書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇他人事。

2015年03月09日 11時48分41秒 | 意識論関連
 川崎の中学生殺害事件の加害者側の親のコメントに言い知れぬ違和感を感じてたんだけど、具体的に何がおかしいのかがわからなかった。

 そしたら3月8日のテレビ番組で尾木ママが「他人事みたいだ。」と述べていて、なるほどそこかと納得した。

 自分の息子が重大犯罪を犯したかも知れないという状況でありながら、コメントがまるで中途半端な大企業から来たメールのようにキッチリしているのも不自然である。

 自分の社会的責任よりも何よりも、その場限りの上っ面な取り繕いとか言い逃れにばかり意識が働いているからこそ、こういった「他人事」みたいなコメントが出てくるのではないだろうか。 マトモな「人間」ならそんなに冷静にマスコミコメントなんて書いている精神的余裕はないと思うぞ。

 自分の子供が重大犯罪を犯したかも知れないのであれば、普通は「自分の育て方に問題があったのかも知れない。」という当事者意識があるものだろうけど、それが全くなくて子供に対して「警察の捜査に協力しろ」だとか言っている。

 いや、お前が育てた子供だろ。 お前も協力しろよ。

 この親は当初「自分の子供は絶対に犯罪に関わっていない。」などという盲信的態度をとっており、まるで振り込め詐欺に騙される痴呆老人みたいなことを言っていた。 「子供を信じる」というのはそういうことではないんだけどね。


Ende;
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〇無責任の構造。

2015年03月09日 02時59分54秒 | 意識論関連
 先日、テレビで漫画家と工業デザイナーの対談番組があった。

 その番組内で「やりたいことが決まっている人は、それしかないから挫折すると立ち直れない。」などという話を共有していた。

 しかし、そいつらというのは「やりたいことなんてわからない。」と言い、その上「他人の顔色ばかりが気になってしまう。」とまで述べていた。

 「一生賭けてやりたいこと。」を持たない奴が、どうして「それしかないから挫折する。」などと決め付けられるのであろうか。

 たかが漫画家や工業デザイナーが、その業界内部での評価を得て小銭を稼げたからといって、何でノーベル賞受賞者達が提唱する「一生賭けてやりたいこと。」を否定出来るというのであろうか。 これは身勝手な傲慢でしかない。



 そもそも「挫折」するという時点で、既に一生を賭けていない証拠であり。こいつらの基準では世間的評価が得られないことを短絡的に「挫折」だと言っているだけで、本当に「一生賭けてやりたいこと。」を持っているのであれば「挫折」自体が成立しない。

 世間的評価が得られないとしても続ける覚悟、本質的な自発的意志としての純粋行為というものに「挫折」とか「諦め」などという概念自体が存在しないのである。



 本当に一生を賭けられるような純粋行為が見つからない者にとっては、ノーベル賞受賞者達の勧めは息苦しい窮屈なものなのかも知れないが。 これは人間性の確立においても重要な事柄であり、目先の世間的/経済的成功などという小銭稼ぎレベルの話ではない。

 通り魔が無差別殺人を行う大きな理由の一つが「世間が認めてくれないから。」である。 たまたま世間大衆から評価を得て、小銭稼ぎに成功したからといって、あたかも自分達が人間として優秀な存在であるかのように錯覚しているからこそ身勝手な妄想を陳列しようとするのであり。 こうした「他人からの評価」ばかりを追求する発想自体が根源的に間違っているのである。

 「小銭が稼げるよ~。」的な話をすれば、愚かな大衆の人気取りをすることは簡単であり。あたかも人間として優秀であるかのように錯覚妄想することも簡単であろう。それはとても簡単であるが故に、世間的評価が得られない場合に「挫折」し、通り魔のような「報復」感情の暴走をも招くのである。



 ノーベル賞受賞者達が重要だと考えるものというのは、目先の多数や大衆世間的評価に惑わされることなく。本当に知りたいこと、挫折することなく本当に純粋に追求したいと思えるものを持ち続ける本質的主体性である。

