書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ご機嫌取り。

2013年09月28日 15時12分05秒 | 意識論関連
○ご機嫌取り。

 大衆観念上では、多数他人と話を丸め、ご機嫌取りをすることで多数派に迎合することを「コミュニケーション能力。」と形容する。

 これはチンパンジーやゴリラが集団内部でご機嫌取りを行うのと同じ動物的な「習性」であって、論理的思考に基づいた人間としてのコミュニケーションではないばかりか、むしろ論理的思考を阻害しヒトから個人の自律的思考を停止させる先天的なバイアスである。

 ヒトという種の生物は、その場限りに多数派に迎合し、気分的に安心することを優先するように大脳辺縁系が出来ており。論理的根拠を持った安全性を後回しにする行動習性が存在するのである。

 ナチズムやポルポト、シエラレオネの少年ゲリラなどによる集団組織的残虐行為というものは、集団内部で気分感情的に安心満足が得られる行動に「整理」されることによってもたらされるものであり。これは紛争が生じていない社会においても潜在的に存在するものである。

 日本において、イジメや虐待、体罰が一向に減らないのも、こうした潜在的オカルト性が「文化」として働いているが故の結果であり。こうした潜在的オカルト性が醸成されることによって、社会全体の安全性が失われることに陥るのである。

 「体罰も必要。」だとか「イジメられる方にも原因がある。」などという卑劣な観念を平気で振り回す文科系大衆観念というのは、オカルト以外の何物でもない。太平洋戦争時の日本軍の異常性というものは、決して太平洋戦争時だけの特殊なものではなく、「文化」という形で潜在的に社会に蔓延しているものなのである。

 論理的根拠のない気分的安心満足ばかりを追求していれば、統合的な論理検証性も批判精神も働かないのは必然的結果である。多数派のご機嫌取りに終始しておいて、「人間としてのコミュニケーション能力。」の論証には全くならない。

 単なる「ヒトという種の生物としての先天的コミュニケーション行動バイアス。」というものは、短絡的に人間性の論証には全くならないばかりか。むしろ人間性を喪失させるものでしかない。

 シエラレオネの少年ゲリラや、ソマリアでの虐殺において、集団内部での安心満足というものには論理的安全性や持続可能性は全く介在していない。これは日本の学校におけるイジメにおいても同様であり、東京電力福島第一原子力発電所においても言えることである。

 ヒトという種の生物は目先の気分的安心。すなはち先天的な大脳辺縁系が促す行動バイアスに流されるよう出来ており、後天的に刷り込み学習された固定観念に基づいた価値観を優先しがちな傾向がある。虐待が連鎖されるのも、悪しき「文化」が伝承されてしまうのも、ヒトの先天的な脳の行動バイアスが作り出す結果であり。こうした先天的行動バイアスに無意識に流されないようにするためには、多数派や権威の意見に安易に流されない自律した個人の判断責任というものが必要不可欠なのである。

 ヒトの多くは多数派や権威の意見というものに流されておけば、自分の個人的自律判断責任が薄められると勝手に妄想する習性がある。だからこそ「生きるためには。」などと称して権威や多数派に迎合するための言い逃れや取り繕いを強弁するのである。

 なぜ「強弁」しなければならないのか、それは気分的に安心だからであり、安心というのは先天的行動バイアスであり、安心を追求するように大脳辺縁系は出来上がっているからである。

 安心というものは、恐怖を拒絶する行動バイアスである。気分的に嫌なものを拒絶するためには、社会安全性や持続可能性を犠牲にしてでも、目先の気分を優先するようにしかヒトの大脳辺縁系というのは出来ていない。この意味に限っては「ヒトとはそういうもの。」でしかないのである。



 ヒトという種の生物は、先天的には出来損ないである。それは生物進化の過程において結果的に生存に適した「結果」に過ぎないからであり、偶発的な「結果」以上の価値は存在しないからである。

 ヒトが人間として振る舞うためには、こうした先天的な欠陥としての行動バイアスに流されることなく、自律的に論理検証するという「目的」を持った個人の「意志」が必要不可欠である。

