書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇遅かった。

2015年02月03日 17時31分37秒 | 写真
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〇ISIL類への対策。

2015年02月03日 00時20分18秒 | 意識論関連
 ISILのように暴力を用いて恐怖で世界を統治しようとする集団というのは宗教や民族国籍に依存するものではない。

 太平洋戦争時の日本においても天皇を神とみなして野蛮行為を行ったし、オウム真理教でもナチスでも同様であり、中世においては「普通」で「一般的」なものであった。

 従って米軍による空爆によって物理的にISILを絶滅させても「ヒトという種の生物」が普遍的に持つ危険性の原因究明にも再発防止策にもつながることはない。

 ISILによる戦闘員勧誘では、「共産主義も民主主義も社会を良くすることはない、だからISILこそが世界を救う。」というネガティブキャンペーンによってISILを正当化するという短絡的で論理的根拠をすっ飛ばした論法である。こうした論法は様々な暴力集団において共通した短絡性であり、気分(感情)的に満足感を与え、あたかも「それさえ成功すれば社会のあらゆる問題が解決する」かのように錯覚することが可能なのである。

 こうした短絡的解決性というのは暴力集団に限ったことではなく、「刑法懲罰を用いて法令遵守さえさせることを解決とみなす。」という一般的法治国家における「常識」にも見られるものである。


 小さな子供に対して善悪を区別するための根拠を教えることは困難であるため、刑法懲罰などの規則を用いて気分的恐怖によって短絡的に服従させる場合がある。

 これは子供自身の安全にも関わる部分があるため、物事の善悪を区別するための論理的根拠を説明することを後回しにしても優先的に用いる必要性がある場合もあるためだ。 しかし、これはあくまで「方便」であって。大人になるにつれて自律的に善悪の判断が出来るように、自分自身で「考え」られるようにしなければならないものでもある。

 法律というのは手続きであり、法令遵守というのはそれ自体は目的ではなく、あくまで目的のための手段として法律という手続きが存在することを人の多くは忘れてしまっている。 故に司法刑罰の重罰化ばかりが議論されることになるのだが、これは手段の冗長化であって「社会安全性の確立」という目的を置き去りにした暴走に過ぎない。

 凶悪犯罪や重大事故が発生した場合、「悪者」を死刑などの重罰に処しておけば被害者感情などを満足させることは簡単であろう。しかし、死ぬことをいとわぬ自暴自棄な加害者に対して死刑という抑圧がどれほどの意味を持つであろうか。

 個人が主観的に「命懸けであれば人生の一大事」だと説いたのは養老孟司である。一方で9.11のテロを長い歴史の中では「さざ波」であるとも述べており、極めてご都合主義的「解釈」が可能な論理的根拠のない話が日本でも流行した。

 「太平洋戦争で命懸けで戦った兵士がいたから現在の平和がある。」などという話も、論理的には支離滅裂で命懸けで戦争を長引かせたからこそ平和が失われたとも言えるのであり。 過去に起きた出来事と現在の社会には必ずしも相関関係など存在しない。

 過去に熾烈な戦争を繰り広げたから平和になるという論理的根拠も、統計的証拠も全くないのである。

 主観的に命懸けで何かをやりさえすれば全ての問題が解決するという論理性をすっ飛ばした行動こそが暴走を引き起こし、それこそが個人から自律的な社会的責任判断能力を喪失させ、ヘイトスピーチやISILのような暴走の最も根源的原因だと言える。


 ヒトという種の生物には先天的な社会形成習性が存在し、論理的安全性よりも観念的安心を追求する行動バイアスが存在するため。特定の集団組織の仲間内の正義に同調し、仲間以外を「敵」とみなして暴力的攻撃さえしておけば自分達の異常性も検証することも意識から外すことが可能となる。

 ISILであれ、オウムであれ、天皇陛下万歳であれ。これらの構成員達には自律的な社会的責任意識は存在していない。だからこそ特攻崩れは戦後「荒れた」のであり、彼らに社会安全性についての意識など存在しなかった証明でもあり。戦争を無為に長引かせた軍司令部も同様である。