 この本質的主体性こそが、自律的な社会的責任判断の源であって。これを持たずに他人の顔色ばかりを窺っているからこそ「自律」を失うことに陥るのである。

 本当の意味でのイノベーションをもたらすような研究というのは、誰も踏み込んだことのない領域であり。その過程では世間的評価が得られないばかりか山中伸弥教授のように「ジャマナカ」とまで言われることも充分ありうる。

 山中教授はこうも述べる、「何度でも失敗して下さい。」と。

 何度失敗しても挫折することなく続けるという、本当の意味での自発性こそが最も重要だという意味である。



 しかし安っぽい成功者達は安易に「成功体験を子供に植え付けることでやる気を引き出す」などと述べるのである。 茂木健一郎などが典型であろう。

 他人から提供された「成功体験」などというものでしか動機が得られないからこそ、通り魔達は簡単に「諦め」「挫折」し、自律的な社会的責任など糞喰らえとばかりに無差別報復へと暴走するのである。

 これはISILに参加する若者達にも言えることである。



 「挫折」などというのは本質的自発性に基づく純粋な研究テーマなど持たず「他人の顔色を窺うことでしか行動動機が得られない者の泣き言。」に過ぎないのである。

 たまたま世間的に評価され、小銭稼ぎのコツを会得したからといって。それが人間としての重要性の全てだと勝手に妄想し、偉そうに語ることも簡単であろう。

 こうした安易で簡単な事柄に流されているから「意識がない。」「意識が低い。」というのである。



 一生賭けて行う研究というものは、必ずしも世間的評価が得られるとは限らず、死後に再評価されても当人の経済的成功には結びつかないこともしばしばである。

 その覚悟も持たない小銭稼ぎが偉そうに自発的純粋行為を否定するというのは傲慢という他ない。

 当人達は他人の顔色を窺うことを謙虚さか何かと勝手に妄想勘違いしているようだが、それこそが「卑屈」の根源であることを認識していないのである。




 安易で簡単なことをして満足するのは簡単である。 これは自明である。

 犯罪者に刑法懲罰を与えて「解決」とみなしておけば大衆の多くは満足である。だが、それこそが犯罪者の無責任さと同じ無責任で意識の低い選択であることにまでは意識が働いていない。

 働いていない意識は無意識である。



 世間の大多数の大衆達は、「気分的にやさしい気持ち」にさえなっていれば短絡的に人間性か何かと勝手に妄想するであろうが。 これは「気分感情が当人の意志や意識そのものである。」という大衆観念に基づいた妄想錯覚に過ぎない。

 「単純作業は心がキレイになる。」などというのも、要するに単純作業で気分が良くなったことを短絡的に「心がキレイ」だと勝手に妄想しているからこその発言である。



 東京電力社内において、原発の危険性を指摘することは上司や同僚から疎まれ嫌な気分に陥るような事だったに違いない。だからこそ東京電力の社員達は原発の危険性を放置したのである。

 本当の意味で「心がキレイ」とは何かすら本気で考えたこともない一般大衆の人気取りをするにはそれで充分かも知れないが。 その安易な人気取りこそが本当の問題点への意識を喪失させ、「自律的な社会的責任判断」の重要性を認識せず、身勝手な妄想で満足してしまうという無意識へと誘うのである。

 こうした「自分達の無責任さ」を認識せずにいた方が気分は良かろう。

 バカのままでいることは気分的満足や安心感を与える麻薬のようなものだからである。その意味においては残虐なテロリストや通り魔達も、何も問題意識を持たずに漫然と懲罰や賠償だけで「解決」だと信じ込んでいる一般大衆も、無責任さの構造的には何の違いもないのである。

 進化生物学的な脳の構造に由来する情動行動には何の保障も存在せず、ヒトという種の生物には先天的危険性が存在することを認識することは、大多数の大衆にとって気分が悪い話であろう。 むしろチンパンジーやヒトが特定環境下における限定的な利他行動の抽出を科学的業績か何かと勝手に勘違い妄想しておいた方がさぞかし気分が良いに違いない。

 それはもはや科学でも何でもなく、実証不能の観念以外の何物でもない。 ならば何の問題解決にならないのも必然というものである。



Ende;
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