○「気分が荒む。」
美術や芸術といったものは、どんなに現状世間における評価や収入があるとしても、単なる「気晴らし。」に過ぎず、人類にとって普遍的な価値のあるものにはならない。
文系観念上では金儲けが上手く世間的成功者でさえあれば人間としての価値であると短絡的に錯覚しているため、世間的成功者でさえあれば「偉い。」だのといった論理的根拠のない観念に基づいて判断「してしまう。」のである。
ヒトという種の生物は、「楽しい。」ことに意識を奪われ、「楽しい。」ことこそが「正しい。」ものであると錯覚しがちである。
イジメがやめられないのも、気分的に「楽しい。」からであって。気分的に楽しいイジメを抑止するような意見は気分が悪いので、それも集団暴力によって統率的協調的に黙殺粛正「してしまう。」ため。一切論理的検証判断が働かないため、イジメというものは恐喝や障害致死といた「破綻」にいたるまで狂暴性が自律的には止まることがないのである。
イジメというのは、環境依存的な行動習性の「結果」であり、無意識行動である。自律的に自己の行動を抑制することが出来ないのは、当人にとって本質的な自発性がないからであり。常に快楽の全ては環境から与えられるものでしかないために、自律的には自分の脳を満足させる術がなく、ただ漫然と周囲の環境に流される形で無意識にイジメを行って「しまう。」のである。
また、自分が自律的には行動抑制できないことは、他人の誰にも出来ないことにしておかないと、自分達だけが特別に頭が悪いことになってしまうため。これを共有可能な集団内部だけで共有することによって、安心して破綻に至るまで暴走することが出来るようになるのである。かくして、集団内部の偏ったマインドセットの出来上がりである。
文系大衆観念上では、論理的合理性を必要とする自律的な社会的責任判断という「考え」は、気分的に嫌で「心が荒む。」ために。意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしたがる習性傾向がある。
文系観念者というのは、自律的には自分の行動が選択できず、環境によって促される気分だけで行動が決定してしまうため。自律的な論理検証よりも気分的に楽になることを優先することによって、文系大衆観念者達はその「気分的安心。」を指して「心。」と言い張り、観念的拒絶によって自律的判断を放棄を正当化しようとするのである。
文系観念者というのは、気分が悪くなると自分自身の暴力的行動が自律的には抑制が出来ないため。気分が悪くならないことだけを優先することによる精神的安定や気分的安心が優先されてしまうのである。
単なる環境依存的な感情は「心。」ではなく、動物の本能習性的条件反射行動に過ぎない。
文系観念者が論じる「心。」とは、実際には感情気分のことであって、何ら人間性を伴った本質的な「心。」などではなく。「気分が荒むと行動に直結してしまう。」ために気分が優先されることを正当化したいだけなのである。
東電幹部達にとって、組織の利益にならないことは個人的に気分が悪く、「気分が荒む。」ので、意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしておくことが優先されたのも。
オウム教団において、自分達の教祖がキチガイに過ぎないことを認識することも。
イジメを行っている集団内部において、誰も自分達の行動を抑制出来ないのも。
ヒトという種の生物が引き起こすあらゆる「人災」には、個人的な気分にとって嫌な話を意識から外し、無視し、「なかったこと。」にするという観念的判断結果がつきまとうのである。
文系大衆観念という、現状世俗の「常識」において、利己的行動選択を優先し社会安全性や持続可能性を蔑ろにすることは、気分本能的に「楽しい。」ために、これを短絡的に「正しい。」と錯覚しがちである。
「自分の利益を追究して、何が悪い。」というのは、単に法律制度上における正当性を述べているだけであって。人間としての行動の正当性の論証があるわけではない。
個人の社会は常に運命共同体である。個人の意識が個人内部で閉じているからといって、「ばれなければ、何をしても許される。」わけではない。ヒトはいつか必ず死ぬのであり、死んだ後の社会持続可能性にまで意識が働かないのであれば、もはや一分一秒たりとも個人的な動物的「生存。」には意味がないのである。
Ende;