ヒトという種の生物が、どんなに高度な機能を獲得しているかを、どんなにたくさん枚挙したところで、ヒトの習性本能によって引き起こされる諸問題の解決には一切つながらないどころか。むしろヒトが引き起こす諸問題への対処対応への意識を無効にするものである。
「生命は素晴らしい。」などと、生物種としての結果論を称賛しておけば。大衆マスコミの大脳辺縁系は満足し、思考停止に陥る。
どんなに生物の結果を称賛しても、犯罪や戦争、或いは原子力行政の暴走のようなオカルト封建体制の構築性への対応は、一切行われることにはならない。
アイヒマン実験が導き出す結果であっても、「生命30億年の歴史によって培われた。」行動の結果なのである。
脳外科医、福島孝徳氏が論じていた日本の医学界の封建性の問題であっても、根本的には同じことである。
現在の生物学界というのは、大衆マスコミの気分的な満足を促すような都合の良い結果だけを多数抽出することによって。予め組み込まれた本能習性の全てが「素晴らしい。」という観念に基づいた非理論的な屁理屈を温存することによって、自分達のバカさを隠蔽しようとしているのである。
このような「体制維持体質。」というのは、北朝鮮などでも見られる「結果。」的なヒトの習性によって導き出されるものであり。そこに本質的問題意識に基づく自浄効果が働くことは全くない。自浄効果というのは問題意識の働かない集団内部では原理的に働くことはないからである。
現在の生物学のパラダイムを温存しておけば、生物種としての「ヒト。」が引き起こす諸問題の全ても「結果論。」として無視されることになるのである。
だからこそ「大きな戦争が起きても、種としては生き残った。」などという、どうにもならないふざけた結論を言い出すことになるのである。
こうしたトンデモない話を放置している生物学界というのは、ほとんど全員頭がおかしいからこそ、批判も何も出てこないのである。単なる知識に多さ、容量だけを知能であるとする大衆観念的な知能論に基づいた基準だけで科学に携わることが可能な現状を放置すべきではない。無論、生物学者当人達に問題意識などあろうはずはない。
生物種として生き残りさえすれば良いのであれば、もはや知能もへったくれもあったものではない。無為無策であっても生存に適してさえいれば良しとするのであれば、最初から知能も何も意味がないのである。それならゴキブリや細菌で充分であり、個体としての存在価値など最初から存在しないのである。
こんな非人道的な観念を温存しておいて良い訳が絶対にないのだが、生物学界だけは特権的に温存され続けているのである。
現在の生物学のパラダイムに基づけば、起こったことの全てに意味があり。それこそが目的であることになってしまっているのである。
これを温存しているからこそ、ヒトが何をしでかそうとも、ただ呆然と傍観するだけで。何ら問題意識すらも生ずることはないのである。
傍観は客観とは異なるものである。客観的な視点に基づき、問題を解決するための論理的思考を導き出す可能性が科学の持つ客観性の意義である。しかし、単なる傍観というのは問題意識自体が全く働かず、呆然と結果論だけを枚挙し続ける。
これは、もはや科学でも何でもなく。単なるオカルトに過ぎない。
結果の全てに意味があるのであれば、通り魔が出ようが、原子炉が暴走しようが、全ては結果であり、かつ「目的。」ですらあるという意味になるのである。
生物種としての単なる「ヒト。」が、自らの行動を意識的に選択することが可能であるという点において「人間。」ということができるのであって。それを無視したまま、予め組み込まれた本能情動だけに意味を求める現在の生物学のパラダイムというのは、糞の役にも立たない屁理屈でしかないのである。
役に立たないだけではなく、問題意識そのものをも撹乱している現状では。これはオカルトと呼ぶより他にない。
ヒトの情動行動の全てが「人間性。」を伴った行動であるわけではない。従って生物種としてのヒトを正当化するような屁理屈をどんなにたくさん枚挙しても、「人間。」について論じたことにはならないのである。
