因果律に対しての道徳律をカントは提唱したが 天体の動きと道徳とは何の関連性もないものであって 天体と倫理を結びつけて満足しているのはファンタジー以外の何物でもない
エマヌエル:カントの時代には天体の動きは秩序立って正確に動いているものだと思われていたが 実際には太陽ですら2つの大質量惑星に引っ張られてフラフラと不規則に振り回されているのであり また決して永久不変のものでもなく 時には巨大隕石の衝突による大惨事も招くこともある
天体もまた因果律に支配されているのであって カントが「叡智界」などという実証不能の謎のファンタジーで陶酔して論理検証性を逸脱したことも ヒトという種の生物の先天的本能習性に則った因果律に過ぎないのである
夜空の星々に対して主観的に「美しい」と感じたとしても それは主観的感覚を述べているに過ぎず 論理客観的な安全性の論証にも 倫理や人間性の論証にも全くならない
社会安全性を求めているのは人間であって 神の有無とは無関係である
神の有無に関わらず 自律的に社会的責任判断選択を行うのは ヒトが結果的に獲得した現時点における選択可能性の中にある
「悪いこと」と一言で言っても サバイヴァーズギルトのような観念的罪悪感もあれば 気分的には何の罪悪感も持たない無責任な行動もある
カントの言う道徳律というのは観念に従うことを意味するのであって 主観的に罪悪感が伴わなければ自律的に論理検証をしなくなり 平気で無責任な行動でも採ることが可能な危険なものである
因果関係を知ることによって 論理的に検証して目的行動を選択することが 「人間」にはできる
「人間」にはできるが 「ヒト」でありさえすれば万人ができるというようなものではない
だからこそ犯罪だの紛争だの暴動だの非人道的な独裁が起きるのである
本当に大切なものというのは 個体の生存価に適するだけの合理性ではなく 自己が存在し続けるに価する社会への選択であり これが人間性や倫理の本質である
因果関係を知ることが可能なのは 他人から教えられるだけではなく 自ら主体的に「考え」ることが可能だからであり 教えられたことを盲目的に鵜呑みにして知識の量だけひけらかして満足しても 「考え」には全くならない
「考え」とは 主体的で自律的なものであり 多数他人の同意や同調は必要ないが 道徳律という観念では多数派同調や権威への盲目性が必ずしも避けられない
カントの道徳律とは 他者との関わり合いに基づいた論理的根拠のない観念(思い込み)であって 自律的な論理客観的な「考え」とは関係がないばかりか 相反するものですらある
何せヒトの大半はマイケル:サンデルのトロッコ問題には倫理が含まれていないことにすら全く気づかないというバカなので エマヌエル:カントの観念に対しても何の疑問も持たなくても何の不思議もない
バカというのはありきたりなどこにでもいる平凡なものである
ましてやマルクス:ガブリエルの「世界は存在しない」だの「時間は無限に分割すればなくなる」だのといった糞の役にも立たない勝手な決めつけを「新時代の哲学」などと形容しているのは 完全に脳が壊れている
脳が壊れている奴が語る倫理に意味があるわきゃねぇだろ
フリードリヒ:ニーチェなど 語るにも足りない
バカというのは主観的満足さえしておけば全て解決だと勘違いし 論理客観的には社会的に無責任であったとしても その自覚すら持つことはない
梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして大衆から人気を集めても それは人間性や倫理に適する論理的根拠には一切ならない
大衆人気によって梅沢がどんなに金儲けが出来たとしても 同じことである
本当に社会安全性を追求するのであれば 「刑罰で解決」とみなすことなく 徹底した論理客観的な原因究明と再発防止策の策定が優先されなければならない
それが気分的に満足感が得られないとしても 不条理であろうと絶望であろうと 社会安全性を優先しない倫理など存在しないのである
ヒトは何かを盲目的に信奉しておいた方が気分的に満足安心することができるが これは同時に自律的に物事を論理客観的に検証することへの恐怖心や忌避も作り出す
見たくないものは見ない方が気分的には安心なのである
だが 自分自身で物事を「考える」というのは自らの内部に存在する愚かさとも向き合わなければならず 気分的に嫌なため ヒトの多くはエタノールやニコチンや勝手な決めつけで脳を麻痺させることに異常執着するばかりである
自らの先天的な欠陥に基づく無意識な本能習性という因果法則に流されることなく 自律的に「どうあるべきか」を考えてこその人間性や倫理であって 哲学というのは個人が主観的に満足するためのものではない
安全性というものは合理的根拠に基づいて確立されるものであって 主観的安心満足で何も考えなくなるからこそ安全性が追求されなくなるのである
それとも何すか 医薬品の安全性承認には合理的根拠は必要ないとでも言うでしょうかね
警察の科学捜査は必要ないとでも言うんでしょうかね
本当の人間性というのは 安全性を優先する理性にしか存在しないんですよ 大半のヒトはその選択可能性を放棄しておいた方が気分的には安心で満足なんでしょうよ
そうやって回避可能性のある危険性をほったらかしておいて 自分が「人災」に巻き込まれてから大騒ぎするだけなら それは「バカ」としか言いようがないんですよ
書いててバカらしくなってきたので今日は終わりだ
バカ相手に何言ってもどうせ理解できないだろうからな
絶望と不条理しか「感じ」ないが そんなものは個人の主観なので どうでも良い話である
社会安全性にとって 個人の主観など どうでも良い話である
主観に意味はない
そもそも私がいちいち説明せんでも 理解可能な内容であるならば各々が自分で考えて思いつけば良い話であって 何でもかんでも「教えてもらえないとわからない」奴なんぞクソの役にも立たん
