養老孟司は自身の支離滅裂な話を正当化するために
「私は教科書に墨を塗らされたんですよ どうせ世の中間違っていない本なんかないんだから 間違っていたら墨を塗れば良いんだな そう思っています」
などと主張したことがある
「間違っていない本なんかない」からといって 論理整合性のない支離滅裂な話を一切訂正しない無責任性が正当化できるわけではない
迷惑系ユーチューバーの「へずまりゅう」が「迷惑者はザラにいる」と称して自身の迷惑行為を正当化できているという身勝手な勘違いと同じものである
「社会環境が悪い」という環境依存要因を持ち出して自分の自律的な社会的責任判断選択を放棄するための言い逃れになると思っているバカは非常に多く 自分の無責任性を正当化できるかのような都合の良い話だからこそ無責任性を正当化するのに都合が良いから養老孟司や長谷川眞理子は衆愚人気があるのだ
養老孟司にせよ長谷川眞理子にせよ 何か世の中の間違いを具体的に指摘しているかのような話はしているものの 個人の自律的責任判断については全く言及しておらず 読み手は社会の問題を自分事として認識することなく 結局何が悪いのは何も理解することなく 主観的気分として安心満足して「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いしているだけである
ヒトは 世間的成功を人間の価値か何かだと勝手に勘違いし 自律的な社会的責任判断よりも問題の責任が社会の方にあると思っておけば 気分的に安心満足して「信じよう」とする
「ゲーム理論」なんぞを持ち出して まるで環境要因だけで戦争が起きるかのような話をしておけば 衆愚は何かを理解したかのように錯覚し 鵜呑みにし 具体的に何が本当の問題なのかは全く自覚しなくなるのである
「まちがったっていいじゃないか にんげんだもの」的に自分の頭の悪さを事後正当化できる話で満足し 自分の頭の悪さを正当化したり なかったことにしておけるような話ばかりを主観的に「好き」になることで 「信じよう」とするのである
ヒトは間違えることがある
間違えることそのものは致し方ないことだと言えるが 間違えたことを事後正当化したり はぐらかしたり なかったことにして良いわけではない
香港警察やミャンマー政府軍による民主化組織弾圧においても 民主化デモに乗じた暴動破壊も起きたからこそ武力による治安統治が正当化されてしまったのである
ロシア軍によるウクライナ侵攻においても ウクライナ国内における親ロシア側との対立による暴力の応酬があったからこそ ロシア軍による介入の「理由」にされてしまった
理不尽な権力に対して戦うことは必要だが 暴力破壊で戦って満足するのではなく あくまで論理客観的な根拠に基づいた合理的な「真理」を見極めることが あらゆる「人災」の再発防止において最も重要なのである
民族国籍に優位性のようなものを持ち出してしまえば ヒトは簡単に分断され 差別による懲罰的暴力の応酬によって殺し合いは激化の一途を辿るものである
そして 「味方」や「仲間」同士による一致団結した統率的協調性を発揮することによって まるでラグビー競技の勝ち負けのような「ゲーム理論」的損得勘定に基づいた紛争にまで快楽を感じ 本当の目的を忘れて間違った行動選択によって暴走破綻への泥沼へと陥るものなのである
かつてソビエト連邦はナチスを撃退したが それはあくまで「現場の正義」であり 事態の収拾において役立っただけであって
警察が暴走族を何人捕まえようとも 暴走族などという迷惑行為の根源的原因究明にも 再発防止にもならないのと同様 ナチス撃退もナチス体制という腐敗体質が形成されるメカニズム構造の分析にはつながらず 結局ナチスような侵略戦争をも引き起こすことになってしまっているのである
ヒトは「自分だけは絶対に大丈夫だ」「自分達だけは絶対に正義なんだ」と思い込みたい習性がある だからこそ自分達の何が問題なのかを見失い 意味のない暴力を振り回しておくことで安心して何も考えなくなるものなのである
梅沢富美男のように「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして死刑を繰り返しても 通り魔のような不条理な殺人事件の原因究明にも再発防止にもならないのである
「メタ認知」などと称して「サルの正義」をこじつけておいて 「人間としての行動判断」を見失っていて 一体何が「メタ認知」だと言えるのであろうか 頭が悪いにも程がある
Ende;