 現代の日本において、個人が自律的に社会的責任判断なんぞしなくても、多数派に迎合して権威に服従しておいても概ね日常生活には影響を及ぼさないであろうが。影響が及ばないのも「結果」に過ぎず、影響が及んでからでは遅いのである。

 東電内部では既に影響が及んで、福島を地獄に陥れた。オリンパスでも大王製紙でも雪印でも西武グループでもリクルートでも同じことである。これらの企業は平気な顔で存続しているが、組織腐敗というものは莫大な社会的損失をもたらすものであり、社会を崩壊へと導く最も大きな要因なのである。

 ヒトの多くは、「自分の観念だけは影響が及んでいないから大丈夫。」だと勝手に妄想する。こうした妄想に溺れていた方が気分的に安心で満足なのもまた、先天的本能に由来する思考バイアスによるものである。



 弁証法的な思考というのは、自律的に論理検証しようとする自発性によってのみ働くものであって。「弁証法的に議論しなさい。」と頭ごなしに強要して醸成されるようなものではない。

 論理的思考というのは、単なる認知科学上の「論理思考試験の得点」によって導き出されるようなものではなく。本質的な自発的思考、疑問といったものから自然と導き出されるものである。

 得点成績が得られないような問題については、現在の生物学者や脳神経科学者、認知科学者、哲学者の誰も検証しないのも。それが短絡的に抽象化された脳への報酬にならないからに他ならない。

 「ドストエフスキーが時代を予言した。」などと言い張るのも、実際には具体的な予言としての価値があったわけでもなんでもなく、単に気分感情的に「感動した。」という主観的意見だけが優先された身勝手なオカルトに過ぎない。

 具体的に何かを予言していたのであれば、具体的に対策が立てられるはずであるが、そんなものはドストエフスキーには全く存在せず、偶発的結果に対するこじつけにしかなっていないのである。

 生物学において、偶発的「結果」としての生物進化というものを、短絡的に「目的」として扱いたがるのも、現状を事後正当化するためのこじつけに他ならない。

 先天的なヒトの行動バイアスの中から、人間性にとって都合の良い結果だけを抽出してきて、「ヒトとは先天的に人間である。」などと言い張るのは、大衆迎合ご機嫌取りではあっても、科学としての社会的役割には全く価しない。



 通り魔などの単独無差別殺人犯であっても、彼らの行動動機の根源には、文科系大衆観念に基づいたバイアスが働いており。何ら自律的には自分の行動に対する論理検証性は働いていない。

 「自分が悪いことを行うのは、多数他人によって形成されている社会や時代が悪いからだ。」などと抽象的な意見しか出て来ないのも。具体的に社会の一体何が、どのように間違っているのかを論理的には全く認識してはいないからこそ、短絡的に気分感情が満足出来る無差別殺人へと暴走するのである。

 こうした抽象的な社会や時代への批判というものは、哲学などの文科系の者にとっては普通の平均的な意見であり。普通で平均的であるが故に迎合しておいて「安心」だからこそ、平気で放置されているのである。

 言い換えれば、通り魔の観念というものは、現在の文科系思考しか出来ない生物学者や哲学者達によって温存されているからこそ通り魔などの無差別殺人を助長しているのであって、こうした学術的怠慢こそが社会的損失の大きな要因となっているのである。

 ヒトというのは気分感情によって行動が左右されがちな傾向はある。だからといって「気分感情を満足させることだけ考えておけば良い。」などという短絡的な思考怠慢が許されて良いわけがない。

 ヒトは感情的に興奮状態に陥ると、簡単に振り込め詐欺にもオカルトにも引っ掛かるものである。それは「今まで一回も引っ掛かったことがない。」という経験則だけで引っ掛からないと「思う」のも、また気分感情が促す思考停止性の結果である。

 東電社員達が組織の意向にさえ従っておけば全ては安泰だと「思って」いたのも、ある種の詐欺に引っ掛かったのと同じである。こうした嘘は社会全体に蔓延しており、嘘の根源の全てには論理的根拠のない文科系大衆固定観念としての「文化」が働いているのである。

 東京大学学長が新入生達に対して、「全てを疑え。」と論じたのも。この世界には嘘や間違いが平気でまかり通っている現状を踏まえての発言である。

 「疑え。」というのは、観念的に猜疑心にさいなまされて「他人を見たら泥棒だと思え。」的に闇雲に疑えと言っているのではなく。あくまで論理検証的に「考え」、具体的に嘘や間違いを暴くことが重要だと言っているのである。

