遺伝的進化には目的がない以上 先天的形質と同様に先天的本能習性による行動バイアスもまた目的はない
本能習性という欲望は 先天的に決定しているものであって これは選択不可能なのである
ヒトが選択可能性を持っているのは 先天的本能習性(主観)とは別に 客観的論理検証によって より合理性のある目的行動を選択することが可能なのである
可能ではあるが それはあくまで先天的なものではないため 後天的に獲得しなければ発揮することは困難である
ヒトという種の生物の先天的な本能習性には様々なものがあり 極めて利己的で身勝手な欲望も存在していれば 自分が属する集団組織への忠誠心や 権威に対する服従盲目性 小さな子供に対する優しさもれば 逆に幼児性愛もある
様々な先天的欲望の中から 統合的に論理客観的な「目的」行動選択をすれば これは自ずから社会安全性や倫理を求めるようになるのである
他人にだけ人間性や倫理を求めていても社会安全性にはつながらないのは当然の話であるから 自らが率先して 主体的 自律的に社会安全性を高める行動を選択することでしか 自己が社会の中で存在し続ける必要性もないのである
次世代に社会をつなぐための行動選択をしないのであれば それは自己が今現在存在し続ける理由もなくなるのである
「ヒトがヒトを殺してはいけない理由」がないのと同時に 「ヒトがヒトを殺す世界で生き続ける理由」もない
ヒトは理由のために生きているわけではなく そもそもヒトは自らの意思で産まれてきたわけではなく
「これからも生き続ける理由」は自ら見つけ出すものであって ルーツだの環境だの神だのといった自己以外の何物かによって先天的に運命付けられているわけではない
既に存在しているだけの自己は それだけでは本質的な自己の論証にはならず 自発的に論理検証し目的行動選択をすることによってはじめて本質的な「意思」や「意識」だと言うことができるのである
○「衝撃」という陶酔
イマヌエル:カントは「どうせ全部主観じゃねぇか」と言われて衝撃を受けたという
*:「因果法則も習慣的印象に過ぎない」デイビッド:ヒューム
論理客観的には 認識可能な範囲の中から論理客観的根拠に基づき それが錯覚なのか それとも真実なのかを区別することは一定範囲では可能なのであって 論理的に絶対認識不可能なものが存在する可能性があるからと言って論理客観的事実を区別することまでが全て不可能であるわけではない
ところが カントは「どうせ全部主観だ」という言葉に衝撃を受け 論理客観的根拠を超越した謎の悟性だの純粋統覚だの 謎の叡智界まで持ち出して論理客観性や科学的検証を批判したのである
カントのファンタジーというのは「理性を超越」したのではなく 単に「理性を逸脱」しただけである
観念としての「衝撃」とは 主観である
感覚的に「衝撃を受けた」と述べているに過ぎず そんなものは振り込め詐欺の電話の内容に「衝撃を受け」て大金を犯罪者に振り込むのと同じでことである
セーレン:キェルケゴールやジャン:ポール:サルトルを読んでも「衝撃」を「感じる」ことはない
絶望や不条理を「感じて」も それは「衝撃」にはならず むしろ感覚的には嫌な気分にしかなることはなく 澤口俊之は実存主義からは主観的な満足が得られなかったために 哲学を放棄したのである
澤口俊之は論理客観的真理というものが主観的満足感を得られるものだと勝手に勘違いしているのである
澤口俊之は他人の論文を大量にひけらかすことによって 知識の「量」ばかりを自慢して他人からの評価を得ることだけで満足し 脳科学者としての論理検証性すら発揮することが出来ない
そもそも現状の生物学(脳科学は生物学に分類される)というのは 遺伝的進化や生存という結果を あたかも「合理的に選択した目的である」という著しい誤謬を誰も認識していないバカの集団であり バカの集団をハシゴして何も気づかないというバカの典型である
本当の実存主義というのは感覚的な衝撃だの満足だのとは無関係である
それに対してフリードリヒ:ニーチェだのイマヌエル:カントを鵜呑みにするバカというのは その内容に「衝撃を受け」ることによって 自発的な論理客観的検証性を喪失し 何の疑いも持たないバカに陥るのである
マイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだのリチャード:ドーキンスだの養老孟司を読んで鵜呑みにしているバカ共というのは その内容に主観的な「衝撃」を受けることによって論理客観的検証性を喪失しバカみたい(「みたい」というより「バカ」そのものなんだが)に頭ごなしに鵜呑みにするようになるのである
オウム真理教の信者や幹部達も 教祖の説法に「衝撃を受ける」ことによって盲目性を発揮し 何も考えずに教祖の妄想に基づいた命令に唯々諾々と従い暴走破綻に陥ったのである
自己の主観に過ぎぬ観念的な「衝撃」というものを あたかも「先天的に組み込まれた真理を見抜く能力」か何かの働きだと妄想しているからこそ 論理客観的根拠のない実証不能の観念を信じ込んでしまうようになるのである
これこそがヒトという種の生物の先天的な「人間としての欠陥」である
ヒトの多くは「自分には先天的に確実に真実を見抜く能力が備わっているはずだ」という観念に溺れることで満足感を得ることができるという人間としての先天的欠陥が存在しているのである
自粛警察にせよ ヘイトスピーチにせよ 相模原障害者施設虐殺にせよ ナチズムや優生学にせよ 彼らは何らかのキッカケによって「衝撃を受け」 その主観こそが絶対的なものであると錯覚することによって 他人に多大な迷惑をかけるようになるのである
誰が 何に「衝撃を受ける」のかなど 知るよしもない
そんなものは個人的な主観の世界に過ぎず 他人には理解のしようがない勝手な妄想錯覚に過ぎないからである
論理客観的根拠のない妄想ファンタジーが 多くのヒトから人気を得ているとしても それが論理客観的に真実であることの論証には一切ならない
科学は多数決ではないからである
科学を司る哲学も同様である
論理客観的な根拠というものは 安全性に直結するものであり 安全性を優先しない倫理や人間性など有り得ないのである
倫理や人間性について論理客観的に検証出来ない話は哲学ではない
ところが多くのヒトは論理客観的根拠のない話を人間性や倫理の話だと錯覚し 誰も疑わず 検証せず 盲目的に鵜呑みにして満足するだけである
目先の満足ばかりを追求する煩悩まみれのバカは無責任なのだが その自覚すら誰にもない それは誰も論理客観的検証をしていないからである
「考えない」からバカなのであって
バカとは「考えない」ヒトのことを指すのである
主観的にどんなに強く「思って」も 「衝撃を受けて」も むしろそうした主観によってこそ論理客観的検証能力を失い 同時に人間としての倫理も喪失するのである
Ende;