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チューリングテストには根拠がない

2023年12月30日 23時33分13秒 | 意識論関連

チューリングテストには論理的根拠がない

そもそもアラン:チューリングというのは手続き型コンピューターの概念を作った人であって 現在のニューラルネットワークを用いたディープラーニングAIのことなど一切知らない人であって 現在のAIを云々語れるような時代の人ではない

チューリングテストというのは 「チャットのような会話をした場合に人間か機械か区別できなければ知能と言えるのではないか?」という論理的には「何の根拠もない予測(主観的感想)」でしかない

ヒトか機械かを判定するヒトそのものが一定の基準にもならず 家族か詐欺師かの区別すら儘ならぬヒトも後を絶たぬ以上は「ヒトが判別可能かどうか」自体が無意味である

たとえ電子工学に詳しい専門家であろうとも 「当人が区別できない」ことが論理客観的に知能であることの論証には全くならない

 

TBSの報道番組では未だにチューリングテストを鵜呑みにしているが 文科系のマスコミ記者なんてのは論理思考のできないバカしかおらんので 一向にバカが治らず論理的根拠のないデマを無責任に垂れ流している始末である

ChatGPTなどの生成AIというのは あくまで学習データに依存した「それっぽい解答」を割合的に算出しているに過ぎず 論理的に何かを理解し「考え」て答えを導き出しているわけではない

それはまるで教えられたことを教えられた通りに鵜呑みにする学力偏差値が高いだけのバカと同じで マスコミなんぞそんな奴ばっかりである

学習データ次第によっては 間違った学習データが大半を占めている場合には 数で押し切られて間違った答えを平気でしてくるのである

現在の進化生物学上では「生存戦略」などと称して進化が能動的に選択可能であるかのような科学的に間違った説明が大半を占めている現状においては AIもまた間違った内容を「正解」として導き出すものなのである

Microsoft社のTwitterAIが SNS上に数多溢れるヘイトスピーチを正解データとして「学習」してしまった結果ヘイトスピーチに同調賛同する形でヘイトスピーチを始めたのもメカニズムは同じである

ある企業では 採用にAIを導入した際に過去の採用データを「学習」させたことによって 女性に無条件な採用ハードルを課していたことが判明し 採用にAIを用いることを止めたこともある

それはまるで順天堂大学の入試で女子受験者に対して無条件な合格ハードルを課していたようなものであり それは「ヒトとAIのやることには違いがない」とは言える

AIが「ヒトという種の生物」と同じ判断をすることが「知能」であることの論証には全くならない

ヒトの大半は断じて「知的生命体」ではなく 大半は何も理解していない無能な「凡人」に過ぎない

ヒトの大半は自分では何一つ論理客観的に検証しないバカであり 先天的に認知的な重大欠陥を持っているが故に 未だに戦争などというバカげた「最終解決」に固執し他人に多大な迷惑をかけ続けているのである

 

学問というものは 学力偏差値競争によって就職に有利になるためのお受験ビジネスのためにあるわけではない

何が真理(本当のこと)で 何が間違っているのかを区別し 既存の「常識」の中から間違いや嘘を見抜き排除することによって 社会安全性や持続可能性といったものに寄与し社会に貢献するためのものである

「教わったことを 教わった通りに答える」だけの能力ばかりを知能だと「思って」信じて誰も疑わないからこそ 多くの仕事がAIで代替可能なのであり ヒトはバカが治らない

 

ヒトという種の生物は 主観的に好きな相手の言うことだけを信じようとする性質がある

主観的に気分が良くなる話をしてくる相手を「頭が良い」と決めつけ 主観的に気分の悪くなる話をしてくる相手の話は何の論理的根拠がなくても観念的猜疑心にとって有利な話だけを抽出してきて嘘だと決めつけるものである

イマヌエル:カントだの養老孟司だのを読んでおけば ヒトの大半は気分が良くなって真理か何かと勘違いし 「自分は頭が良くなった」と勝手に倒錯して満足するバカである

大卒者のほぼ100%は イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「理性を超越した悟性」だの「純粋統覚」だの「叡智界」などといった何一つ論理的根拠のないカントの勝手な決めつけを鵜呑みにしたバカである

どんなにヒトの多数がバカであるとしても 「バカであることこそが正常」であることの論拠には一切ならない

主観的安心満足を優先し 頭の悪さを治そうとしない大多数の無責任さこそが あらゆる「人災」の根源になっているのである

 