 「自律的な社会的責任判断の喪失」というものは原発事故においても指摘されたものであり、それこそが社会を破滅へと向かわせるものである。

 社会安全性というものは特定の社会制度や体制といった「結果」を維持することで確立出来るものではなく、あくまで制度や体制に生ずる「歪み」のようなものを常に修正し続ける個人の自律を必要とするものである。なぜなら社会というものは常に変わり続けるものであり、特定の制度体制手続きさえ維持しておけば良いというような短絡的で安易なものではないからだ。

 ISILとかヘイトスピーチといった暴力集団というのは、一般的庶民の感覚に根付いた短絡性から派生したものであり。それの異常性、問題点を認識(意識)しなければ無くなることはない。

 気分的に気に入らない相手に言葉や武器で暴力を振るっておけば満足感が得られるであろう。そういう風にヒトという種の生物の脳は出来ているからである。同調する仲間がいればなおさらである。理性の働かない者にとって行動原理は安心満足であり、どのような結果が導かれるであろうかという予測を判断する責任意識は存在しない。




 ただ、厄介な点があって。先天的に論理的思考の苦手な人が存在しうるという点である。

 これは一種の知能的障害であり、障害のある人に無理強いすることも過酷で人道的に間違ったことだとも言えるからだ。

 ヒトという種の生物は、神などの誰かによって保証されているわけではなく。あくまで自然淘汰の「結果」として情動行動が「遺された」だけに過ぎない。従って自律的に論理検証判断選択することが先天的に困難な個体が一定数存在してしまうことは不可避でもある。



 しかし、こうした傾向性というのはスペクトル(無段階傾向性)であり。必ずしも何かの基準で線引き出来るようなものではないはずなので、より多くのヒトに自律的な論理検証性を持たせる方法論は存在するはずでもある。

 大多数が自律的な論理検証性を持つことが出来れば、社会安全性や持続可能性は高まるはずである。だからこそ「教育」というものが重要なのである。

 ISILにせよ、ヘイトスピーチにせよ、ナチズムや大日本帝国にせよ、これらは時代や社会といったものに「流されて」いる結果に過ぎない。こうした「流されて」いる状態こそが無意識であり、無神経さを生み出すのである。

 時代や流行に左右されることなく、自律的に「何が正しいのか。」を判断選択するという本質的自己、本質的意識といったものが働いていないからこそ、様々な「暴走」が繰り返されるのであり。これらの暴走の原因というものが自分という「ヒトという種の生物」の中にも存在し得るという自覚が必要でもある。

 ブラック企業であれ、クレーマーであれ、ヒトのあらゆる無神経さの原因は自分の異常性を認識しようとする自覚が全くないが故の結果である。

 つまり、社会を破壊するのは特定暴力組織や為政者だけではなく。むしろ一般大衆(一般エリートも含む)の無意識性によってもたらされるものなのであり、ISILのような過激思想も一般人の異常性が凝縮された形の一つに過ぎないのである。



 かくいう私も金髪DQNに対して反射的に嫌悪感を抱き差別したいという「感覚」はある。ある種の生理的嫌悪感というものが全く存在しないわけでもない。だが、個人の主観的好き嫌いを社会安全性に持ち込むべきではないことは自覚しているつもりである。

 私が個人的に美少女を見てカワイイと思うということも一種の差別である。だが、こうした主観的好き嫌い差別を社会安全性や持続可能性の話と混同するつもりはない。だから学校安全性の研究者が金髪であっても言っている内容には賛同するし、逆にどんなに美人でも言っている内容が支離滅裂なら指摘する。

 重要なのは主観的好き嫌いと社会的責任判断を明確厳密に区別するという論理検証性こそが最も重要なのであって、これがないから「人を殺してみたかったから、殺してみた。」などというバカみたいな話が出てくるのである。これは「悪ノリ投稿」の動機と基本的に同じものである。

 「〇〇してみたい。」というのは欲望であって、脳の「結果」に過ぎない。こうした欲望という「結果」を短絡的に自由意思と混同している大多数の無責任さの結果として、悪ノリ投稿的な無責任行為が蔓延するのである。

 主体的「目的」としての社会安全性や持続可能性を求める人格とは、個人に主体的意欲が不可欠である。 自分が生きていて何をしたいのかもわからず、単に死ぬのが恐いから生きているだけであれば社会的責任判断もできないのは必然的結果であろう。





Ende;
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