 論理的根拠のない猜疑心をどんなに強く抱いても、具体的に社会への貢献には全くならない。猜疑心というのは気分感情の問題、大脳辺縁系が促す思考バイアスでしかないからである。



Ende;
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ソマティックマーカー仮説。

2013年09月28日 15時08分33秒 | 意識論関連
○ソマティックマーカー仮説。

 行動学習的に無意識な抑圧で行動が決定していれば、例えば権威に服従しないと嫌な思いをするよう学習してしまうと、自律的には社会的責任判断よりも権威に服従するようにしかならなくなる。

 無意識な行動抑圧だけで人格を論ずるというのは、意識的な個人の論理検証性を無視したあやふやな話であり。もはや認知科学として全く機能していない。

 反射的無意識に多数派や権威に迎合していれば、大抵の場面においては問題なく社会生活を送れるであろうが。現状の社会そのものへの論理検証や、それに伴う批判精神も持たなければ、自律した一人の個人としての価値を持たない。

 自律した一人の個人としての価値がないということこそが、本当の意味における「人格」の欠落であって、単に外見上「怒りっぽい。」だとか「神経質」といった性格のことを、短絡的に「人格」だと規定している時点で認知科学者として厳密さに欠け、無能である。

 ヘラヘラ笑って多数派に迎合し、反射的に権威に服従していれば、外見上は「善人」であろう。だが、こうした文科系大衆観念に基づいた「善人」観というものは、本質的な人間性を証明するものではない。

 ソマティックマーカー仮説などという無意識な行動学習による行動抑圧を、短絡的に「人格」として扱うのは、個人の意識的論理検証性の存在を無視した非科学的屁理屈に過ぎない。

 外見上善人風味を装い、何ら論理検証も行わず、その結果批判精神もなければ何にも怒りを持たずに済むであろう。こうした表面的な善人風味、冷静そうな風味を短絡的に「人格」だと鵜呑みにしているのは、現在の認知科学者達は誰一人として科学的論理検証性を持たないポンコツの集まりに過ぎないことの証明である。




 人格というのは性格と同義ではない。

 外見上の性格が、感情的でなく、温和で誰とでも話を丸めて多数から好かれるからといって。これが短絡的に多数や権威に迎合せずに自律的に社会的責任判断を下すという人格性の論証には全くならない。

 逆に言えば、短絡的に多数派や、多数によって認証された権威の命令に服従迎合せずに、自律的に社会的責任判断を行う者であれば。必ずしも「誰とでも話を丸めて、多数から好かれる。」わけではない。

 多数派のご機嫌取りが出来ることを、文科系大衆観念的には「性格が良い。」と規定するのであろうが。こうした外見上の「性格」というものが、短絡的に自律的な社会的責任判断が下せる本質的な「人格」の論証には全くならない。

 こんなことは「科学者」であれば本来わざわざ明記しなくても、自律的に検証理解し、何が本質的な「人格」であるのかに基づいた論証をしていなくてはならない。

 つまり、現在の認知科学者や脳神経生理学者達というのは、こうした極めて基本的な論理検証すら出来ず。漫然と大衆観念を鵜呑みにしており、科学者としての基本的素養が全くそなわっていないのである。

 大衆観念に基づいた論証をしておけば、大衆人気取りをするのは簡単であろう。「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」的なペテンで人気取りに邁進し、外見上善人風味を装っておけば、大衆観念的には「善人」なのであろう。それが結果的に振り込め詐欺被害の放置や促進になっていようとも、大衆観念的には「善人」なのであろう。

 こうした無責任な大衆観念を、「多数派である。」というだけで「正常」と見なすことも、人間としては異常なのである。



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簡単。

2013年09月28日 15時07分25秒 | 意識論関連
○簡単であるということ。

 「組織に対する忠誠忠実性こそが人間性である。」という文科系大衆観念が日本人の文化として根強く、こうした固定観念を利用する形でブラック企業は社員を拘束する。

 安倍首相の言う「規範意識」のような、無意識的行動バイアスこそが人間性を構築するものであるという観念が日本人の文化にはあって、そこには自律的判断というものは「あってはならない。」ことになってしまっている。

