書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

依存症。

2011年05月09日 09時08分03秒 | 意識論関連
 買い物依存などの行動の原因は、刷り込まれてしまった快楽への行動学習であり。これは無意識学習である。

 意識の上では「やめなければ。」と「考え。」ながらも、感情がそれを上回ってしまう。

 これは要するに「考え。」が失われてしまっているからである。

 一つの解決策として、「他に燃える(萌える)ものを見付ける。」ことである。世の中にはいろいろな依存性を持った物事が存在するはずである。その中から他人との関係性に関わらない極めて個人的な価値観に関わる純粋行為への依存を持つことが一番良い。

 ノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏が必ず論ずるのが、「これなら自分は一生続けることができる、そういうものを見つけなさい。」というのがこれに相当する。


 ヒトは生物学的な社会形成習性があり、他人との関係性を求める傾向性があるため。どうしても個人的純粋行為への価値観を蔑ろにしてしまいがちである。

 買い物依存症の表面的「理由。」として、「自信。」というものがあり、これは「他人から見た自己。」であり、一般的に言われる「自意識。」としても意識であり、これが無意識なのである。本質的意識と一般的な自意識を混同してはならない。

 問題のある依存症の類というのは、基本的に無意識的な行動が促すものであり。本質的な意識が働いていないことが原因である。

 本当に個人的な純粋行為の場合、こうした問題のある依存症とは無縁である。それは純粋行為というもの自体が、それを行っている個人の意思、本質的意識に関わる行為であるからである。

 養老孟司の「虫取り。」自体には社会的な問題は発生しない。養老が支離滅裂な「嘘。」を言い出す原因は「他人からの評価。」に関わる「人間について。」の話であり。これもある種の依存症である。

 カルト宗教の教祖が支離滅裂な命令を下すようになるのも、養老の「嘘。」と一緒で周囲の人間からの要請によって、依存症的な無意識行動として支離滅裂なことを言い出すようになるのである。

 従って、カルト宗教というのは、教祖だけが作り出したものではなく。教祖に対して盲目的な「信頼感。」を抱き、命令を求める多数の信者達によって、教祖自体までも洗脳されてしまっている状態であると言える。

 冷静に考えれば、教祖の言っていることが支離滅裂であることは明白である。にも関わらず多くの信者が信じ込んで疑わなくなる原因は、信者の多数性にある。

 多数の信者が信じている状態において、信じることが安心を促し、信じない状態への不安感によって強迫観念的に信じ込む状態に陥っているのである。

 一般的には教祖がカルト宗教の元凶であると思われがちだが、実際には教祖自身も多数の信者達によって勘違い、洗脳されているのであり。むしろ多数の盲目性によってカルト状態というものは作り出されるのである。

 ビンラディン容疑者を殺害することで熱狂するアメリカ人達も、アメリカ政府の行ったことに対して何らの疑問も持たずに盲信することで熱狂できるのであり。これはアメリカ人以外には見られない極めて特異な行動であることを認識すべきである。

 熱狂するアメリカ人の、おそらく全員は被害者や遺族ではない。むしろ他人事であるからこそお祭り騒ぎができるのであり、「アメリカ人。」という括りで同じ観念を共有、共鳴することによる気分的興奮に酔っ払っているだけである。

 「買い物依存症と何の関係があるのか。」と思ったかも知れないが、普段から自己自身と社会という多数他人との関係性を区別していないから、カルト的熱狂状態に陥るのである。

 カルトに限らず、ペテンに引っ掛からないようにするためには、自己自身の強い意思が不可欠であり、自己自身で理論的に考え、自制し、自律的に行動判断する本質的意識が不可欠である。


 「心。」というものを考えるとき、一般的には合理性といったものとは異なるものであると思いがちである。一般的に言う「合理性。」追求とは、実際には経済性や金に関わる欲望感情に由来する無意識的本能によって選択される行動選択のことを指しているのであり。これは本質的には理性ではない。理論的に理性、合理性ではないのである。そのことを多くの人は理論的に理解できていない。若しくは気分的に「したくない。」。

 単なる欲望ではなく、広い視野、広い意識、認識に立って考えれば。どうのような行動判断こそが最も精神的平穏を得られるか。それを選択するのは理性なのである。

 ややこしいのは、「精神的平穏。」それ自体もまた、情動であり感情であるということである。様々な感情の中から最も重要な感情を抽出する段階において理性が必要となるのであり、単なる感情の大きさで反射的に選択されるような行動選択を大脳辺縁系は促すようにできている。「ヒトとはそういうもの。」なのである。「ヒト。」とはね。それはチンパンジーやイヌでも同じである。

 自己個人の単なる生物的な生存よりも、公益倫理的行動判断を自律的に選択する「心。」というものは。そこに本質的自発性がなければ選択されることはない。本能的な自己保存が優先してしまうからである。

 単なる欲望の「大きさ。」だけが行動選択基準となっている状態とは、そこに本質的自発的自律判断が存在しないからである。

 生物種としての「ヒト。」が、公益倫理判断を自律的に選択する「人間。」であるためには、単なる本能感情の大きさだけが行動選択基準とならない本質的自律が不可欠である。それは単なる生物学上での進化とは直接的には無関係なものであり、個人の本質的意識に関わるものであるから、生物種としての「自己。」であるところの既に存在してしまっているだけの自己、既存在としてのあらゆる無意識行動を客観視する本質的意識が「人間。」としての素養なのである。

