基本的にこの番組は従来の生物学のパラダイムに基づいた話ばかりで、「答。」だとか偉そうに言っておきながら、結局何にも答など提示していないペテン番組に過ぎない。
あまりにくだらないので、反論するのも面倒臭いのだが。聞きかじりでツッコミをいれてみようと思う。
○「子供の容姿は親から可愛いと思われるようにプログラムされている。」
子供の容姿形態といった、未成熟な個体の特徴は、あえて意識的に選択されたようなものではなく。未成熟な個体の結果的な特徴に過ぎない。
従って、子供の容姿がプログラムされていると考えるよりも。むしろ未成熟な個体に対して親の方の大脳辺縁系が「可愛い。」などの感情を発するようにプログラムされていると考えるべきである。
ヒトの脳は特にヒトの子供に限らず「可愛い。」という感情を持つものであり、故にイヌやネコなどの小動物に対しても、こうした感情が生ずるために愛玩動物を飼育したりするのである。
そもそも子供の形態云々に関わらず、親の方に子供を養育しようとする性質が存在しなければ、未成熟な状態で産まれてくるヒトは生存することができないのである。
ライオンやチンパンジーなどの狂暴な動物では、「他処の子供。」を噛み殺すことが知られている。これもまた習性であり「Earth cord」であるとしなければならない。野生生物の狂暴な面を隠蔽無視しておいて、如何にも大衆ウケの良さそうな話だけを抽出して結論であるかの如く論ずるのが、現在の生物学と理論的検証のできないバカマスコミである。
ヒトであれサルであれ、虐待を連鎖する習性は同様に見られるものである。しかし、ヒトの場合は当人の意識次第によって自己の行動抑制を行い、虐待を止めることも可能なのである。こうした本能情動とは異なる選択が可能であるということが、「人間。」であることの「意味。」なのである。それを無視してウケ狙いで「人間とは何か。」などと論じようとするのは単なる詐欺ペテンに他ならない。
○適応とは。
生物進化における「適応。」とは、全て結果的に生存に適しただけの結果論的適応であり。そこには何ら個体自身における意識的選択は介在しえない。
高度な擬態のような「進化。」であっても、擬態自体はその個体が意図的に行うようなものではなく。あくまで捕食者に対する視覚的な撹乱の結果として先鋭化したものであり。擬態者自体に擬態の意識も、また、方法論も存在しないのである。
環境への適応というものは、哺乳類などの場合においては後天的要素も存在しうるが。根本的な構造気質的な適応ができるわけではない。それを混同してしまえうから妙なこじつけがまかり通ることになってしまうのである。
○結果と目的
どんなにたくさんの結果を抽出してきても、それが意識的に選択した「目的。」であることの論証には一切ならない。結果はどんなにたくさん枚挙しても結果以上の何物でもないことに変わりはないからである。
○「ヒトは地球環境を変えた唯一の動物。」
これはとんでもない大嘘である。かつて植物の大繁殖があったからこそ炭素を固定し、大量の酸素を大気中に含有させたのである。現在は地上では珍しい嫌気性細菌だが、酸素が薄い環境では主流であったはずであり。これらが植物の大繁殖によって抹殺されたからこそ現在の生物相が形成されたのである。
嫌気性細菌にとって、酸素は猛毒である。その猛毒であった酸素を、結果的に利用する形で現在の活動的な動物が存在したのも、また「結果。」に過ぎない。
進化という「変化。」過程において、どのような「結果。」が導かれようとも。それは現在の生物学における「こじつけ。」によって全ては正当化されてしまうことになるのである。
○意味
これらの反論をすることで、何の影響があるのか。おそらくほとんど影響は存在しないであろう。そもそも子供が可愛いのか、親の脳がかわいいと思うのか。これ自体は極めて些細な問題でしかなく、正直「どっちでも、いいじゃん。」的な話でしかないからだ。
私が論じたいのは、こうした些細な問題ではなく。生物学界全体の論理的思考の欠落によって、本質的な「人間とは何か。」を議論することが全くできない現在の状況の方なのである。
それが人類を無為無策に陥れていることを、多くの大衆マスコミは理解していない。これはマスコミの怠慢である。