 ブラック企業にせよ、押し売り詐欺の類にせよ。個人の主体的判断よりも、組織の利益を優先させることこそが社会に対する貢献であるかの如く言い張ることによって、個人の思考判断能力を阻害させるのである。

 こうした意識撹乱こそが「洗脳」であり、これによって個人の主体的思考を停止させる手口というのは、東電原発の危険性を放置させたのと同じ構造である。



 ヒステリックに何かを主張されると、あたかも論理的根拠を持った正しい主張であるかのように、ヒトの多くは錯覚する傾向習性がある。

 企業などの組織が腐敗する構造において、中間管理職が組織に対する忠誠忠実さだけを発揮してしまうことによって、あたかも組織の利益こそが社会貢献であるかのような錯覚を促す主張がまかり通ってしまうことに陥る。

 戦時中の日本軍が、特攻などという異常な観念を強要したのも。「お国の為。」という大義名分を掲げ、あたかも特攻こそが国を救う行動であるかの如く錯覚を促した。

 組織に対する忠誠忠実性を優先させ、特攻精神的に組織に服従迎合させることによって。個人から主体的判断能力を剥奪することは意外と簡単なことである。

 「存外、ヒトとは簡単なもの。」なのである。

 「簡単である。」ということは、すなはち「バカだ。」と言うことでもある。

 それなら「バカではない。」状態とは、一体どのようなものであるかと言えば。簡単で短絡的ではない状態を指すのである。

 原発事故が発生する前に、原発の危険性を主張していれば、東電的には「面倒臭い奴。」であろう。

 スペースシャトルチャレンジャー号の技術者が、気温低下による危険性を主張したことはNASAの幹部達にとっては「面倒臭い奴。」であったのと同じである。

 イジメを止めようとする生徒がいれば、イジメを行っている者達からすれば「面倒臭い奴。」であることは確かである。

 大衆観念的には、こういった面倒臭いことをする奴を「バカだ。」と形容したがるが。これは自分達の無為無策性を事後正当化するための言い逃れに過ぎない。

 バカの集団にとっては、バカではない者を「バカだ。」ということにしておかないと、自分達の頭の悪さを認識することになるため、異常なまでに自分達の頭の悪さを意識から外そうとするのである。

 「イジメられる方にも原因がある。」などという主張もまた、こうしたはぐらかしの手口に他ならない。

 言っている本人には、はぐらかしている意識はないかも知れない。単にその場限りに自分の気分が悪くならないために反射的に言い逃れをしているだけなのかも知れないが、こうした無意識性こそがヒトの頭の悪さの根源なのである。

 無意識な者というのは、反射的に言い逃れや取り繕いだけは異常なまでにたくさん陳列することが出来る。その場限りの反射的言い逃れや取り繕いだけで脳が占領されており、自己論理検証性というのは全く働かないのである。

 これこそが典型的な「バカの状態。」である。


 例えば、「痴漢をされる方にも原因がある。」などと称して、ミニスカートや薄着こそが痴漢の根本原因であるかのような主張が正当化されるであろうか。

 こんな主張は加害者の論理であって、極めて身勝手な主張であることは疑う余地はない。

 「イジメられる方にも原因がある。」などという主張は、加害者や傍観者の身勝手な言い逃れに過ぎない。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」だと、そう思い込んでいるためだけに、自分の頭の悪さを意識から外すための反射的な言い逃れや取り繕いに邁進するのは、実は非常に簡単なことである。

 その場しのぎの言い逃れや取り繕いばかりを陳列することというのは、認知症の初期症状に他ならない。無意識条件反射的な言い逃れや取り繕いを、どんなに高速に大量に陳列出来ても、それこそがバカになる最短の近道なのである。

 認知症患者というのは、認知症状を自覚認識させると気分的に落ち込んで、余計認知症状が酷くなるという。

 脳というのは一度バカのスパイラルに陥ると、坂を転げ落ちるようにバカになって行くものなのである。ヒトの大脳辺縁系というのは、先天的にバカにならないようには出来ておらず、むしろバカを促進するようにしか出来ていない。

