プレジデントオンライン
あくまで刑罰は犯した罪によって法律で定められたものが適用されるだけだ。「メディアで注目され、世間のより多くの怒りを集めた事件なのだから、厳罰に処するべき」という論理は、法治国家ではなく人治主義のそれに接近していく。
「悪」を晒しものにし、これに私刑を加えることは、しばしば「正義の暴走」として批判される。ただし「正義の暴走」それ自体は「正義感に燃える人びとがこれを行使したくてうずうずしている」というわけではなく、「自分がただしい側にいることを相対的に保障してくれる存在で安心したい」と考える、人びとの不安の裏返しでもあるだろう。
*:「人治主義」とは - 有能な人物の裁量や裁断を中心に治める考え方。法規範などの社会規範を尊重しない統治。
著者の御田寺 圭(みたてら・けい)自身が述べているように
「刑罰は犯した罪によって法律で定められたものが適用されるだけ」なのである
これはつまり刑法罰というのは機械的な手続きを行っているに過ぎず それが社会安全性にとって有効かどうかなど どうでも良い話なのである
法治にせよ人治にせよ「刑罰で解決」という短絡性が根本的に間違っているのであって 機械的手続きを目的にするのではなく 社会安全性を高めるために様々なアプローチを行う柔軟な対応を行うにおいて刑罰というものは害にしかならないのである
■自分は「ただしい側の人間だ」と思いたい
だれもが無遠慮に罵倒し、石を投げてもよい存在が世間にはいつでも求められている。なぜなら「ただしくない」存在を規定し、これを糾弾・非難することによって、自分の「ただしさ」が保証されるからだ。自分のただしさを確認してくれる証人は多ければ多いほどよい。世間のだれもが糾弾する「悪」を、みんなで一斉に制裁することによって、その場に参加する全員が「自分はちゃんとして生きている側なのだ」という肯定や安心を手にすることができる。
このくだりについては決して合理的に「正しい」ことが証明されているのではなく あくまで悪者を多数で糾弾することによって自分を観念的に正当化しているに過ぎず あくまで「思いたい」という感覚(先天的行動バイアス)に無意識に流されているだけなのである
本当の意味で「正しい」とは何かといえば 法治であろうと人治であろうと「罰で解決」することではなく 論理的分析による原因究明と それに付随する再発防止対策を構築することである
法治であろうと所詮は裁判官の心情に依存している以上 人治と構造的に違いなどなく 一応形式的には
「刑罰は犯した罪によって法律で定められたものが適用されるだけ」ということになっているのだが 実際には冤罪再審請求が棄却されることもあり 何ら「法律で定められたものが適用」されているとは言い難いのである
公的資金を投入して何を目的とするのかと言えば 何よりも社会安全性を高めることが最も公益的に重要なのであって 役所の機械的法手続きだけでは到底意味を為さない
最も根源的な「罰で解決」という短絡的で合理性のない「単なる手続き」だけを漫然と因習のように続けるというのは ヒトという種の生物の先天的欠陥(錯覚)に起因する一種の洗脳である
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