基本的に、現在の生物学のパラダイムにおいては。あらゆる行動は予め組み込まれた情動行動のみによって決定されるものであることにしておきたいのである。
現在の生物学者達というのは、無為無策な運命論的な結果論を、何が何でも正当化しようとするオカルトなのである。
「多くのヒトは、習性には抗し難い。」傾向がある。だが、それは「多数。」抽出という傾向性の枚挙でしかなく。これは論理的に「それ以外の行動が選択不可能である。」ことを論理的に証明していない。
「生命30億年の歴史。」だとか言って、あたかもそれが絶対的に素晴らしいもの、優れたものであるかの如く称賛しておけば、大衆マスコミの脳は理論的思考を撹乱され、全てを理解したかのような錯覚に陥って満足する傾向がある。
アイヒマン実験のような結果であっても、「生命30億年の歴史。」のどこかで組み込まれてきた「習性。」によって導き出される結果であり。それを盲目的に称賛する生物学界やTBSマスコミの無批判性には呆れるばかりである。
とにかく都合の良い習性傾向だけを抽出してきて結論付けてしまうという非論理性を振り回しておいて、科学もすったくれもあったものではないのである。
「人間は素晴らしい。」などと無責任に称賛しておけば、バカな大衆を丸め込むのは簡単であろう。原子炉を暴走させたもの、ホロコーストを繰り返すのも、通り魔であっても人類の行いであり。これらは生物学的な「ヒト。」の行動習性であっても「人間。」としての行動とは言えないものなのである。
「人間とは何か。」などと大上段に構えておきながら、結局何の結論にも達していないというのは。もはや見世物小屋と何ら変わりのないペテンとしか言いようがない。
「考え方の違い。」などというのは嘘に過ぎない。理論的論証においては「正しい。」か「間違い。」か「判定不能。(わからない。)」以外の何も存在しないのである。論理的に間違っている話に対して「考え方の違い。」などという判定は理論的には絶対に存在しないのである。理論的論証を蔑ろにしておいて「科学。」理論など成立しないことを、多くのヒトは忘れている。
現在の生物学は科学的理論ではなく、オカルトである。
オカルトは害を成しても、人類に利益はもたらさない。
もう夜中の1時を回ったので、今日はここまで。おやすみなさい。
あまりにくだらないので、反論するのも面倒臭いのだが。聞きかじりでツッコミをいれてみようと思う。
○「子供の容姿は親から可愛いと思われるようにプログラムされている。」
子供の容姿形態といった、未成熟な個体の特徴は、あえて意識的に選択されたようなものではなく。未成熟な個体の結果的な特徴に過ぎない。
従って、子供の容姿がプログラムされていると考えるよりも。むしろ未成熟な個体に対して親の方の大脳辺縁系が「可愛い。」などの感情を発するようにプログラムされていると考えるべきである。
ヒトの脳は特にヒトの子供に限らず「可愛い。」という感情を持つものであり、故にイヌやネコなどの小動物に対しても、こうした感情が生ずるために愛玩動物を飼育したりするのである。
そもそも子供の形態云々に関わらず、親の方に子供を養育しようとする性質が存在しなければ、未成熟な状態で産まれてくるヒトは生存することができないのである。
ライオンやチンパンジーなどの狂暴な動物では、「他処の子供。」を噛み殺すことが知られている。これもまた習性であり「Earth cord」であるとしなければならない。野生生物の狂暴な面を隠蔽無視しておいて、如何にも大衆ウケの良さそうな話だけを抽出して結論であるかの如く論ずるのが、現在の生物学と理論的検証のできないバカマスコミである。
ヒトであれサルであれ、虐待を連鎖する習性は同様に見られるものである。しかし、ヒトの場合は当人の意識次第によって自己の行動抑制を行い、虐待を止めることも可能なのである。こうした本能情動とは異なる選択が可能であるということが、「人間。」であることの「意味。」なのである。それを無視してウケ狙いで「人間とは何か。」などと論じようとするのは単なる詐欺ペテンに他ならない。
○適応とは。
生物進化における「適応。」とは、全て結果的に生存に適しただけの結果論的適応であり。そこには何ら個体自身における意識的選択は介在しえない。