生物種としての「ヒト。」の優位性を枚挙するだけの現在の生物学のパラダイムからは、「人間について。」の解答や指針を導き出すことは原理的に不可能である。「ヒト。」でありさえすれば「人間性。」を発揮するという保障、証明にはならないからである。
「ヒトという種の優位性。」を枚挙しておけば、バカな大衆マスコミの大脳辺縁系を酔わせ、思考停止に陥れて撹乱することは。おそらく簡単なのであろう。
理論的思考の出来ない「文系。」の者のほとんどは、気分的に嫌な話を意識から外し、無視することによって盲目性を発揮する。無論、当人はそれをアスペクト盲であるとすら認識することはない。
「自分が嫌いな話であるならば、それは全ての者にとって嫌いな話である。」という、勝手な思い込み、アプリオリな観念に基づいて、「嫌な話は社会的に成功できない。」という利己的な判断に基づき、本論は無視されるのである。
科学的理論というものは、多数決によって成立するものではない。
多数の大衆凡民の観念をどんなにたくさん抽出してきても、観念は永遠に観念であることから脱することはない。
そして観念をどんなに堅持しても、問題に対する論理的解決策が導き出されることはないのである。
観念とは理論的な思考を促さず。唯気分的な満足を得るだけのものでしかないからだ。
生物種としての「ヒト。」であること自体に意味などない。発生学的な複雑さを枚挙しても、そこから狂暴なチンパンジーとヒトとの差異は抽出できないからである。もちろん通り魔と優れた人格者との差異も然りである。
「人間とは何か。」を論ずるためには、従来の生物学のパラダイムに基づく結果論万歳な指向を根本から変えないとどうにもならないのである。
現在の生物学の指向、パラダイムというものは。かの悪名高き優性学すら正当な反論ができないのである。結果的な生存だけに意味を求める現在の生物学そのものが間違いであることに言及しないことには、優性学固有の間違いなど存在しないからである。
意識論では、生存自体に意味を求めない。それは別に死ぬことに意味があると言っているわけではなく。むしろ結果的に死ぬことも無意味無駄ではないことを意味する。
現在の生物学の指向に基づけば、先天的な疾患によって生存に適さない人のことは無駄であると分類されることになり、同時に健康な悪人は生存に適するということになるのである。
生物学者達は、おそらくその場限りの言い訳をでっちあげて撹乱するであろう。その撹乱の手法は養老孟司と同じようなものである。
生物学者特有の言い訳に、「現代文明社会が悪い。」と称して、「適応することができない。」などと言い張るであろう。
現代文明社会の何処が問題であるのかを具体的に挙げることもなく。単に生物種として適応できないことを言い訳にするというのは、本質的自己選択が全く存在しない無意識的な無思考性、思考停止性、論理的思考の欠落によるものである。
アイヒマン実験のような環境下において、多くのヒトが他人に暴力を振るうことは「環境が悪い。」からに他ならない。「現代文明社会。」という環境だけに原因をなすりつけておいて、その環境自体の論理的問題点も指摘しなければ、また自己自身の行動選択自体までをもなかったことにしようとする現在の生物学の指向というのは、彼らの無意識性の証明に他ならない。
彼らにとって、戦争も犯罪も、あらゆるヒトが引き起こす諸問題の全ては、「どうでも良いこと。」なのである。
NHKの解説委員は、「人類は絶滅する。」と断言する。絶滅することが絶対であれば、もはや何の対処対応も全ては徒労であるということであり。何も考えず、何もせず、ただ無為無策に結果だけを受け入れておいて、「自分は謙虚だ。」と妄想しているのである。
これをオカルトとかキチガイと言わずしてなんと形容するのか、私は知らない。
マスコミや多くの生物学者達というのは、理論的に考えることの嫌いな文系が多く。何かにつけて思考停止のための屁理屈を並べて満足しようとする。
文系の生物学への親和性というのは、従来の生物学の持つ観念が原因であり。彼らが「わかる。」と言っていることのほとんどは、実際には理論的理解ではなく、気分的にわかったような満足感が得られるだけのことである。
