○ご機嫌取り。
大衆観念上では、多数他人と話を丸め、ご機嫌取りをすることで多数派に迎合することを「コミュニケーション能力。」と形容する。
これはチンパンジーやゴリラが集団内部でご機嫌取りを行うのと同じ動物的な「習性」であって、論理的思考に基づいた人間としてのコミュニケーションではないばかりか、むしろ論理的思考を阻害しヒトから個人の自律的思考を停止させる先天的なバイアスである。
ヒトという種の生物は、その場限りに多数派に迎合し、気分的に安心することを優先するように大脳辺縁系が出来ており。論理的根拠を持った安全性を後回しにする行動習性が存在するのである。
ナチズムやポルポト、シエラレオネの少年ゲリラなどによる集団組織的残虐行為というものは、集団内部で気分感情的に安心満足が得られる行動に「整理」されることによってもたらされるものであり。これは紛争が生じていない社会においても潜在的に存在するものである。
日本において、イジメや虐待、体罰が一向に減らないのも、こうした潜在的オカルト性が「文化」として働いているが故の結果であり。こうした潜在的オカルト性が醸成されることによって、社会全体の安全性が失われることに陥るのである。
「体罰も必要。」だとか「イジメられる方にも原因がある。」などという卑劣な観念を平気で振り回す文科系大衆観念というのは、オカルト以外の何物でもない。太平洋戦争時の日本軍の異常性というものは、決して太平洋戦争時だけの特殊なものではなく、「文化」という形で潜在的に社会に蔓延しているものなのである。
論理的根拠のない気分的安心満足ばかりを追求していれば、統合的な論理検証性も批判精神も働かないのは必然的結果である。多数派のご機嫌取りに終始しておいて、「人間としてのコミュニケーション能力。」の論証には全くならない。
単なる「ヒトという種の生物としての先天的コミュニケーション行動バイアス。」というものは、短絡的に人間性の論証には全くならないばかりか。むしろ人間性を喪失させるものでしかない。
シエラレオネの少年ゲリラや、ソマリアでの虐殺において、集団内部での安心満足というものには論理的安全性や持続可能性は全く介在していない。これは日本の学校におけるイジメにおいても同様であり、東京電力福島第一原子力発電所においても言えることである。
ヒトという種の生物は目先の気分的安心。すなはち先天的な大脳辺縁系が促す行動バイアスに流されるよう出来ており、後天的に刷り込み学習された固定観念に基づいた価値観を優先しがちな傾向がある。虐待が連鎖されるのも、悪しき「文化」が伝承されてしまうのも、ヒトの先天的な脳の行動バイアスが作り出す結果であり。こうした先天的行動バイアスに無意識に流されないようにするためには、多数派や権威の意見に安易に流されない自律した個人の判断責任というものが必要不可欠なのである。
ヒトの多くは多数派や権威の意見というものに流されておけば、自分の個人的自律判断責任が薄められると勝手に妄想する習性がある。だからこそ「生きるためには。」などと称して権威や多数派に迎合するための言い逃れや取り繕いを強弁するのである。
なぜ「強弁」しなければならないのか、それは気分的に安心だからであり、安心というのは先天的行動バイアスであり、安心を追求するように大脳辺縁系は出来上がっているからである。
安心というものは、恐怖を拒絶する行動バイアスである。気分的に嫌なものを拒絶するためには、社会安全性や持続可能性を犠牲にしてでも、目先の気分を優先するようにしかヒトの大脳辺縁系というのは出来ていない。この意味に限っては「ヒトとはそういうもの。」でしかないのである。
ヒトという種の生物は、先天的には出来損ないである。それは生物進化の過程において結果的に生存に適した「結果」に過ぎないからであり、偶発的な「結果」以上の価値は存在しないからである。
ヒトが人間として振る舞うためには、こうした先天的な欠陥としての行動バイアスに流されることなく、自律的に論理検証するという「目的」を持った個人の「意志」が必要不可欠である。
現代の日本において、個人が自律的に社会的責任判断なんぞしなくても、多数派に迎合して権威に服従しておいても概ね日常生活には影響を及ぼさないであろうが。影響が及ばないのも「結果」に過ぎず、影響が及んでからでは遅いのである。
