書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○楽観も悲観も理性とは無関係である。

2015年07月25日 12時00分14秒 | 意識論関連
支配欲というのは、支配したいのではなく、支配されたいという欲望が満たされない不満の結果として、八つ当たりする形で暴力を発露するのである。

イヌなどの社会的形成習性を持つ動物は、基本的に哺乳類としての「甘え」によって自己と他者との関係性において順位を求めようとする。

その順位というのは、服従の快楽を満たし、支配されることへの安心感を求めているのであって。服従しているイヌは気分的に満足しているが、逆に服従対象を見失っているイヌでは服従する安心感を喪失することで、結果的に暴力的になったり、暴力的であるがゆえに繁殖行動も促されるのであって。 イヌが暴力的ボスの遺伝子を遺すというのは、先天的本能習性の「結果」であって。意識的な「目的」行動選択など介在する余地はない。

飼い犬の場合、自然淘汰からは隔離されてしまっているので。必ずしも暴力的「強者」がボスになるわけではなく、育て方を間違えた小型犬が飼い主の手を噛むといった行動も見られる。

こうした行動習性の結果というものには、実力が伴わず。トラとイヌを一緒のケージで飼うとイヌの方が情動行動として威圧的になるため、結果としてトラの方が外見上の順位が下になってしまうこともある。

どう考えても暴力的実力ではトラの方が上であるにも関わらず、服従を強要しないトラに対してイヌは不満を抱き、結果的にイヌの方が無駄に威圧的行動を採ることで、トラは異常に威圧してくるイヌに対して、とりあえず服従するような形を採ることで、結果的にイヌの方が外見的に順位が上になってしまうのである。

これはヒトがイヌを飼う場合においても同じことで、イヌのシツケというのは飼い主の方が順位が上であることを認識させるよう訓練しないと、イヌは服従の快楽を満たすことが出来ずに、その不満の結果として飼い主の手を噛むようになるのである。

イヌの脳が求めているのは、本来服従の快楽であって。決して支配を目的として暴力的になるわけではなく。あくまで服従欲が満たされない結果として、その不満をぶちまける形で暴力的になるのである。

暴力性というのは、本来不満の結果であって。それ自体を求めているわけではなく。

たとえば空腹時に意味もなく苛つくといった行動がヒトでも見られるように、暴力性というのは本能的には不満を満たすための行動結果に過ぎないのである。

先天的本能習性というのは、あくまで個体が気分的満足安心を追求した「結果」としての行動バイアス(無意識)を促すだけであって。そこに何らかの意識的目的が介在する余地は全くないのである。

たとえば暴力的実力を伴わない個体がボスになった集団であれば、それは自然界では生存に適さないために淘汰され。また、暴力性が強すぎて本当に殺し合いでボスを決定しても種の存続には適さない結果、自然界では適度に威圧的な個体がボスになるような種に淘汰が働いたのであって。そこに何らかの目的意識が介在しているわけではない。



ところが、ヒトの場合は本来暴力的実力の順位で指導者を決定するようなことは、意識的(合理的選択)として避けてきたため。その結果、先天的本能習性としての順位欲を満たすことが必ずしも出来ない。

そもそも、先天的本能習性としての順位欲の強度というのは、交配によってランダムにシャッフルされることで突然変異的に変化を促すため、必ずしも個体の生存や種の保存に適した結果をもたらす保証はどこにもない。

自然界であれば、生存や種の保存に適さない個体や集団は淘汰の対象であるが。ヒトの場合は一部の意識的(合理的選択)の結果として、生存や種の保存に適さない個体であっても、とりあえず平等に取り扱い、淘汰の対象にはならない。



文科系大衆観念上では、自然淘汰というのは常に生存や種の保存に都合良く働くものであるという妄想錯覚が働いているが。実際には生存や種の保存に適さない種が全て淘汰されることで結果的に都合の良い種だけが遺っているに過ぎないのである。

こうした「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的なランダム変化の結果こそが生物「進化」なのであって。例えば細菌が多剤耐性を獲得する過程と同じように、ある特定の先天的本能習性を獲得する過程においても、そこに目的意識的選択が介在しているわけではなく、あくまで暫定的な「結果」として組み込まれているに過ぎないのである。

そもそも生存自体が結果であって、どんなに生存への執着心を抱いても、生存が目的であることの論理的証明など不可能なのである。

松沢哲郎ら進化生物学者達の多くは、こうした結果と目的の区別を一切して来なかったという非科学性を隠蔽し、現状体制を維持存続させるためだけに大衆観念を利用して業績を捏造しているのであって。科学的探求になど一切なっておらず、税金の無駄遣いにしかなっていない。