犯罪被害者が判決に対して「国に認めてもらえた。」などというのも、要するに権威者に対する盲目的信頼性に由来する気分的満足感を述べているに過ぎず、何ら犯罪の原因究明にも再発防止にもつながらない、極めて利己的な満足でしかないのである。
犯罪被害者や遺族であるならば、それは自分から選んでなったわけではないから、個人的な満足を述べることに何ら問題があるわけではないが。あくまで個人的な観念であることを、他者は認識しておかねば、正当な判断を導くことは出来なくなる。この国では民主主義が採用されているため、より多くの民衆が正当な判断をできなければならないのである。
通り魔を死刑にして、気分的に満足しても、通り魔事件の再発防止に対する具体的、論理的な対策が行われるわけではない。大衆の多くは「誰かが研究してくれている。」などと他力本願を振り回し、自分自身の自律的判断を放棄する傾向がある。
現状に迎合しておけば気分的には安心であろう。だが、その気分的な安心が理論的な安全性を保障するわけでも何でもないことを、忘れるべきではない。
絶望的な現実を見て、虚無主義に陥るのは簡単である。虚無主義というのは要するに諦めることによる自己満足でしかないのである。諦めれば何も考えず、何もせずに済むため。大脳辺縁系が楽になれるのである。
虚無主義者は答を即答する。予め用意した観念だけをぶちまけておけば良いからである。
それが大衆の脳にとって「決断力がある。」などと勝手な勘違いを促し、無意味な信頼性を作り出すことが少なくない。自分が下した判断が常に正しいと勘違いするべきではない。
ヒトは自分が既に行った判断を、事後正当化しようとしてしまう傾向がある。だからこそアスペクト盲のような意識狭窄が発生するのである。自己の盲目性や意識狭窄性を自律的に修正できないから、集団内部の自浄作用が働かなくなるのである。
自分の所属する集団腐敗を自浄すれば、必ずしも自己自身の利益になるわけではない。内部告発によって地位や権益を失うことは少なくないからだ。
意識論はそれに対して「勇気。」だの「元気。」といった気分的満足は一切与えない。あくまで自律的に公益倫理的判断をすることが本質的意識の意義であるからだ。
それが困難であるかどうかは私の知ったことではない。困難であるからやらなくて良いなどという「理屈。」など成立しえないのである。
「生命は素晴らしい。」などと、生物種としての結果論を称賛しておけば。大衆マスコミの大脳辺縁系は満足し、思考停止に陥る。
どんなに生物の結果を称賛しても、犯罪や戦争、或いは原子力行政の暴走のようなオカルト封建体制の構築性への対応は、一切行われることにはならない。
アイヒマン実験が導き出す結果であっても、「生命30億年の歴史によって培われた。」行動の結果なのである。
脳外科医、福島孝徳氏が論じていた日本の医学界の封建性の問題であっても、根本的には同じことである。
現在の生物学界というのは、大衆マスコミの気分的な満足を促すような都合の良い結果だけを多数抽出することによって。予め組み込まれた本能習性の全てが「素晴らしい。」という観念に基づいた非理論的な屁理屈を温存することによって、自分達のバカさを隠蔽しようとしているのである。
このような「体制維持体質。」というのは、北朝鮮などでも見られる「結果。」的なヒトの習性によって導き出されるものであり。そこに本質的問題意識に基づく自浄効果が働くことは全くない。自浄効果というのは問題意識の働かない集団内部では原理的に働くことはないからである。
現在の生物学のパラダイムを温存しておけば、生物種としての「ヒト。」が引き起こす諸問題の全ても「結果論。」として無視されることになるのである。
だからこそ「大きな戦争が起きても、種としては生き残った。」などという、どうにもならないふざけた結論を言い出すことになるのである。
こうしたトンデモない話を放置している生物学界というのは、ほとんど全員頭がおかしいからこそ、批判も何も出てこないのである。単なる知識に多さ、容量だけを知能であるとする大衆観念的な知能論に基づいた基準だけで科学に携わることが可能な現状を放置すべきではない。無論、生物学者当人達に問題意識などあろうはずはない。