東電内部では既に影響が及んで、福島を地獄に陥れた。オリンパスでも大王製紙でも雪印でも西武グループでもリクルートでも同じことである。これらの企業は平気な顔で存続しているが、組織腐敗というものは莫大な社会的損失をもたらすものであり、社会を崩壊へと導く最も大きな要因なのである。
ヒトの多くは、「自分の観念だけは影響が及んでいないから大丈夫。」だと勝手に妄想する。こうした妄想に溺れていた方が気分的に安心で満足なのもまた、先天的本能に由来する思考バイアスによるものである。
弁証法的な思考というのは、自律的に論理検証しようとする自発性によってのみ働くものであって。「弁証法的に議論しなさい。」と頭ごなしに強要して醸成されるようなものではない。
論理的思考というのは、単なる認知科学上の「論理思考試験の得点」によって導き出されるようなものではなく。本質的な自発的思考、疑問といったものから自然と導き出されるものである。
得点成績が得られないような問題については、現在の生物学者や脳神経科学者、認知科学者、哲学者の誰も検証しないのも。それが短絡的に抽象化された脳への報酬にならないからに他ならない。
「ドストエフスキーが時代を予言した。」などと言い張るのも、実際には具体的な予言としての価値があったわけでもなんでもなく、単に気分感情的に「感動した。」という主観的意見だけが優先された身勝手なオカルトに過ぎない。
具体的に何かを予言していたのであれば、具体的に対策が立てられるはずであるが、そんなものはドストエフスキーには全く存在せず、偶発的結果に対するこじつけにしかなっていないのである。
生物学において、偶発的「結果」としての生物進化というものを、短絡的に「目的」として扱いたがるのも、現状を事後正当化するためのこじつけに他ならない。
先天的なヒトの行動バイアスの中から、人間性にとって都合の良い結果だけを抽出してきて、「ヒトとは先天的に人間である。」などと言い張るのは、大衆迎合ご機嫌取りではあっても、科学としての社会的役割には全く価しない。
通り魔などの単独無差別殺人犯であっても、彼らの行動動機の根源には、文科系大衆観念に基づいたバイアスが働いており。何ら自律的には自分の行動に対する論理検証性は働いていない。
「自分が悪いことを行うのは、多数他人によって形成されている社会や時代が悪いからだ。」などと抽象的な意見しか出て来ないのも。具体的に社会の一体何が、どのように間違っているのかを論理的には全く認識してはいないからこそ、短絡的に気分感情が満足出来る無差別殺人へと暴走するのである。
こうした抽象的な社会や時代への批判というものは、哲学などの文科系の者にとっては普通の平均的な意見であり。普通で平均的であるが故に迎合しておいて「安心」だからこそ、平気で放置されているのである。
言い換えれば、通り魔の観念というものは、現在の文科系思考しか出来ない生物学者や哲学者達によって温存されているからこそ通り魔などの無差別殺人を助長しているのであって、こうした学術的怠慢こそが社会的損失の大きな要因となっているのである。
ヒトというのは気分感情によって行動が左右されがちな傾向はある。だからといって「気分感情を満足させることだけ考えておけば良い。」などという短絡的な思考怠慢が許されて良いわけがない。
ヒトは感情的に興奮状態に陥ると、簡単に振り込め詐欺にもオカルトにも引っ掛かるものである。それは「今まで一回も引っ掛かったことがない。」という経験則だけで引っ掛からないと「思う」のも、また気分感情が促す思考停止性の結果である。
東電社員達が組織の意向にさえ従っておけば全ては安泰だと「思って」いたのも、ある種の詐欺に引っ掛かったのと同じである。こうした嘘は社会全体に蔓延しており、嘘の根源の全てには論理的根拠のない文科系大衆固定観念としての「文化」が働いているのである。
東京大学学長が新入生達に対して、「全てを疑え。」と論じたのも。この世界には嘘や間違いが平気でまかり通っている現状を踏まえての発言である。
「疑え。」というのは、観念的に猜疑心にさいなまされて「他人を見たら泥棒だと思え。」的に闇雲に疑えと言っているのではなく。あくまで論理検証的に「考え」、具体的に嘘や間違いを暴くことが重要だと言っているのである。
論理的根拠のない猜疑心をどんなに強く抱いても、具体的に社会への貢献には全くならない。猜疑心というのは気分感情の問題、大脳辺縁系が促す思考バイアスでしかないからである。
