一番厄介なのは本質的主体性を持たずに他人からの評価ばっかり求めてしまった挙げ句に、安易に誉めて貰える相手に流されてISIL的な集団に取り込まれること。
だからノーベル賞受賞者の多くは「これなら一生続けられる、そういうものを見つけなさい。」って勧めるんだけど、それって他人から強制されるものじゃなくて。 むしろ「目先の権威や多数からの評価に流されないことが重要」だってことを教えるべきなのかもしれない。
一生賭けて続けられるような研究テーマが見つかっている人からすれば、その重要性は優先度が高いから言うんだろうけども。見つかっていない人からすれば他人から強制的に「見つけなければならない。」的に強要されても居場所を失って反って居心地が悪くなっては本末転倒。
「好きなこと」って他人から強要されても見つかるもんじゃなくて、肩の力抜いて気長に探すべきものなんじゃないかな。
何か強迫観念的に自分探しを強要されても、反ってやりたいことが見つからなくなってしまうのではないだろうか。その結果目先の他人からの評価に流されてしまったのでは逆効果。
そもそも他人から何かを強要されるという形こそが、本質的な主体性を喪失する原因であって。「他人からの評価」であれ「本質的主体性」であれ、「他人から強要されている」という形が根本的に間違っているのではないだろうか。
「本当は何がしたいのか。」なんていうのは、気持ちに余裕がなければ見つけることは出来ないものなのではないだろうか。そこを置き去りにしたまま息苦しいまでに追い詰められても、そんなもの見つからなくなるものなのではないだろうか。
追い詰められることで周りが冷静に見えなくなるのは、むしろ必然なのではないか。
何でもかんでも追い詰めるような「文化」こそが、本質的主体性を喪失させている原因なのかもしれない。
本質的主体性というのは他人から求められて身につくものじゃなくて、むしろ「他人からは一切何も求められていない状態」でなければ見つからないのかもしれない。
なので、最も重要なのは意欲の方向性が目先の権威や多数から求められているものなのか、それとも本質的主体性としての個人的意欲に基づくものなのかが、自律的に区別出来る判断力だと思う。
特に主張すべき中身もないのに発言力欲しさに犯罪に手を染めてしまうような「暴走」が迷惑なのであって、それさえなければ何の役にも立ちそうにないことに熱中しても良いんだっていう本当の意味での「ゆとり」を、ヲヤヂ達がどれだけ持てるのかが先なのではないだろうか。
ヲヤヂ世代というのは追い詰められて育った世代であるため、「文化」として若者を追い詰めようとしてしまう習性があるのではないだろうか。それは一種の病気なので、若者の方も「ああ、このオッサンはゆとりを持たせてもらえなかった世代なんだろうな。」的に客観的に分析することも必要なのではないかな。
「息苦しい」状態が一番良くない。 だって生きていて楽しくないじゃん。
楽しくなかったら何の意欲だってわかないよ。それで「本質的自主性を発揮しろ」とか言われても無理。
Ende;
だからノーベル賞受賞者の多くは「これなら一生続けられる、そういうものを見つけなさい。」って勧めるんだけど、それって他人から強制されるものじゃなくて。 むしろ「目先の権威や多数からの評価に流されないことが重要」だってことを教えるべきなのかもしれない。
一生賭けて続けられるような研究テーマが見つかっている人からすれば、その重要性は優先度が高いから言うんだろうけども。見つかっていない人からすれば他人から強制的に「見つけなければならない。」的に強要されても居場所を失って反って居心地が悪くなっては本末転倒。
「好きなこと」って他人から強要されても見つかるもんじゃなくて、肩の力抜いて気長に探すべきものなんじゃないかな。
何か強迫観念的に自分探しを強要されても、反ってやりたいことが見つからなくなってしまうのではないだろうか。その結果目先の他人からの評価に流されてしまったのでは逆効果。
そもそも他人から何かを強要されるという形こそが、本質的な主体性を喪失する原因であって。「他人からの評価」であれ「本質的主体性」であれ、「他人から強要されている」という形が根本的に間違っているのではないだろうか。
「本当は何がしたいのか。」なんていうのは、気持ちに余裕がなければ見つけることは出来ないものなのではないだろうか。そこを置き去りにしたまま息苦しいまでに追い詰められても、そんなもの見つからなくなるものなのではないだろうか。
追い詰められることで周りが冷静に見えなくなるのは、むしろ必然なのではないか。
何でもかんでも追い詰めるような「文化」こそが、本質的主体性を喪失させている原因なのかもしれない。
本質的主体性というのは他人から求められて身につくものじゃなくて、むしろ「他人からは一切何も求められていない状態」でなければ見つからないのかもしれない。
なので、最も重要なのは意欲の方向性が目先の権威や多数から求められているものなのか、それとも本質的主体性としての個人的意欲に基づくものなのかが、自律的に区別出来る判断力だと思う。
特に主張すべき中身もないのに発言力欲しさに犯罪に手を染めてしまうような「暴走」が迷惑なのであって、それさえなければ何の役にも立ちそうにないことに熱中しても良いんだっていう本当の意味での「ゆとり」を、ヲヤヂ達がどれだけ持てるのかが先なのではないだろうか。
ヲヤヂ世代というのは追い詰められて育った世代であるため、「文化」として若者を追い詰めようとしてしまう習性があるのではないだろうか。それは一種の病気なので、若者の方も「ああ、このオッサンはゆとりを持たせてもらえなかった世代なんだろうな。」的に客観的に分析することも必要なのではないかな。
「息苦しい」状態が一番良くない。 だって生きていて楽しくないじゃん。
楽しくなかったら何の意欲だってわかないよ。それで「本質的自主性を発揮しろ」とか言われても無理。
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