書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇司法懲罰の傍観放置。

2015年03月01日 10時35分11秒 | 意識論関連
被害者のことをかわいそうだと言うのは簡単で、加害者をキチガイだと非難することも簡単。

だけど18歳かそこらで残虐な殺人を「しなければならない」程追い詰めた環境とか状況というのも憐れなのであって。短絡的に結果論だけで「加害者がキチガイ」で済む話ではない。

もちろん加害者当人の自律が重要なんだけども、自律の素となるべき本質的主体性すら持たせてもらえない環境とか状況があるとすれば、これは加害者当人だけの問題ではない。

現在の司法制度上においては加害者の懲罰科料の妥当性を決めるだけであって、「加害者がなぜ加害に至ったのか」、「なぜ自律的に自分を抑制出来ないのか」についての具体的で論理的検証としての原因究明が全く放置されてしまう。しかし、こうした「悪者を探し出して攻撃する。」といったその場限りな対応で気分的に安心満足してしまうという大多数の「ヒト」の短絡性こそが、「ヒトという種の生物」の危険性を放置しているのであり。ここに言及しない限りあらゆる「人災」に対する再発防止策は永遠につながらないばかりか、阻害しかしない。

ハイリッヒの法則から鑑みれば、一つの重大事象の裏には無数の事象が隠れているのであって。実際に社会(マスコミが取り扱う)に露見した事柄にだけ対処しておけば良いというものではない。

司法懲罰制度の不毛性を放置しているというのは、いうなれば子供がイジメを傍観放置しているのと構造的には同じであり。イジメの傍観放置というのは大人の無責任さの反映だとも言える。

自分達の無責任さを棚上げにして、実際に重大事象が起きてから「悪者」を糾弾非難しているだけならバカでも出来る。

すなはち、自分達自身のバカさ、愚かさを認識しようとしないからこそ、様々な「人災」への原因究明にも再発防止策にもつながらないのである。



ヒトの多くは「自分だけは絶対に大丈夫」だと盲目的に信奉する。 そう思っておけば気分的に安心で満足だからだ。

だからこそ重大事象の「悪者」だけを非難して、刑法懲罰の判決を「解決」であると見なし、本質的な原因究明を放置してしまうのである。

ヒトという種の生物の危険性というものが、どのようにして生ずるのか。その過程や原因といったものを共有して次世代に伝えてこそ教訓財産ともなるのであって、これを行わずに加害者を非難するだけの短絡性こそが、本当の非難対象だと認識すべきである。



恐らく、ISILの構成員のような残虐行為を行っている者も、「自分達だけは絶対に大丈夫」だという盲目性が働いているからこそ、自分達の行為に何の疑問も持たなくなることが可能なのであり。これは一般市民における「司法懲罰や加害者非難で満足解決だ」という無責任性と構造的には何の違いもない。

本質的原因究明をせずにその場限りの懲罰非難で満足しているということは、すなはち「何度残虐行為が繰り返されても俺の知ったことではない。俺様がその場限りに安心で満足出来ていれば充分。」という残虐性なのである。



ましてやチンパンジーの行動習性の観察だの、特定環境下におけるヒトの行動習性の抽出から「ヒトは先天的に人間性を持ち合わせている。」という妄想で満足することは、もはや科学でも何でもない。科学的思考から逸脱していれば進歩がないのは当たり前の話である。




Ende;
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