 バカでいることは生存に適している。

 シエラレオネでは、凶暴なゲリラでいた方が死なずに済んだし。ナチス政権下のドイツでは、ユダヤ人絶滅計画に加担していた方が生存に適した。

 ドストエフスキーがソヴィエト政府に迎合したことも、「生きるため。」であり。所詮は「悩ましい。」芸術作品に過ぎず、何ら哲学としての論理的分析がなされている訳ではない。

 ヒトの多くは、大衆観念的に「悩む。」ことを論理検証的な「考え。」だと錯覚する習性がある。これが現在の哲学界における思考停止という怠慢を促す最大の原因である。

 哲学者の多くは悩ましい問題に気分的に苦悩して、これを「考え。」だと錯覚することで、さも頭を使ったような勘違いをして満足するのである。

 だから現在の哲学者達は無能なのである。



 どんなに気分的に苦悩しようとも、どんなに感動しようとも、それは大脳辺縁系の反射による先天的情動の強度程度問題に過ぎず。具体性を持った論理的「考え」にはならない。

 それは芸術としての「文学」であはっても、「哲学」にはならない。

 哲学というのは、本来科学的探求に供するものであって。芸術気晴らしによる安心満足を得るための大衆迎合ではない。

 ところが、大衆の多くは哲学を気分的安心満足を得るためのものだと勘違いしており。また、哲学者の多くも大衆マスコミに迎合して「多くの人に読み続けられている。」という多数決によってのみ価値基準と見なしている。

 ドストエフスキーは具体的に何も予言などしていないし、プラトンにもニーチェにも具体性のある論理的根拠などない。にも関わらず、論理的根拠を持った考えではないということには哲学者の誰も言及しておらず、大衆的な多数人気を根拠に哲学として見なしているのである。

 これは本来科学としては犯罪とも言える怠慢である。

 大衆に迎合して「ドストエフスキーは素晴らしい。」とでも言っておけば、バカな大衆は「何だかわからんが、凄いな。」的に哲学だと「納得」勘違いさせることは簡単である。

 実際には「難しい。」のではなく、単に具体性のある論理的分析が全くないから「論理的に理解出来ない。」ことを、あたかも論理的に難解であるかのように錯覚しているに過ぎない。

 気分が行動に直結していれば、気分を促す時代だの社会にこそ原因があると錯覚することは簡単である。それはいわば、「通り魔の気分に同調している。」に過ぎない。

 「自分が悪いことを為すのは、社会や時代が悪いからだ。」などというのは、典型的なポンコツチンピラの主張に過ぎない。

 社会や時代を作るのは、自分を含めた個人であり。多数派であれば自律判断責任が人数分だけ薄まると勘違いするのは大衆的観念に他ならない。

 人口の多い現代社会や大規模組織において、個人の自律判断というものが微力であることは確かであるが。微力であることを根拠に自律判断を放棄して良い理由には全くならない。