Ende;
大衆観念上では、多数他人と話を丸め、ご機嫌取りをすることで多数派に迎合することを「コミュニケーション能力。」と形容する。
これはチンパンジーやゴリラが集団内部でご機嫌取りを行うのと同じ動物的な「習性」であって、論理的思考に基づいた人間としてのコミュニケーションではないばかりか、むしろ論理的思考を阻害しヒトから個人の自律的思考を停止させる先天的なバイアスである。
ヒトという種の生物は、その場限りに多数派に迎合し、気分的に安心することを優先するように大脳辺縁系が出来ており。論理的根拠を持った安全性を後回しにする行動習性が存在するのである。
ナチズムやポルポト、シエラレオネの少年ゲリラなどによる集団組織的残虐行為というものは、集団内部で気分感情的に安心満足が得られる行動に「整理」されることによってもたらされるものであり。これは紛争が生じていない社会においても潜在的に存在するものである。
日本において、イジメや虐待、体罰が一向に減らないのも、こうした潜在的オカルト性が「文化」として働いているが故の結果であり。こうした潜在的オカルト性が醸成されることによって、社会全体の安全性が失われることに陥るのである。
「体罰も必要。」だとか「イジメられる方にも原因がある。」などという卑劣な観念を平気で振り回す文科系大衆観念というのは、オカルト以外の何物でもない。太平洋戦争時の日本軍の異常性というものは、決して太平洋戦争時だけの特殊なものではなく、「文化」という形で潜在的に社会に蔓延しているものなのである。
論理的根拠のない気分的安心満足ばかりを追求していれば、統合的な論理検証性も批判精神も働かないのは必然的結果である。多数派のご機嫌取りに終始しておいて、「人間としてのコミュニケーション能力。」の論証には全くならない。
単なる「ヒトという種の生物としての先天的コミュニケーション行動バイアス。」というものは、短絡的に人間性の論証には全くならないばかりか。むしろ人間性を喪失させるものでしかない。
シエラレオネの少年ゲリラや、ソマリアでの虐殺において、集団内部での安心満足というものには論理的安全性や持続可能性は全く介在していない。これは日本の学校におけるイジメにおいても同様であり、東京電力福島第一原子力発電所においても言えることである。
ヒトという種の生物は目先の気分的安心。すなはち先天的な大脳辺縁系が促す行動バイアスに流されるよう出来ており、後天的に刷り込み学習された固定観念に基づいた価値観を優先しがちな傾向がある。虐待が連鎖されるのも、悪しき「文化」が伝承されてしまうのも、ヒトの先天的な脳の行動バイアスが作り出す結果であり。こうした先天的行動バイアスに無意識に流されないようにするためには、多数派や権威の意見に安易に流されない自律した個人の判断責任というものが必要不可欠なのである。
ヒトの多くは多数派や権威の意見というものに流されておけば、自分の個人的自律判断責任が薄められると勝手に妄想する習性がある。だからこそ「生きるためには。」などと称して権威や多数派に迎合するための言い逃れや取り繕いを強弁するのである。
なぜ「強弁」しなければならないのか、それは気分的に安心だからであり、安心というのは先天的行動バイアスであり、安心を追求するように大脳辺縁系は出来上がっているからである。
安心というものは、恐怖を拒絶する行動バイアスである。気分的に嫌なものを拒絶するためには、社会安全性や持続可能性を犠牲にしてでも、目先の気分を優先するようにしかヒトの大脳辺縁系というのは出来ていない。この意味に限っては「ヒトとはそういうもの。」でしかないのである。
ヒトという種の生物は、先天的には出来損ないである。それは生物進化の過程において結果的に生存に適した「結果」に過ぎないからであり、偶発的な「結果」以上の価値は存在しないからである。
ヒトが人間として振る舞うためには、こうした先天的な欠陥としての行動バイアスに流されることなく、自律的に論理検証するという「目的」を持った個人の「意志」が必要不可欠である。
現代の日本において、個人が自律的に社会的責任判断なんぞしなくても、多数派に迎合して権威に服従しておいても概ね日常生活には影響を及ぼさないであろうが。影響が及ばないのも「結果」に過ぎず、影響が及んでからでは遅いのである。