生物種として生き残りさえすれば良いのであれば、もはや知能もへったくれもあったものではない。無為無策であっても生存に適してさえいれば良しとするのであれば、最初から知能も何も意味がないのである。それならゴキブリや細菌で充分であり、個体としての存在価値など最初から存在しないのである。
こんな非人道的な観念を温存しておいて良い訳が絶対にないのだが、生物学界だけは特権的に温存され続けているのである。
現在の生物学のパラダイムに基づけば、起こったことの全てに意味があり。それこそが目的であることになってしまっているのである。
これを温存しているからこそ、ヒトが何をしでかそうとも、ただ呆然と傍観するだけで。何ら問題意識すらも生ずることはないのである。
傍観は客観とは異なるものである。客観的な視点に基づき、問題を解決するための論理的思考を導き出す可能性が科学の持つ客観性の意義である。しかし、単なる傍観というのは問題意識自体が全く働かず、呆然と結果論だけを枚挙し続ける。
これは、もはや科学でも何でもなく。単なるオカルトに過ぎない。
結果の全てに意味があるのであれば、通り魔が出ようが、原子炉が暴走しようが、全ては結果であり、かつ「目的。」ですらあるという意味になるのである。
生物種としての単なる「ヒト。」が、自らの行動を意識的に選択することが可能であるという点において「人間。」ということができるのであって。それを無視したまま、予め組み込まれた本能情動だけに意味を求める現在の生物学のパラダイムというのは、糞の役にも立たない屁理屈でしかないのである。
役に立たないだけではなく、問題意識そのものをも撹乱している現状では。これはオカルトと呼ぶより他にない。
ヒトの情動行動の全てが「人間性。」を伴った行動であるわけではない。従って生物種としてのヒトを正当化するような屁理屈をどんなにたくさん枚挙しても、「人間。」について論じたことにはならないのである。
生物種としての「ヒト。」の優位性を枚挙するだけの現在の生物学のパラダイムからは、「人間について。」の解答や指針を導き出すことは原理的に不可能である。「ヒト。」でありさえすれば「人間性。」を発揮するという保障、証明にはならないからである。
「ヒトという種の優位性。」を枚挙しておけば、バカな大衆マスコミの大脳辺縁系を酔わせ、思考停止に陥れて撹乱することは。おそらく簡単なのであろう。
理論的思考の出来ない「文系。」の者のほとんどは、気分的に嫌な話を意識から外し、無視することによって盲目性を発揮する。無論、当人はそれをアスペクト盲であるとすら認識することはない。
「自分が嫌いな話であるならば、それは全ての者にとって嫌いな話である。」という、勝手な思い込み、アプリオリな観念に基づいて、「嫌な話は社会的に成功できない。」という利己的な判断に基づき、本論は無視されるのである。
科学的理論というものは、多数決によって成立するものではない。
多数の大衆凡民の観念をどんなにたくさん抽出してきても、観念は永遠に観念であることから脱することはない。
そして観念をどんなに堅持しても、問題に対する論理的解決策が導き出されることはないのである。
観念とは理論的な思考を促さず。唯気分的な満足を得るだけのものでしかないからだ。
生物種としての「ヒト。」であること自体に意味などない。発生学的な複雑さを枚挙しても、そこから狂暴なチンパンジーとヒトとの差異は抽出できないからである。もちろん通り魔と優れた人格者との差異も然りである。
「人間とは何か。」を論ずるためには、従来の生物学のパラダイムに基づく結果論万歳な指向を根本から変えないとどうにもならないのである。
現在の生物学の指向、パラダイムというものは。かの悪名高き優性学すら正当な反論ができないのである。結果的な生存だけに意味を求める現在の生物学そのものが間違いであることに言及しないことには、優性学固有の間違いなど存在しないからである。
意識論では、生存自体に意味を求めない。それは別に死ぬことに意味があると言っているわけではなく。むしろ結果的に死ぬことも無意味無駄ではないことを意味する。
現在の生物学の指向に基づけば、先天的な疾患によって生存に適さない人のことは無駄であると分類されることになり、同時に健康な悪人は生存に適するということになるのである。