 世間的な成功や特定能力の高さばかりを取り上げ「才能」だと言い張るのは大衆迎合に過ぎない。世間的な成功が才能であるならば、振り込め詐欺師も天才ということになる。

 そんな不毛な大衆観念には何の社会的価値も存在しないことを、ヒトの多くは認識していないのである。

 その場限りに金儲けや大衆人気取りが出来ても、そんなものが社会安全性や持続可能性に寄与しないことには、大衆の多くは意識が働かない。

 金儲けや人気取りにならないことは、大衆の脳にとっては存在しないのと同じだからである。

 大衆の脳にとっては、自律的に社会的責任判断を行うことの重要性など、目先の金儲けや人気取りに比べて快楽満足を提供しない「面倒臭いこと。」に過ぎないからだ。




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集団迎合生活。

2013年09月28日 15時06分04秒 | 意識論関連
○集団生活。

 「集団生活を学ぶ。」などと称して、実際には学校での集団生活ではイジメを傍観したり共謀することを行動「学習」しているのが実態である。

 権威や目先の多数派に迎合服従することこそが、個人から自律的な社会的責任判断能力を喪失させるのであり、現在の教育制度下における集団生活には何の価値もない。

 個人が自律的に社会的責任判断をしないからこそ、原発は暴走したのである。これは原発に限らず、あらゆる「人災」の根源である。

 気分的に「恐い。」相手に対して服従する多数派に迎合し、ならぬことをならぬと言わぬデクノボウの集団生活こそが、社会を崩壊へと導く最も最短の道である。

 イジメというものは、イジメを行っている者の凶暴異常性を無視し。「イジメられている方にも原因がある。」などと称してイジメを止めようとしなかった自分の行動を事後正当化する言い逃れを陳列することばかりに意識を奪われているからこそなくならないのである。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」的な観念というのは、振り込め詐欺師に引っ掛かるカモ特有の根拠なき自己満足に他ならない。

 自分が完全無欠な神か何かだと勘違いしておけば、自分の頭の悪さを認識せずにいられるので安心で満足であろうが。これはカルト宗教の教祖の心理と構造的には全くおなじ「実証不能の観念。」に過ぎない。

 自分が絶対完全無欠な天才だと勘違いしておけば、さぞかし安心で満足なのであろうが。ありていに言ってキチガイとしか形容出来ない。

 バカというのは、その場限りに「自分は絶対的完全無欠な神のような間違いを冒さない天才である。」かのように他人を批判し、或は逆に「自分は天才ではないから社会全体の公益性には考慮が働かない。」などと、のらりくらりと言い逃れや取り繕いをするだけで、言っている内容に論理整合性というものが全くないからバカなのである。

 その場限りに自分の気分が満足出来るような言い逃ればかりしていれば、論理的対策が全く立たずに社会全体から安全性が失われるのは必然的結果である。

 ヒトの多くは、恐い相手や面倒臭い相手に逆らわず、話を丸めて多数派迎合することを「社会性」だと言い張るが。これはチンパンジーやゴリラの行動習性としての社会形成習性と同じ「ヒトの社会形成性」であって、多数他人に惑わされることなく自律的に社会的責任判断を行う「人間としての社会性」とは全く別のものである。

 イジメを放置傍観し、自律的には何も判断せずに「生きるためには。」などと称して無為無策性を事後正当化することばかりを取り繕っていれば、人間としての社会性としての「自律的な社会的責任判断」を放棄するようになるのは当たり前である。

 漫然と多数派迎合するだけの「集団生活」をさせても、多数派に迎合し権威に逆らわなくなるバカを大量生産するだけに陥るのは必然的結果である。

 「どんなに対策をしても、人災はなくならない。」などと称して、対策自体を放棄することを正当化可能であるかのように言い張るのは、もはやキチガイの論理であり。これに対して何の反論も疑問も批判も行わない多数の「傍観者」も同罪である。

 「諦める。」ことは快楽である。

 諦めることで、ヒトというのは思考を停止させ、何も対策を考えなくても安心満足することが出来るため。ヒトは簡単に諦め、バカになるのである。

 虚無主義というのは、実際にはNihilisticでも何でもなく、むしろ論理的思考を放棄するための言い逃れ取り繕いであり、自己の論理検証可能性を拒絶するための現実逃避に過ぎない。

 無為にイジメを傍観放置し続けた既存の行動を事後正当化していれば、傍観放置に意味があることに出来ると多くのヒトは勘違い錯覚して満足であろう。その安心満足こそが脳内麻薬が作り出す幻覚なのである。

 具体性を持った論理的対策意見がないのであれば、安易に「仕方ない。」的な決め付けをするべきではない。

 バカが自分のバカさを事後正当化していれば、バカげた結論にしか帰結しないのは当たり前だからである。



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迎合。

2013年09月28日 15時04分47秒 | 意識論関連
○多数派迎合性の事後正当化。

 言語コミュニケーション能力の発達過程において、親の顔を見ない子供は言語会話の発達が遅い傾向があるそうだ。

 親などの他者の顔色を窺う性質があることによって、共通言語の学習が進むそうで。親の顔色をあまり見ない子供は共通言語の学習が遅れることになるそうだ。

 ヒトという種の生物は、他者の顔色を窺う習性があり。他者のご機嫌取りを行うことで生物的な社会形成習性を発揮するようになる。

 言語学習能力の速度の観点だけから見れば、あたかも他者の顔色を窺うことの方が優位であるかの如く見えるであろうが。言語学習の速さだけが人間としての知能ではないことは明らかである。

