同調性はヒトの先天的習性としての行動バイアスである。言い換えれば「進化生物学の神から与え給うた生存に適するための結果。」に過ぎない。
「結果」という無意識性に依存し、あたかも論理検証的な目的行動選択であるかのように言い張るというのは、現在の生物学に限らず、哲学や経済学の不毛さを助長させているのである。
ドストエフスキーが何かを予言していたと言い張るのであれば、なぜ予言が生かされないのであろうか。
実際にはドストエフスキーは何も予言などしておらず、単に結果的に予言風味に見えるという観念に過ぎない。こうした観念というのは、「ノストラダムスの大予言。」と一緒で、あとから予言としてこじつけただけであって、具体的には何も予言などしておらず、予めの対策が全く立たない不毛な観念に過ぎない。
頭の悪い西洋哲学カブれがどんなに「情熱」的に語っても、ドストエフスキーには何ら具体的根拠はない。そこにあるのは「情熱」という名の「大脳辺縁系の反射。」だけだからである。
経済学が目先の個人的利益効用ばかりを追求するのも、単なる大衆迎合であって。経済学としての社会的役割を放棄した無責任性を、多くのヒトは認識出来ないのである。
「皆さんお金が欲しいでしょ。」とはホリエモンの言葉である。確かに多くのヒトはお金が欲しいかも知れないが、最も欲しいのは安全性と持続可能性でなければならない。目先の金儲けに意識を奪われ人間としての社会性を喪失していて「人間」云々を語る権利はないのである。
本質優先順位を忘れてしまうのは、そこに統合的な論理検証性が失われているからである。
それを「意識が低い。」と言うのである。
意識がなければ「人間。」とは言わない。人間性を持たないバカが「人間。」について語ることに意味があろうはずもないのである。
Ende;