高度な擬態のような「進化。」であっても、擬態自体はその個体が意図的に行うようなものではなく。あくまで捕食者に対する視覚的な撹乱の結果として先鋭化したものであり。擬態者自体に擬態の意識も、また、方法論も存在しないのである。
環境への適応というものは、哺乳類などの場合においては後天的要素も存在しうるが。根本的な構造気質的な適応ができるわけではない。それを混同してしまえうから妙なこじつけがまかり通ることになってしまうのである。
○結果と目的
どんなにたくさんの結果を抽出してきても、それが意識的に選択した「目的。」であることの論証には一切ならない。結果はどんなにたくさん枚挙しても結果以上の何物でもないことに変わりはないからである。
○「ヒトは地球環境を変えた唯一の動物。」
これはとんでもない大嘘である。かつて植物の大繁殖があったからこそ炭素を固定し、大量の酸素を大気中に含有させたのである。現在は地上では珍しい嫌気性細菌だが、酸素が薄い環境では主流であったはずであり。これらが植物の大繁殖によって抹殺されたからこそ現在の生物相が形成されたのである。
嫌気性細菌にとって、酸素は猛毒である。その猛毒であった酸素を、結果的に利用する形で現在の活動的な動物が存在したのも、また「結果。」に過ぎない。
進化という「変化。」過程において、どのような「結果。」が導かれようとも。それは現在の生物学における「こじつけ。」によって全ては正当化されてしまうことになるのである。
○意味
これらの反論をすることで、何の影響があるのか。おそらくほとんど影響は存在しないであろう。そもそも子供が可愛いのか、親の脳がかわいいと思うのか。これ自体は極めて些細な問題でしかなく、正直「どっちでも、いいじゃん。」的な話でしかないからだ。
私が論じたいのは、こうした些細な問題ではなく。生物学界全体の論理的思考の欠落によって、本質的な「人間とは何か。」を議論することが全くできない現在の状況の方なのである。
それが人類を無為無策に陥れていることを、多くの大衆マスコミは理解していない。これはマスコミの怠慢である。
基本的に、現在の生物学のパラダイムにおいては。あらゆる行動は予め組み込まれた情動行動のみによって決定されるものであることにしておきたいのである。
現在の生物学者達というのは、無為無策な運命論的な結果論を、何が何でも正当化しようとするオカルトなのである。
「多くのヒトは、習性には抗し難い。」傾向がある。だが、それは「多数。」抽出という傾向性の枚挙でしかなく。これは論理的に「それ以外の行動が選択不可能である。」ことを論理的に証明していない。
「生命30億年の歴史。」だとか言って、あたかもそれが絶対的に素晴らしいもの、優れたものであるかの如く称賛しておけば、大衆マスコミの脳は理論的思考を撹乱され、全てを理解したかのような錯覚に陥って満足する傾向がある。
アイヒマン実験のような結果であっても、「生命30億年の歴史。」のどこかで組み込まれてきた「習性。」によって導き出される結果であり。それを盲目的に称賛する生物学界やTBSマスコミの無批判性には呆れるばかりである。
とにかく都合の良い習性傾向だけを抽出してきて結論付けてしまうという非論理性を振り回しておいて、科学もすったくれもあったものではないのである。
「人間は素晴らしい。」などと無責任に称賛しておけば、バカな大衆を丸め込むのは簡単であろう。原子炉を暴走させたもの、ホロコーストを繰り返すのも、通り魔であっても人類の行いであり。これらは生物学的な「ヒト。」の行動習性であっても「人間。」としての行動とは言えないものなのである。
「人間とは何か。」などと大上段に構えておきながら、結局何の結論にも達していないというのは。もはや見世物小屋と何ら変わりのないペテンとしか言いようがない。
「考え方の違い。」などというのは嘘に過ぎない。理論的論証においては「正しい。」か「間違い。」か「判定不能。(わからない。)」以外の何も存在しないのである。論理的に間違っている話に対して「考え方の違い。」などという判定は理論的には絶対に存在しないのである。理論的論証を蔑ろにしておいて「科学。」理論など成立しないことを、多くのヒトは忘れている。
現在の生物学は科学的理論ではなく、オカルトである。
オカルトは害を成しても、人類に利益はもたらさない。
もう夜中の1時を回ったので、今日はここまで。おやすみなさい。