書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○雑。

2016年12月21日 15時03分14秒 | 意識論関連
今村核を法務大臣にしたら良いんじゃないかと思ったよ





何か、ヒトという種の生物は神話をこさえて絶対だと信じ込みたがる習性があって。刑法懲罰こそが唯一絶対的な犯罪への抑止力になるとでも妄想しているんじゃなかろうか。

原発の安全性とか、核兵器による抑止力とか、外交努力だとか、何か「これさえやっときゃ、全ては解決。」的な神話をこさえて安心満足しとけば何も進歩しなくても良いとでも思っているんではなかろか。

刑法懲罰というものが唯一絶対的な犯罪抑止の対策であることの合理的証明なんて本当はないんだけど、罰というのは被害者感情的には満足感が得られるので非合理な判決であろうとも、それ以上の対策や制度について誰も言及することがない。

犯罪というものを便宜的に二つに分類すると、過失事故と意図的犯罪に分けることが出来る。

アクセルとブレーキの踏み間違いによる重大過失事故というのは、意図的に犯したものではない。これを意図的犯罪と同列に語ることは本来出来ないはずであり。過失事故というのは結果の大小に関わらず危険学/失敗学的な分析と再発防止対策を立て、これを当事者達に周知徹底することが重要である。

ヒトは誰でも間違える。

私も踏切を充分に渡り切れずに遮断棒が車体後部に当たったことがあるが、この時は電車が来る前に脱出して難を逃れた。

しかし、これはたまたま結果的に何も起きなかっただけであって、過失という点においては充分重大であると考えるべきであり。もし踏切を渡り切れずに車体が電車と接触したりすれば人身事故にも発展しかねない事象であった。

たまたま偶発的に重大な結果になったかどうかだけで、罰の程度が変わってしまう刑法懲罰というのは、事象の分析や予防といったことに全然言及しておらず、たまたま発生した被害者や遺族の気分的満足を与えているに過ぎないのである。

結果の小さな失敗であっても、重大な結果に至る可能性がある事象であれば、これは共有して再発防止策として生かす必要性がある。しかし、刑法裁判制度ではこうしたことは一切行われることがない。

誰かが死ななければ大騒ぎしないのが刑法裁判制度であり、その陰に潜む無数の小さな事象を放置している制度でもあるのだ。

こうした重大事象しか扱わない点においてはマスコミも同様で、その場限りの視聴率稼ぎや大衆迎合にしかなっておらず、マスコミとしての社会的責任を放棄しているとも言える。



アクセルとブレーキの踏み間違いというのも経験がある。若い時だったので瞬時に踏み間違いに気づき踏み直すことが出来たが、加齢によって耳が遠くなったり、身体機能が低下してくればそうはいかない可能性は誰にでも有り得る。

重大事故に至った踏み間違い事故の事例を見ると、アクセルを踏み続けた場合がほとんどである。これを見ると、自分が踏んでいるアクセルペダルがブレーキペダルであるという思い込みが発生していると考えるべきであろう。

これは、いわば、感覚的無意識に操作をしているから起きる現象であり。加齢だけではなく「馴れ」が原因であることが大きいのではなかろうか。そのため結果的に運転歴の長い高齢者で起きやすい事故になっているとも考えられる。

「いままで、ずっと大丈夫だった。」という過去の経験則だけを根拠に、「自分だけは絶対に大丈夫だ。」という過信は生まれる。

これもまた一種の「神話」であろう。

「自分だけは絶対に大丈夫だ。」という過信は、振り込め詐欺師のカモでしかない。それこそが大きな失敗を引き起こす頭の悪さの大きな要因なのである。

「神話」の類というのは、気分的満足安心を与えるため、合理的判断をすっ飛ばしてしまう習性というものも、ヒトという種の生物にはある。

厳罰化さえしておけば犯罪や事故の抑止になるという妄想も、一種の「神話」であろう。だが、これは実質的には効果が薄く、危険に対する意識の低い相手程効果が薄い。

こうした危険に対する意識の低さというものが、どうして生ずるのか。そこで出てくるのが意図的犯罪者に見られる「自律的な社会的責任判断の欠落」である。

責任意識というものもスペクトルでありグラデーションである。また、個人差によっては意識を持つ事柄にムラがあるということもあるだろう。 自動車の運転には慎重でも、火のついたタバコには無神経だったりすることもあるかも知れない。

だからこそ、誰しもが無神経に陥っている事柄というものが存在するかも知れないという自覚を持つべきであり。その自覚がないからこそ自律的な社会的責任を失うことにも陥るのである。



ここで勘違いして欲しくないのは、社会的責任の自覚がない相手を糾弾排除してさえおけば全てが解決するという、短絡的発想である。

社会的責任の自覚がない原因というのは、主に成育環境に依存する傾向がある。 それなら当人だけの責任とは言えないので、社会全体の問題として扱う必要性がある。

虐待をされて育った人が、虐待を自分の子供に連鎖したり。テロリストの勧誘に加担してしまったりする原因となるケースというのは非常に多い。

自律的な社会的責任まで意識が働かず、その場限りの気分感情の赴くままに行動が無意識条件反射的に決定してしまうからこそ、破滅にまで暴走することに至ってしまうのである。

自律というのは自発の中にあるものであって、「罰が恐いから法律を守る。」という短絡的発想からは出てこない。 実際に原発事故では法律違反はなく、法律そのものの整備が追いつかなかった故の事故なのであり。ゆえに国会原発事故調査委員会としては、「個人が自律的な社会的責任を負うことが最も重要である。」という結論に至ったのである。

法律さえ守っておけばブラック企業だろうが、自殺者が出ようが構わないという発想に人間としての「心」はない。

倫理というのは人間としての「心」に直結する話であり。人間としての「心」というのは、単なるその場限りの気分感情に左右されるような動物的行動習性では説明することは構造原理的に不可能な、理性を伴った行動判断が必要不可欠なものである。

ところが、理性というと文科系大衆の多くは短絡的に「利己的利益追求の側面がある。」などという大嘘を鵜呑みにするなど。都合の悪いことは全て理性が悪いことにしておいて、あたかも動物的な先天的本能習性こそが自動的に「心」を発生させてくれるという進化生物学上の「神話」を鵜呑みにして満足し、何も考えなくなる。

その結果が「松沢哲郎に文化功労賞」などというトンチンカンな評価を下すことになるのである。



世の中では、それ単体ではさして害のない間違いがたくさん積み重なることによって、結果的に大きな間違いに誰も気付かないという状態に陥っているのである。

ヒトという種の生物は、特定の重大結果だけを多数派で糾弾してさえおけば全てが解決したかのように錯覚するという先天的習性があるため。個々の小さな間違いを丹念に修正するという地道な積み重ねを一切したがらない。

その結果、大きな根源的間違いに誰も気付かず放置してしまい。ISILやオウム真理教のような集団暴走が発生してから大騒ぎするだけで何の進歩もないのである。

このように大多数のヒトの無意識こそが、重大事象を引き起こす原因を見逃す要因となっているのであり。こうした無意識性というのは、犯罪者の無責任さ(無意識さ)と程度の差こそあれ構造的には同じものなのである。

自分達の無意識さや無責任さをほったらかしにしておいて、結果的に重大になった事柄だけ大騒ぎするという大衆迎合的発想こそが、事物に対する精密検証を失わせる原因となるのである。



精密検証性が欠けているというのは、要するに雑なのよね。





Ende;
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