アラン:チューリングはまだしも 未だにマイケル:サンデルの「トロッコ問題」を倫理の話だと倒錯しているバカも大半である

「一人殺すか 2万人殺すか」を選んだところで倫理の話には一切ならない

トロッコ問題は倫理的責任とは無関係であり 単に「主観的に悩ましい」とか「何とかして答えを導きたいと主観的に思う」だけの話に過ぎない

「AIにトロッコ問題を解かせよう」とするバカもいるが 本当に重要なのは「誰かが死ぬような事態に陥らないようにすること」であって 誰かが死ぬような事態にまで陥ってからAI頼みにするというのは あまりに泥縄であり無責任というものである

明らかに優先順位がトチ狂っている

たとえ「福島の原発事故において放射能で死んだ人は一人もいない」からといって倫理的に許されることにもならないのであり「死んだ人数」は倫理と無関係である

運転開始から40年間 一度たりともアイソレーションコンデンサ(緊急炉心冷却装置)の試運転をしなかったことや 緊急用電源装置が地下に設置されたままバックアップを一切増設することすらしなかった杜撰さは 「津波を予測できなかった」かどうかとは全く無関係な話であり 原発事故が「人災」であることの反証にも一切ならない

こうした杜撰な企業体質というのは未だに柏崎刈羽において「因習」として続いており 腐敗組織を構成している個人の意識が全員変わらない限りは どんなに手続き的に「改善」させても決して「治る」ことはない

腐敗組織というものは 腐敗組織に唯々諾々と服従迎合忖度同調する個人によって作り出されるものであって そもそも腐敗組織集団というのは腐敗を傍観放置する無責任な個人が原因なのであって 機械手続き的に何かを「改善したつもり」になっても無駄である

組織を構成する個人の意識というものは 手続き的な罰則などによってどうにかなるものではなく たとえば中国では麻薬取締法違反は問答無用の極刑だが一向に麻薬犯罪は減らないのであり 意味がない

個人情報の取り扱いにおいていくら罰則を設けても 「バレなきゃ良いや」と思っている無責任なバカには何の意味もないのである

腐敗組織というのは 腐敗組織に同調した無責任な個人しか残っておらず 責任意識のある人は腐敗組織から全員逃げ出して「四国で農家に転職」しているようなものであり 形式的に手続き的「改善」をしても根本原因である個人の意識改善には一切ならない

日大が一向に良くならないのも 東電の体質が一向に改善しないのも 一度腐敗した組織には腐敗に迎合するようなクソ野郎しか残っていないからである

ミャンマー軍事政権やロシアのプーチン政権など 一度腐敗した組織というものは 腐敗に迎合同調忖度服従するようなクソ野郎によって腐敗体制が温存され続けているのであって

それは戦時中の日本の軍事政権体制やナチス政権でも同じことであり 民族国籍に関わらず「ヒトという種の生物」に普遍的に見られる「社会性」によって作り出される先天的習性としての盲目的服従性によるものであり

洗脳状態の兵隊の盲目性というのは 「忠誠忠実な服従こそが美徳だ」と主観的に陶酔しているからである

だから平気で人も殺せる無責任なバカになるのである

上官や上司の命令に従った結果 事態がどんなに悪化するとしても 責任は全て上官や上司が負ってくれるものだと勝手に信じ込むことによって 誰一人として自分の頭で物事の真偽を判断しなくなることで 盲目的洗脳は成立するのである

 

ヒトという種の生物は 先天的には殺し合いによって環境資源の奪い合い競争を勝ち抜いた人種への淘汰の結果である

遺伝的進化というものは 所詮そういう理不尽なものである

だから差別や序列や集団的殺し合いが先天的に本能として組み込まれているのであって 本能的情動というものが選択不可能は無意識であることを自覚し 理性によって「本当に望むべきもの」が何かを選択しないことには人間性も倫理もスッタクレもないのである

 

フォートナイトのような殺人ゲームに人気があるのも 野球やサッカーのようなチーム戦による勝敗に熱狂するのも 先天的本能としてそれが快感だからであり それこそが動物としての「社会性」としての情動行動バイアスだからである

「組織的協調行動さえ採れば人間性だ」といった都合の良い解釈をしておいた方が気分が良いのかも知れないが それはあらゆる組織腐敗の形成をも「人間性」として認めることになるのである

何一つ論理客観的反証反論もないにも関わらず 「少数異端である」というだけで無視され続けているのが本論である

「自分達は絶対に間違っていない」と主張するのであれば 論理客観的反証や論拠が必要である

本論を無視し続けた結果 どれだけ回避可能な危険が回避できなかったとしても私の知ったことではない それは私の責任の範疇ではないからである

多数による無責任によって事態が悪化したとしても 多数によって責任が薄まるわけでもなければ 誰かに責任をなすりつけることもできないのである

多数による無責任に関しては もはや私にどうこうできるようなものではない

この世のバカのいちいちを面倒看ている程 私は暇ではない

 

 


Ende;

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