東電内部では既に影響が及んで、福島を地獄に陥れた。オリンパスでも大王製紙でも雪印でも西武グループでもリクルートでも同じことである。これらの企業は平気な顔で存続しているが、組織腐敗というものは莫大な社会的損失をもたらすものであり、社会を崩壊へと導く最も大きな要因なのである。
ヒトの多くは、「自分の観念だけは影響が及んでいないから大丈夫。」だと勝手に妄想する。こうした妄想に溺れていた方が気分的に安心で満足なのもまた、先天的本能に由来する思考バイアスによるものである。
弁証法的な思考というのは、自律的に論理検証しようとする自発性によってのみ働くものであって。「弁証法的に議論しなさい。」と頭ごなしに強要して醸成されるようなものではない。
論理的思考というのは、単なる認知科学上の「論理思考試験の得点」によって導き出されるようなものではなく。本質的な自発的思考、疑問といったものから自然と導き出されるものである。
得点成績が得られないような問題については、現在の生物学者や脳神経科学者、認知科学者、哲学者の誰も検証しないのも。それが短絡的に抽象化された脳への報酬にならないからに他ならない。
「ドストエフスキーが時代を予言した。」などと言い張るのも、実際には具体的な予言としての価値があったわけでもなんでもなく、単に気分感情的に「感動した。」という主観的意見だけが優先された身勝手なオカルトに過ぎない。
具体的に何かを予言していたのであれば、具体的に対策が立てられるはずであるが、そんなものはドストエフスキーには全く存在せず、偶発的結果に対するこじつけにしかなっていないのである。
生物学において、偶発的「結果」としての生物進化というものを、短絡的に「目的」として扱いたがるのも、現状を事後正当化するためのこじつけに他ならない。
先天的なヒトの行動バイアスの中から、人間性にとって都合の良い結果だけを抽出してきて、「ヒトとは先天的に人間である。」などと言い張るのは、大衆迎合ご機嫌取りではあっても、科学としての社会的役割には全く価しない。
通り魔などの単独無差別殺人犯であっても、彼らの行動動機の根源には、文科系大衆観念に基づいたバイアスが働いており。何ら自律的には自分の行動に対する論理検証性は働いていない。
「自分が悪いことを行うのは、多数他人によって形成されている社会や時代が悪いからだ。」などと抽象的な意見しか出て来ないのも。具体的に社会の一体何が、どのように間違っているのかを論理的には全く認識してはいないからこそ、短絡的に気分感情が満足出来る無差別殺人へと暴走するのである。
こうした抽象的な社会や時代への批判というものは、哲学などの文科系の者にとっては普通の平均的な意見であり。普通で平均的であるが故に迎合しておいて「安心」だからこそ、平気で放置されているのである。
言い換えれば、通り魔の観念というものは、現在の文科系思考しか出来ない生物学者や哲学者達によって温存されているからこそ通り魔などの無差別殺人を助長しているのであって、こうした学術的怠慢こそが社会的損失の大きな要因となっているのである。
ヒトというのは気分感情によって行動が左右されがちな傾向はある。だからといって「気分感情を満足させることだけ考えておけば良い。」などという短絡的な思考怠慢が許されて良いわけがない。
ヒトは感情的に興奮状態に陥ると、簡単に振り込め詐欺にもオカルトにも引っ掛かるものである。それは「今まで一回も引っ掛かったことがない。」という経験則だけで引っ掛からないと「思う」のも、また気分感情が促す思考停止性の結果である。
東電社員達が組織の意向にさえ従っておけば全ては安泰だと「思って」いたのも、ある種の詐欺に引っ掛かったのと同じである。こうした嘘は社会全体に蔓延しており、嘘の根源の全てには論理的根拠のない文科系大衆固定観念としての「文化」が働いているのである。
東京大学学長が新入生達に対して、「全てを疑え。」と論じたのも。この世界には嘘や間違いが平気でまかり通っている現状を踏まえての発言である。
「疑え。」というのは、観念的に猜疑心にさいなまされて「他人を見たら泥棒だと思え。」的に闇雲に疑えと言っているのではなく。あくまで論理検証的に「考え」、具体的に嘘や間違いを暴くことが重要だと言っているのである。
論理的根拠のない猜疑心をどんなに強く抱いても、具体的に社会への貢献には全くならない。猜疑心というのは気分感情の問題、大脳辺縁系が促す思考バイアスでしかないからである。
Ende;