 ややこしいかな。ややこしいな。

 たとえ自己自身の生存に関わるような状況であっても、公益倫理的判断を行うような「心。」というものは、単なる感情の大きさだけで選択されるようなものではない。

 自己個人の地位や利権を失う状況であっても、社会の平穏を優先する行動選択を行うというのは、理性以外の何物でもない。それは論理的には合理性なのである。「心。」というのは本能それ自体ではなく、理性によって抽出された本質的自己によって選択される行動である。

 多数世間や権威の促す、気分的に安心な行動というものは理性ではなく本能である。たとえそれが後天的に刷り込まれた行動であってもである。無意識下に刷り込まれた行動、情動行動に抗い、目先の感情とは無関係の行動選択としての公益倫理的行動選択を行うのは。既存在としての自己を客観視し本質的合理性追求としての自己の精神的平穏を優先する選択を自律的に行うから「心。」となるのである。

 環境に流されていて「心。」もすったくれもありはしない。どんなに感情的に嫌な思いをしたとしても、多数他人からの排除を受けようとも、公益倫理的判断を行うのは。そこに理性があるからに他ならない。


 たとえ学力学歴が低くても、公益倫理的な自律判断ができれば、それが本質的な人間としての「知能。」であり。それこそが本質的知性というものなのである。逆に高学歴で社会的成功をしようとも、天下りなどの合法的詐欺に固執している状態というのはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造的には全く同じ機械手続き的条件反射行動に他ならない。それはある種の能力ではあっても本質的には知能とは言えないのである。

 金を稼ぐことにだけ特化された、特定能力のことを本質的知能とは言うことができない。どんなに大量の金を所有しても、むしろ所有した金に麻痺して精神的には満足できず、取り憑かれている状態であれば、これはバカとしか言いようがない。

 チンパンジーの瞬間記憶能力と同様、「エサ。」にしか意識が働いておらず。その過程においてどんなに複雑論理的行動選択を行ったとしても、行動原理が本能的な欲望である以上、それは知能ではなく、特定能力でしかないのである。


 学生時代に強迫観念的に学力を要求された人物は、大人になってからも多数他人からの評価報酬に対する機械手続き的条件反射行動として、社会的成功とか搾取にばかり固執してしまうようになる。アインシュタインが懸念した「ゲウ゛ァルト。」による強迫観念を用いた教育というものは、後に重大な社会的損失を生み出すことになるのである。

 原発利権の暴走がなぜ起きたのか、それは研究者の多くが本質的な自発的選択をしていなかった純粋性の欠如が原因である。原子炉自体が暴走する前に、利権の方が暴走していたことを認識すべきである。放射性廃棄物の処理方法も決まっていない状態のまま、なし崩し的に暴走をした原因は、そこに報酬が発生したからである。「エサ。」に対する機械手続き的条件反射として暴走したのである。

 いわば報酬依存症ともいうべき病気であるから、社会的な負荷、社会的な損失になど意識は働かなくても当然である。買い物依存症などと同様に、とにかく大脳辺縁系が快楽を得られる行動しか選択できなくなっているのであり、それが安全に対する意識狭窄を促してしまうのである。

 将来の危険性と引き換えに、目先の経済損失を回避するというのは、これは支離滅裂で全く合理性がない。経済優先の考えというものは本質的合理性を欠いた、目先の欲望によって促される行動選択であり。これは合理性追求でもなんでもないのである。

 こうした理論的な思考をしてこなかったから、感情に流され非合理的な選択を許してしまうことになるのである。

 目先の現実に迎合することが合理性ではない。理想に基づき選択される行動こそが本当の合理性というものである。



 一般的に社交的であること、コミュニケーション能力が重要視されるが。これは理論的に考えることのできない人間が、社会的成功を基準とした価値観によって導き出される屁理屈である。

 詐欺師ペテン師は社交的でコミュニケーション能力が高く、社会的にも成功しやすい。それが「EQ」の基準である。それは個人的な利益にはなるが、社会的には損失にしかならないことは言うまでもかなろう。私の説明が下手くそで、社交的でないからといって意識から外そうとしている人間ほど、コミュニケーション能力云々を主張するのである。

 元々興味のない人が理解できないのは仕方がない。しかし、学者やマスコミ関係者が理解できないとか、したくないなどというのは許されるものではない。「やる気がないなら、辞めちまえ。」と言いたい。やる気もないのに漫然と「他に仕事が無かった。」程度の理由で研究職や報道に従事すべきではないのである。だから「金にならない記事は書かない。」ことになってしまうのである。これではマスコミとしての社会的役割を果たすことができないのは当然である。

 アスペクト盲のようなものが、カルト宗教だけの特殊なものであると思うのは間違いである。アイヒマン実験の結果からも、多くのヒトは権威への盲目性は予め存在することが立証されているのであり。その事実から全てのヒトは権威への盲目性を持っているものであると認識すべきなのである。

 多数の人間と気分的な安心を追求しておいて「心が平穏。」などと言っているから危険性というのは増すのである。それは実際には「気分的に平穏。」なだけであって、盲目性によって合理的思考追求をしないから気分的に楽なだけであり、危険性ごと意識的から外して「心。」もすったくれもあったものではない。だから人類はいつまでたってもバカなのである。

 本当に「人間について。」興味があるならば、徹底的に追求すべきである。それが気分的に嫌な奴が関わっているから進歩がないのである。

 ニーチェなんぞ読んで悦に入っているようなバカが哲学者として認知されていること自体が根本的に間違いである。ゾロアスター教が理論ではないことを指摘できないようなバカが一体何を生徒に教えているつもりなのだろうか。下らな過ぎて話にならない。






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