生物学者達は、おそらくその場限りの言い訳をでっちあげて撹乱するであろう。その撹乱の手法は養老孟司と同じようなものである。
生物学者特有の言い訳に、「現代文明社会が悪い。」と称して、「適応することができない。」などと言い張るであろう。
現代文明社会の何処が問題であるのかを具体的に挙げることもなく。単に生物種として適応できないことを言い訳にするというのは、本質的自己選択が全く存在しない無意識的な無思考性、思考停止性、論理的思考の欠落によるものである。
アイヒマン実験のような環境下において、多くのヒトが他人に暴力を振るうことは「環境が悪い。」からに他ならない。「現代文明社会。」という環境だけに原因をなすりつけておいて、その環境自体の論理的問題点も指摘しなければ、また自己自身の行動選択自体までをもなかったことにしようとする現在の生物学の指向というのは、彼らの無意識性の証明に他ならない。
彼らにとって、戦争も犯罪も、あらゆるヒトが引き起こす諸問題の全ては、「どうでも良いこと。」なのである。
NHKの解説委員は、「人類は絶滅する。」と断言する。絶滅することが絶対であれば、もはや何の対処対応も全ては徒労であるということであり。何も考えず、何もせず、ただ無為無策に結果だけを受け入れておいて、「自分は謙虚だ。」と妄想しているのである。
これをオカルトとかキチガイと言わずしてなんと形容するのか、私は知らない。
マスコミや多くの生物学者達というのは、理論的に考えることの嫌いな文系が多く。何かにつけて思考停止のための屁理屈を並べて満足しようとする。
文系の生物学への親和性というのは、従来の生物学の持つ観念が原因であり。彼らが「わかる。」と言っていることのほとんどは、実際には理論的理解ではなく、気分的にわかったような満足感が得られるだけのことである。
犯罪被害者が判決に対して「国に認めてもらえた。」などというのも、要するに権威者に対する盲目的信頼性に由来する気分的満足感を述べているに過ぎず、何ら犯罪の原因究明にも再発防止にもつながらない、極めて利己的な満足でしかないのである。
犯罪被害者や遺族であるならば、それは自分から選んでなったわけではないから、個人的な満足を述べることに何ら問題があるわけではないが。あくまで個人的な観念であることを、他者は認識しておかねば、正当な判断を導くことは出来なくなる。この国では民主主義が採用されているため、より多くの民衆が正当な判断をできなければならないのである。
通り魔を死刑にして、気分的に満足しても、通り魔事件の再発防止に対する具体的、論理的な対策が行われるわけではない。大衆の多くは「誰かが研究してくれている。」などと他力本願を振り回し、自分自身の自律的判断を放棄する傾向がある。
現状に迎合しておけば気分的には安心であろう。だが、その気分的な安心が理論的な安全性を保障するわけでも何でもないことを、忘れるべきではない。
絶望的な現実を見て、虚無主義に陥るのは簡単である。虚無主義というのは要するに諦めることによる自己満足でしかないのである。諦めれば何も考えず、何もせずに済むため。大脳辺縁系が楽になれるのである。
虚無主義者は答を即答する。予め用意した観念だけをぶちまけておけば良いからである。
それが大衆の脳にとって「決断力がある。」などと勝手な勘違いを促し、無意味な信頼性を作り出すことが少なくない。自分が下した判断が常に正しいと勘違いするべきではない。
ヒトは自分が既に行った判断を、事後正当化しようとしてしまう傾向がある。だからこそアスペクト盲のような意識狭窄が発生するのである。自己の盲目性や意識狭窄性を自律的に修正できないから、集団内部の自浄作用が働かなくなるのである。
自分の所属する集団腐敗を自浄すれば、必ずしも自己自身の利益になるわけではない。内部告発によって地位や権益を失うことは少なくないからだ。
意識論はそれに対して「勇気。」だの「元気。」といった気分的満足は一切与えない。あくまで自律的に公益倫理的判断をすることが本質的意識の意義であるからだ。
それが困難であるかどうかは私の知ったことではない。困難であるからやらなくて良いなどという「理屈。」など成立しえないのである。