書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇誠実な心。

2015年03月17日 00時35分51秒 | 意識論関連
 研究者倫理として「誠実な心を持つことが不可欠。」だと「教え」ておけば具体的に不正捏造が無くなるという短絡的なものではない。

 そもそも「嘘をついてはいけません。」などという幼稚園児レベルの話を研究者にしている時点でバカげている。

 不正捏造がなぜ行われるのか、その原因とは研究者自身の自律の欠落である。自律が欠落する原因とは研究自体に対する純粋さ、研究内容そのものに対する本当の科学的好奇心が存在していないからである。 この最も根源的原因を無視したまま、上っ面に「嘘をついてはいけません。」などと説いても全く無駄である。

 業績を捏造する原因とは、研究内容そのものに対する主体的意欲がないために手っ取り早く目先の評価報酬を得ることを優先してしまうからである。 なぜそうなるのか、それは結構単純なメカニズム構造で、要するに進学のための学力競争にばかり意識を奪われ、目先の評価だけしか見ないように「教育」されてしまった結果だからである。

 養老孟司の解剖学と同様、「親に医者になれと言われたが臨床が嫌だったから。」などという極めて消極的な消去法選択だけで行っている研究にはほとんど何の業績も得られないのである。

 なにせ「教えてもらっていないことは、教えられないじゃありませんか。」などというほとんど痴呆とも思えるバカげた屁理屈しか養老孟司の脳からは出てこないのであるからして。そんな脳から誰からも教わっていない新しい発見が出てくるわけがないのである。

 「成功体験」などと称して、行ったことに対して他者からの評価報酬を得ることばかりを行動の動機としていれば、失敗や困難に対して簡単に挫折し、安易に不正を行うようになるのは必然的結果であるからだ。

 漫画家のような安易な大衆からのウケ狙いであればそれでも良かろう。何の責任もないフィクション(嘘)を陳列して儲けるのは勝手だからだ。 だがしかし、公費を用いて公的研究を行うのであれば、目先の安易な評価報酬を目当てに行われたのでは迷惑というものである。

 茂木健一郎のように無責任な脳科学者達は、おしなべて安易に「成功体験」などと称して気分と行動動機を直結させるような「教育」法を勧めるが。これこそが研究内容そのものに対する真摯さを後回しにして目先の評価報酬ばかりを追い求めるバカを大量生産する原因なのである。

 ノーベル賞受賞者の多くは、決してこうした安易な教育法は勧めず、むしろ「何度でも失敗して下さい。」だとか、「自分はこれならな一生続けられるものを見つけなさい。」といった、いわば大衆にとっては気分の悪い、都合の悪い話しかしないのである。

 人生を賭けてまで没頭出来るような研究テーマを見つけるなどというのは、単に目先の個人的生活を成立させることにしか意識の働かない大多数の凡民にとっては窮屈な話でしかないらしい。



 子供の頃から学力競争ばかりを強要されて来た者にとっては、他者とは「蹴落とすもの」でしかない。それなら嘘をついてでも業績を捏造するのは必然的結果である。そんな者に対して上っ面に倫理を説いても、養老孟司よろしく「倫理、倫理の大合唱。ヒトはいつからスズムシになったんだ。」などとはぐらかすだけである。

 本当に人生を賭けて研究する対象が存在すれば、こうした無責任な言動が出て来ることはない。なぜなら他者からの目先の評価報酬が目的ではなく、研究そのものを真摯に続けたいからである。

 自己内部の欲求としての持続可能性を持つからこそ、社会に対する持続可能性への意識も働くようになるのであって。「他者から与えられる脳への報酬」にはそれがない。だから業績の捏造などの不正が横行するのである。

 従って、研究者倫理などと称して真摯さを形式的に求めてどうにかなるという単純安易なものではないのである。

 本当の研究者を求めるのであれば、学生に学力競争ばかりに意識を奪う進学ビジネスのエサにするシステム自体を見直す必要性がある。どんなに学力が高くても、その場限りに他者から評価されることでしか行動動機にならない者に、本質的な自発的純粋行為を求めることは原理的に不可能だからである。

 世間的な評価ばかりを求める無意識な親や、進学ビジネス利権者達の勧めるままに、何も疑うことなく学力競争に邁進してきた生徒が、東京大学に入った途端に学長から「全てを疑え」などと言われても、反って困惑するだけであって。何の意味も成さないのである。

 「他者から与えられる脳への報酬」でしか行動動機が働かないという意識狭窄というのは、いわば子供の頃から強迫観念的に刷り込まれた一種のトラウマのようなものであり。形式的に倫理を説いても簡単には解けるようなものではない。

 研究組織の責任者として、安易に研究倫理を念仏のように唱えるだけというのは、あまりに無責任で適性に欠ける。

 たとえ業績主義を廃止して「落ち着いて研究出来る環境」を整えたとしても、本心から研究に没頭出来ない研究者にとってはぬるま湯天国であり、税金の無駄遣いにしかならず、極めて社会的に無責任である。



 どのような研究環境であろうとも、業績捏造などの不正を行わない自律的な社会的責任意識を持った研究者でなければ、研究者としての社会的価値は存在しないのである。

 本当に誰も踏み込んだことのない研究領域であれば、それは評価してくれる他者が存在しない領域である可能性も充分にある。誰もやったことのない研究であれば失敗や試行錯誤ばかりであり、進学テストのように答が予め用意されているわけでもない。それでも続ける地道さ、真摯さというのは、研究内容そのものに対する本質的自発性しか存在しない。

 にも関わらず念仏の如く研究者倫理を説くという無責任な研究組織の責任者が存在する理由というのは、二つの場合が想定される。

 一つは組織責任者自身が他者からの評価に左右されたりしない純粋な研究者であるために、安易に業績捏造などという不正を行う心理自体が最初から理解出来ていない場合である。

 もう一つは自身も研究者倫理になど興味を持たず、世間的ポーズとして形式的に倫理を説いているだけの場合である。

 どちらにせよ研究組織の責任者として社会的責任を果たしていないことに違いはない。とは言うものの、具体的に実際の研究者の誰が本質的自発的研究者意欲があるのかなど判断する方法論が確立されているわけでもないが、ただ漫然と倫理を説くだけで「対策」だと言うのは許されない。



Ende;
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