そんなバカなら主観的には「死ね」としか「思わない」がな
Ende;
エマヌエル:カントの時代には天体の動きは秩序立って正確に動いているものだと思われていたが 実際には太陽ですら2つの大質量惑星に引っ張られてフラフラと不規則に振り回されているのであり また決して永久不変のものでもなく 時には巨大隕石の衝突による大惨事も招くこともある
天体もまた因果律に支配されているのであって カントが「叡智界」などという実証不能の謎のファンタジーで陶酔して論理検証性を逸脱したことも ヒトという種の生物の先天的本能習性に則った因果律に過ぎないのである
夜空の星々に対して主観的に「美しい」と感じたとしても それは主観的感覚を述べているに過ぎず 論理客観的な安全性の論証にも 倫理や人間性の論証にも全くならない
社会安全性を求めているのは人間であって 神の有無とは無関係である
神の有無に関わらず 自律的に社会的責任判断選択を行うのは ヒトが結果的に獲得した現時点における選択可能性の中にある
「悪いこと」と一言で言っても サバイヴァーズギルトのような観念的罪悪感もあれば 気分的には何の罪悪感も持たない無責任な行動もある
カントの言う道徳律というのは観念に従うことを意味するのであって 主観的に罪悪感が伴わなければ自律的に論理検証をしなくなり 平気で無責任な行動でも採ることが可能な危険なものである
因果関係を知ることによって 論理的に検証して目的行動を選択することが 「人間」にはできる
「人間」にはできるが 「ヒト」でありさえすれば万人ができるというようなものではない
だからこそ犯罪だの紛争だの暴動だの非人道的な独裁が起きるのである
本当に大切なものというのは 個体の生存価に適するだけの合理性ではなく 自己が存在し続けるに価する社会への選択であり これが人間性や倫理の本質である
因果関係を知ることが可能なのは 他人から教えられるだけではなく 自ら主体的に「考え」ることが可能だからであり 教えられたことを盲目的に鵜呑みにして知識の量だけひけらかして満足しても 「考え」には全くならない
「考え」とは 主体的で自律的なものであり 多数他人の同意や同調は必要ないが 道徳律という観念では多数派同調や権威への盲目性が必ずしも避けられない
カントの道徳律とは 他者との関わり合いに基づいた論理的根拠のない観念(思い込み)であって 自律的な論理客観的な「考え」とは関係がないばかりか 相反するものですらある
何せヒトの大半はマイケル:サンデルのトロッコ問題には倫理が含まれていないことにすら全く気づかないというバカなので エマヌエル:カントの観念に対しても何の疑問も持たなくても何の不思議もない
バカというのはありきたりなどこにでもいる平凡なものである
ましてやマルクス:ガブリエルの「世界は存在しない」だの「時間は無限に分割すればなくなる」だのといった糞の役にも立たない勝手な決めつけを「新時代の哲学」などと形容しているのは 完全に脳が壊れている
脳が壊れている奴が語る倫理に意味があるわきゃねぇだろ
フリードリヒ:ニーチェなど 語るにも足りない
バカというのは主観的満足さえしておけば全て解決だと勘違いし 論理客観的には社会的に無責任であったとしても その自覚すら持つことはない
梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして大衆から人気を集めても それは人間性や倫理に適する論理的根拠には一切ならない
大衆人気によって梅沢がどんなに金儲けが出来たとしても 同じことである
本当に社会安全性を追求するのであれば 「刑罰で解決」とみなすことなく 徹底した論理客観的な原因究明と再発防止策の策定が優先されなければならない
それが気分的に満足感が得られないとしても 不条理であろうと絶望であろうと 社会安全性を優先しない倫理など存在しないのである
ヒトは何かを盲目的に信奉しておいた方が気分的に満足安心することができるが これは同時に自律的に物事を論理客観的に検証することへの恐怖心や忌避も作り出す
見たくないものは見ない方が気分的には安心なのである
だが 自分自身で物事を「考える」というのは自らの内部に存在する愚かさとも向き合わなければならず 気分的に嫌なため ヒトの多くはエタノールやニコチンや勝手な決めつけで脳を麻痺させることに異常執着するばかりである
自らの先天的な欠陥に基づく無意識な本能習性という因果法則に流されることなく 自律的に「どうあるべきか」を考えてこその人間性や倫理であって 哲学というのは個人が主観的に満足するためのものではない
安全性というものは合理的根拠に基づいて確立されるものであって 主観的安心満足で何も考えなくなるからこそ安全性が追求されなくなるのである
それとも何すか 医薬品の安全性承認には合理的根拠は必要ないとでも言うでしょうかね
警察の科学捜査は必要ないとでも言うんでしょうかね
本当の人間性というのは 安全性を優先する理性にしか存在しないんですよ 大半のヒトはその選択可能性を放棄しておいた方が気分的には安心で満足なんでしょうよ
そうやって回避可能性のある危険性をほったらかしておいて 自分が「人災」に巻き込まれてから大騒ぎするだけなら それは「バカ」としか言いようがないんですよ
書いててバカらしくなってきたので今日は終わりだ
バカ相手に何言ってもどうせ理解できないだろうからな
絶望と不条理しか「感じ」ないが そんなものは個人の主観なので どうでも良い話である
社会安全性にとって 個人の主観など どうでも良い話である
主観に意味はない
そもそも私がいちいち説明せんでも 理解可能な内容であるならば各々が自分で考えて思いつけば良い話であって 何でもかんでも「教えてもらえないとわからない」奴なんぞクソの役にも立たん
そんなバカなら主観的には「死ね」としか「思わない」がな
Ende;