道徳教育における「可哀相だからイジメをしない」という話は、「可哀相だと思わなければイジメをする。」という結論にしかならない
気分的に可哀相かどうかに関わらず、何をすべきで、何をすべきでないのかを自律的に選択出来る理性を養うことが重要なのだが、なにより最も重要なのは論理検証の難解さではなくて、「自律」の方が基盤となるのである
感情に左右されずに自律的に感情に逆らい抗い合理性のある行動選択を行うことが人間性なのであって。気分感情的に「可哀相だからイジメはやめましょう」などという話で子供を誘導しようなどという現在の道徳教育の方針は根本的に大間違いである
先天的に組み込まれた行動習性という無意識に流されることなく、自律的に社会的責任判断選択を行うことが人間性の本質であって。先天的にマゾヒズムが強かろうが、ロリコンが強かろうが、それが人間としての価値を決めるわけではない
猛暑で暑くてたまらないからといって、アイスクリームの冷蔵庫に寝転がりたくなる心情自体は人畜無害なものであって。その気分感情が行動に直結しているから、ただのバカなのである
ロリコン癖が強くて、美形の女子小学生を見るとヤリたくて仕方ない衝動に駆られても。その衝動自体は別に人畜無害で、夜のオカズにしている分には何の社会的問題にはならないのである
たとえ女性の大半から「気持ち悪い」と思われようが、それは女性達の主観的感想であって、社会的に人畜無害であることが覆えるわけではないし、人間性自体とも無関係である
自分の気分感情に流されることなく、自律的に社会的責任判断選択を行うという現時点における選択可能性にこそ、人間性が宿っているのであって。美形の女子小学生を見て顔が赤くなっちゃっても、そんなものは「恥ずかしい」だけで社会的には何の害も及ぼすことはないのである
そもそも高校生が小学生見て性的興奮をするのはロリコンではなく、そのくらいの年齢差など成人すれば何の問題にもならない
むしろ、気分的に怖いからといって東電社内で原発の津波に対する脆弱性を放置する行動の方が問題だと言っているにも関わらず。気分感情論で物事を選択させようとする方が圧倒的に無責任なのである
道徳の教科書に載っている話を読んで、その場限りに「可哀相だからイジメをしたくない」という気分になっただけでは人間性を獲得したことにはならず。たとえ「こいつムカつくわー」と思ったとしてもイジメは行わないという自制心の方が重要なのである
「たかし君は涙が出ました。」だから何?
「俺は何とも思わんのだが」で終わる話に意味なんかなかろうて
世の中、春名風花ちゃんの親御さんみたいに子供の自主性や主体的意欲に全面的に協力してくれる人ばっかじゃないから、親に感謝出来る子供しかいないわけでもないので。同じ話で感動しないから人間として出来損ないの証明にはならないので、道徳の教科書というのは糞の役にも立たない文科系大衆観念上の「お花畑」でしかない
どんなに強く「思って」も、合理性のない話は社会的に役に立たないのである
「思い」は「考え」ではないからだ
自律的に社会的責任判断が出来る人間性を獲得するために必要なものとは、自発的に物事を検証できる主体的意欲や思考であり。これは子供に限らずヒト全般が本来持っているはずの特性なのだが、文科系大衆観念に基づいた多数派迎合性や同調圧力こそが自発的思考を抑圧し、多数派や権威に従順なだけの無責任なただのバカを大量生産してしまうことになるのである
「空気を読んで、イジメられないようにしとけよ。」などという世渡り術を「学習」させても人間性は養われることはなく。ただ教師が面倒臭い問題に対処しなくて済むだけの「問題の先送り」とか「はぐらかし」にしかならないのである
正確に明文化出来ない世渡り術を、一体どうやって「学べ」ば良いというのであろうか
あまりにバカげていて語るにも足らない
Ende;
気分的に可哀相かどうかに関わらず、何をすべきで、何をすべきでないのかを自律的に選択出来る理性を養うことが重要なのだが、なにより最も重要なのは論理検証の難解さではなくて、「自律」の方が基盤となるのである
感情に左右されずに自律的に感情に逆らい抗い合理性のある行動選択を行うことが人間性なのであって。気分感情的に「可哀相だからイジメはやめましょう」などという話で子供を誘導しようなどという現在の道徳教育の方針は根本的に大間違いである
先天的に組み込まれた行動習性という無意識に流されることなく、自律的に社会的責任判断選択を行うことが人間性の本質であって。先天的にマゾヒズムが強かろうが、ロリコンが強かろうが、それが人間としての価値を決めるわけではない
猛暑で暑くてたまらないからといって、アイスクリームの冷蔵庫に寝転がりたくなる心情自体は人畜無害なものであって。その気分感情が行動に直結しているから、ただのバカなのである
ロリコン癖が強くて、美形の女子小学生を見るとヤリたくて仕方ない衝動に駆られても。その衝動自体は別に人畜無害で、夜のオカズにしている分には何の社会的問題にはならないのである
たとえ女性の大半から「気持ち悪い」と思われようが、それは女性達の主観的感想であって、社会的に人畜無害であることが覆えるわけではないし、人間性自体とも無関係である
自分の気分感情に流されることなく、自律的に社会的責任判断選択を行うという現時点における選択可能性にこそ、人間性が宿っているのであって。美形の女子小学生を見て顔が赤くなっちゃっても、そんなものは「恥ずかしい」だけで社会的には何の害も及ぼすことはないのである
そもそも高校生が小学生見て性的興奮をするのはロリコンではなく、そのくらいの年齢差など成人すれば何の問題にもならない
むしろ、気分的に怖いからといって東電社内で原発の津波に対する脆弱性を放置する行動の方が問題だと言っているにも関わらず。気分感情論で物事を選択させようとする方が圧倒的に無責任なのである
道徳の教科書に載っている話を読んで、その場限りに「可哀相だからイジメをしたくない」という気分になっただけでは人間性を獲得したことにはならず。たとえ「こいつムカつくわー」と思ったとしてもイジメは行わないという自制心の方が重要なのである
「たかし君は涙が出ました。」だから何?
「俺は何とも思わんのだが」で終わる話に意味なんかなかろうて
世の中、春名風花ちゃんの親御さんみたいに子供の自主性や主体的意欲に全面的に協力してくれる人ばっかじゃないから、親に感謝出来る子供しかいないわけでもないので。同じ話で感動しないから人間として出来損ないの証明にはならないので、道徳の教科書というのは糞の役にも立たない文科系大衆観念上の「お花畑」でしかない
どんなに強く「思って」も、合理性のない話は社会的に役に立たないのである
「思い」は「考え」ではないからだ
自律的に社会的責任判断が出来る人間性を獲得するために必要なものとは、自発的に物事を検証できる主体的意欲や思考であり。これは子供に限らずヒト全般が本来持っているはずの特性なのだが、文科系大衆観念に基づいた多数派迎合性や同調圧力こそが自発的思考を抑圧し、多数派や権威に従順なだけの無責任なただのバカを大量生産してしまうことになるのである
「空気を読んで、イジメられないようにしとけよ。」などという世渡り術を「学習」させても人間性は養われることはなく。ただ教師が面倒臭い問題に対処しなくて済むだけの「問題の先送り」とか「はぐらかし」にしかならないのである
正確に明文化出来ない世渡り術を、一体どうやって「学べ」ば良いというのであろうか
あまりにバカげていて語るにも足らない
Ende;