書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○抑止力幻想。

2015年07月02日 14時36分04秒 | 意識論関連
犯罪者に対して罰を与えるというのは、国家権力という威圧によって犯罪者の行動を抑圧するためのものである。

しかし、懲役刑というものが、実際には刑務所の中だけ従順に従うだけであって、強盗殺人犯が25年の刑期を終えて出所後数週間で殺人を犯すというケースが時折あるように。刑罰というのは犯罪者の更正にはならない。

国家権力などの権威性を用いた行動抑圧というものは、「怖いからやらない。」といった感情と行動が直結している短絡的行動原理に基づいたものであり。決して個人が自律的に社会的責任判断力を持つためのものではない。

飲酒運転による重大事故などが発生する度に厳罰化ばかりが推進されてゆくが、飲酒運転をする者の多くは飲酒運転による重大事故に対する関心そのものがなく。どんなに厳罰化を推し進めても、自律的に社会的責任判断をしようともしない相手に対しては何の効力も発揮しないのである。

実際に無謀運転による被害者や加害当事者達であれば、事故に対しての関心は働くのであろうが。そもそも自律的に社会的責任判断など最初から何の興味もない者に対して、厳罰化もすったくれも「馬の耳に念仏。」である。

警察組織も実際に被害者が出なければ、書類送検による「業績」にもつながらないために。潜在的危険性はむしろ放置しておいた方が得なのである。

司法による刑罰というものも、実際には犯罪者の更正にはつながらず、再犯率は40%超に達しており。社会的にはほとんど意味を為していないのである。

強盗殺人で25年の刑期を終え、出所後数週間で殺人を犯した場合。懲役25年という判決を下した裁判官には何の責任もないのであろうか。 なぜ、そこに誰も気がつかない。

本当に社会防衛において重要なのは、犯した罪に対する刑罰の重さの程度問題の妥当性ではなく。犯罪者が社会的責任を自律的に持つようにならなければ自由に行動させてはいけないはずである。それは罰とは無関係な教育や治療の問題であり、犯罪者の意識の低さ、論理検証性の欠如を治療することの方が重要なのである。

犯罪者の論理検証性を治療するためには、先ずは犯罪者ではない人達においても論理検証性を持たなくては話にならない。

にも関わらず、厳罰化という感情論だけに依存する非合理な主張ばかりを取り上げていれば、具体性ある論理的な犯罪の原因究明にも、もちろん再発防止策にもつながらないのは当たり前の話である。

実際に犯罪被害に遭った当事者にとっては、どうしても感情が優先してしまうがゆえに、逆に被害者予備軍とも言える当事者以外が合理的対策を主張すべきなのである。

飲酒運転などの無責任な行動を採る者達が、なぜ無責任で自律的な社会的責任を負おうとしないのか。その原因を究明しないことには未だ顕在化していない犯罪者予備軍達の意識喚起には一切つながらず、社会防衛上何の役にも立たないのである。

子供の多く、というよりヒトの多くは「イジメがなぜ起きるのか。」も、「なぜイジメてしまうのか。」すら原因を認識していない。 その場限りの気分感情に基づいた先天的「感受性」がその原因であるにも関わらず、ヒトの多くは感受性こそが人間性であると主張し、その場限りに気分的に「優しい気持ち」にさえ誘導しておけば全ては解決するものであるという身勝手な妄想に基づいた対策ばかりに執着してしまう。

その場限りに他者から誘導された気分感情というものは、一時的には効果を発揮するであろうが。そんなものは刑務所の中で刑務官に従順に服従していた服役者が出所後にどうなるかを自分ではどうにも制御出来ないのと同じで、子供達だけなどのイジメが起きている状況においては自律的には何ら抑制する方向には行動を起こさないのである。

「怖いからやるやらない。」といった、他人から与えられる懲罰でしか行動が抑制されない時点で、そこに自律はない。それが最大の問題点なのである。

当人が他人からの懲罰的抑圧でしか行動抑制出来ない者であるからこそ、他人に対しても懲罰的抑圧でしか行動抑制が不可能であるという身勝手な観念を振り回すのであって。懲罰的抑圧に依存している時点で既に犯罪者予備軍に属しているのであるが、当人にはその認識は一切ない。

抑圧は誘導である。 従って他律であって自律にはならない。

自律的に社会の安全性や持続可能性への配慮が働くという、自律した人間性が形成されていないからこそ無責任な行動をするのであって。それは厳罰化への異常執着して社会の安全性を蔑ろにしている無責任さも同じことなのである。



犯罪者に対して厳罰化が無効なのと同様。他国に対する武力威圧的「抑止力」も無効である。

たとえば中華人民共和国政府が兵力を増強すれば、日本のみならず東南アジア諸国にとっても脅威や不信感を抱かせるのと同様。自衛隊の装備増強や武力行使権拡大は他国にとって脅威や不信感ばかりを与えるだけなのである。

武力威圧を用いて相手を威圧しておけば、気分的にはその場限りの安心や満足感を得ることが可能だが。その安心や満足感は犯罪者に対して厳罰を与えておくことと何の違いもなく、具体的には原因究明にも再発防止にもつながらない。

シオニストとパレスチナの武力衝突を見てもわかるように、武力威圧は問題をこじれさせるだけで何の解決にもつながらない。

「武力威圧をすれば、相手が話を聞いてくれる。」というのは、むしろ逆で、武力威圧というのは相手に不信感を助長してしまい、話がこじれる原因なのである。

そもそも、ヘイトスピーチをしているようなヒト達が、なぜ話を聞いてくれないのか。 それは彼らの行動が感情気分と直結していて論理的話を聞く耳を最初から持たないからである。

行動が感情気分と直結している相手に対し、武力威圧による抑止を行っても、反って反発感情を煽るばかりで冷静に話を出来るようにはならない。

武力による抑止力などというものに依存している時点で、論理的な話が通じていない。 その非合理的感情論こそが、あらゆる紛争の根源的原因なのである。

実際に武力衝突が発生してしまえば、これは武力によって鎮圧する他手段がないが。これは「解決」策ではなく、あくまで現場での「対処」にしかならない。

武力や暴力による威圧的抑圧というのは、その場限りの対処としての効果は存在するものの、最終的にはあくまで個人が自律的に社会的責任判断力を持ってもらわないことには「解決」にはならない。

これは国家間における外交でも同様で、国際外交と言えども結局はヒト同士による話し合いであることに違いはない。

国際外交こそ合理性のある論理的話し合いが必要なのであって、そこに武力威圧的抑止力を持ち込もうとする時点で、人間としての社会性が欠如しているのである。

犯罪においても抑圧は誘導であって自律ではないと述べたが、抑止力への依存も同じことである。

武力威圧をされたから話し合いに応じるなどという人間性の欠如に基づいているからこそ、他国に対しても武力的抑止力を振り回さなければ話し合いに応じて貰えないなどという観念が出てくるのである。

これはもはや暴力にだけ屈する暴力団員の論理であろう。

「怖いから従う」などという卑屈な従属的服従性は、非常に幼稚な行動原理である。 そこには自律的な社会的責任判断などというものは存在せず、その場限りの気分感情でしか行動が決定されることはない。

そうした幼稚な威圧的抑止力を外交に持ち込もうとすること自体に、人間性が伴わないのである。




Ende;
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