 言語などのシンボル抽象化能力を、短絡的に人間性の論証であるかのように近年までは平気で論じられていたが。言語はヒト特有に発達した能力であるとは言えるが、それが短絡的に人間性の論証になる根拠は全く存在しない。

 ヒトが言語を学習する際に、他人の顔色を窺う性質によって学習速度が速まるからといって、言語学習速度が速ければ知能が高いとか、人間性が優れているといった根拠は全く存在しない。

 やたらと良く喋る癖に、言っている内容はほとんど何もない奴など珍しくはない。振り込め詐欺師や養老孟司などが典型であろう。

 言語学習において、その速さの優位性を導き出す要因としての、「他人の顔色を窺う性質。」というのは。逆にイジメや差別迫害においては多数派同調性の大きな要因となるのは明らかである。

 多数派と同じではないことを根拠に、多数派で同調して差別をする習性というのは人間としての知能ではない。

 多数派に同調しないことは、イジメにおいての「イジメられる原因」の一つではあるが。それなら同調しないことで多数派のご機嫌取りにならないことが、イジメて良いことの根拠になるであろうか。

 イジメというのはイジメる方の多数派迎合性、多数派のご機嫌取りを優先してしまうという、多数派の異常性が根本原因である。

 ヒトの多くは「多数派である。」というだけで、多数派の方が一方的に正常であると決め付ける習性がある。そのため、少数派の方を「治療」することばかりを考えるようであるが、これは大きな間違いである。

 ヒトが多数派や権威といった上下関係を妄想し、権威や多数派に対して異常性を「感じない」のは、ヒトの先天的欠陥である。

 異常であると「感じない」のは、それが気分的に安心で満足だからであり。これこそがヒトから論理検証性を喪失させる先天的習性である。

 「感じることが出来ない」のであれば、認識出来ないことが正当化出来ると思うかも知れないが。これもまた大嘘であり、自発的に論理検証しないからこそ異常性を認識出来ないだけであって、構造原理的に認識不可能性が証明されている訳でも何でもないのである。

 「ヒトは自分や多数派の異常性を認識することが難しい。」とは言えるかも知れないが、構造原理的に認識不可能性が立証されている訳ではない。

 犯罪において、加害者と被害者のどちらが悪いかを論ずることに意味などない。にも関わらず、イジメに関しては被害者の多数派迎合性の欠落を原因であると言い張るバカは少なくない。

 「イジメられる方にも、原因がある。」としても、そのことが悪いわけではない。にも関わらず、多数派の異常性の方を無視して、少数派の方を治療することしか考えないというのは、明らかに多数派であることを根拠に多数派を正常と見なしているからである。

 イジメる方の多数派迎合性という異常性を、単に言語学習速度を根拠に正当化して良いわけがないのである。

 ヒトという種の生物は、神が「目的」のために作り出した完全無欠の存在ではない。偶発的に生存に適したという「結果」に過ぎない存在であり、先天的欠陥が存在することは別におかしなことでも何でもないのである。




 時折、「ヒトは一人では生きられない。」などと称して、これを根拠に多数派迎合性を正当化出来たと錯覚したがるバカも少なくはない。哲学者の多くはこんな奴ばかりであろう。

 だからこそ「生存自体に意味などない。」と言っているのである。生存することを根拠に多数派迎合性が導き出す結果までをも正当化しようとするのは、単なるキチガイに他ならない。

 生存だけは憲法でも保証されているにも関わらず、死ぬ自由については犯罪扱いするというのはおかしな話である。

 イジメ差別迫害や過重労働で自殺する者だけに死ぬ自由が存在しているのは不公平であり、全ての者に死ぬ自由がなくてはならない。

 死ぬことが「怖い」のは勝手であるが、怖いなどという気分感情を根拠に義務権利を放棄して良い根拠には全くならない。

 死ぬ自由を論ずることを、文科系大衆観念的に拒絶するのも勝手であるが。これを短絡的に冷酷であると言い張るのは身勝手というものである。現状における社会の不公平を放置することの方が実際にははるかに冷酷であることを、多くのヒトは認識していないだけであるからだ。




Ende;
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