本能的行動結果から倫理や人間性を立証することなど原理的に不可能なことであって。これは結果に対して目的を事後正当化する形でこじつけている嘘に過ぎないのである。

チンパンジーの一種ボノボが、誰彼構わず性器をなすりつけることや、牙を剥き出し順位を決定することで気分的に満足し、結果的に直接暴力に至らないことを「倫理」だなどと言い張るのは、進化生物学者達の現状体制維持のためのこじつけ以外の何物でもない。 そんな陳腐な嘘を鵜呑みにしている大衆やマスコミも頭が悪すぎる。

痴漢行為やセクハラやパワハラでその場限りに気分的に満足することが「倫理」だの「人間性」の論証になるわけなかろう。

学術権威の言うことに対して盲目性を発揮し、論理検証をすっ飛ばして鵜呑みにするこうした習性も。ヒトの先天的な社会形成習性の結果であり。ヒトの先天的な頭の悪さの証明でもある。

どこぞの病理診断医のように、自分では自律的に一切論理検証もせず、何の考えも持たずに「はずかしい」だのといった気分感情が行動や思考と直結しているからこそ。盲目的な権威服従性を発揮するのであって。こうした先天的習性としての権威服従性バイアスこそが、様々な場面において重大事故の原因ともなっているのである。



先天的な本能としての社会形成習性バイアスというものは、様々な場面においてヒトの頭の悪さの原因となるわけだが。こうした本能習性という無意識なバイアスが存在することを認識していれば、普通のヒトであれば意識的に回避することも可能であるはずなのだが。 ヒトの多くは無意識である本能欲望のおもむくままに行動しておいた方が気分的に「楽」であるため、「バカであり続ける。」という行動しか採らないのである。



あらゆる先天的本能欲望というものは、あくまで自然淘汰の結果でしかないにも関わらず。文科系大衆観念者の多くは先天的本能習性に対して何らかの意味(目的)をこじつける形の「説明」をしたがるが。そんなものは構造的に「結果には目的があるはずだ。」という優生学(フランシス:ゴルトン)のこじつけ論証形式の踏襲に過ぎないのである。

「なぜ、その種の生物が遺ったのか。」というのは、あくまで結果であって、その過程の全てを説明することなど原理的に不可能であり。 進化生物学的「説明」の全ては、その場限りの「説明」を目的とした「説明のための説明」にしかならないのである。



強姦というのは人間社会における概念であって。動物に強姦という概念はない。 このことからも、進化生物学から人間性や倫理を説明することなど、構造原理的に不可能なものであって。そんなものを説明しようとしている事からして既に嘘なのである。

牙を剥き出して威圧することで相手を服従させることの一体どこが「倫理」だと言えるのであろうか。

気分感情のバイアスの結果として、実力の伴わない相手にも服従してしまう習性が存在する結果として。ヒトの多くは無能な指導者の命令に従うことで、組織の暴走破綻をも傍観放置してしまうのである。

進化生物学の嘘を傍観放置しておくということは、ヒトという種の生物の先天的な頭の悪さの傍観放置でもある。それならイジメ問題も暴力団やISILなどの過激派組織に惹かれるヒトのバイアスについても研究が進まないのは当たり前の話である。



現状世間における社会的成功という利己的欲望に意識を奪われていれば、組織の腐敗や危険放置などへの配慮が働かなくなる。

何が本当の「合理性」であるのかを論理的に検証していないから、目先の欲望追求を合理性追求と混同してしまうのである。 左脳優位なヒトの多くは、これを説明してもなを自分の頭の悪さを認識せず、「教えてもらっていないから、わからない。」などという開き直りを平然と主張する。 そんなものは「頭の悪さ自慢」にしかならない。

頭の悪さを自慢されていたのでは、自律的論理検証もすったくれもあったものではない。それはもはやバカの屋上屋を重ねているだけであり、バカが治らないのも当たり前の話である。





オックスフォード大学 エレーヌ・フォックスは、「バイアス」という無意識な情動ばかりを論じていて、論理的思考について全く考慮に入れておらず、頭が悪すぎる。

また、人格と性格を混同してもおり、理論としての形をも為していない。 翻訳の関係もあるのかも知れないが、性格というバイアスだけで人間性を伴った人格を論ずることなど不可能である。

悲観的であることの原因である恐怖は「必要なもの」ではなく、恐怖を感じることが結果的に生存に適した結果に過ぎず。恐怖心を用いて振り込め詐欺は被害者を騙すのであり、必要なのは論理検証性であって恐怖心ではないことは明らかである。

恐怖による行動バイアスは、動物の生存にとっては結果的に必要「だった」とは言えるかも知れないが、必ずしも常に必要である証明にはならない。

本当の安全性というのは気分的恐怖によって担保されるものではなく、あくまで論理的思考による目的意識に基づくものであり。どんなに恐怖を感じても安全性にはつながらない。

一方楽観的であることだけをあたかも感情的ではないかのように論じているが、これは大嘘である。楽観であれ悲観であれ、どちらも気分感情(無意識なバイアス)であって。論理的安全性の話とは無関係である。





Ende;
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