○原因。
「バカで鈍いから嫌われる、だからイジメられる方にも原因がある。」っていう意見があるけど、実は嘘。
実際にはバカで鈍くても、暴力的で簡単にぶちギレる奴はむしろイジメる方になる場合がほとんどで、現実にイジメられているのはイジメても報復されそうにない弱そうな奴。
実際、おいらがぶちギレた翌日から誰もおいらに手を出さなくなったし。逆にうれしそうな顔で「おはようございます。」なんて敬語で挨拶してきた奴までいる始末。イジメをやっている奴は基本的に偏執狂で暴力的な相手に服従迎合して満足している自分を卑しいとは全く思わない。
「畏敬の念。」というのも、畏れ敬うことがヒトにとって習性的に快楽であるためのであり。恐怖を感じる相手に盲目的服従迎合をしておくことが本能習性的に安心な結果。
だから、イジメられる原因ていうのは「イジメても恐くない。」だけであって、恐くなければ誰でも良くて、当人自体に原因があるわけではない。
まぁ、個人的好き嫌いがあって、多数から無視されているだけならイジメとは言わないかもね。そもそも多数から好かれる合理的必要性自体が存在しないしね。
イジメと言えるのは集団暴力であって、どんな理由があっても暴力は正当化されるものではない。
個人的に嫌いなら付き合わなきゃ良いのに、イジメの場合は逆に執着心が凄くて、学校以外に相手の家まで行って暴力を振るう場合も多い。これはイジメられている奴のことを「嫌い。」なんじゃなくて、集団で個人を攻撃するのが興奮できて楽しいからやっている証拠。
集団で個人を攻撃することっていうのは、仲間意識、集団心理的に同じ観念を共有できるために、安心で快楽なわけです。暴力っていうのは麻薬みたいなもので、本能的に組み込まれた暴力性の「結果。」であって、警察沙汰にまで発展したりすると、「悪いことをしてしまった、申し訳ない。」なんて言い出す。
「してしまった。」っていうのは、当人の自発的意識による目的行動ではなく、無意識に「やっちゃった。」という結果であることの論証で、暴力を伴うイジメというのは無意識行動の暴走した結果。本来なら警察や世間に知られる前に自分達で抑制しておかなければならないもの。事件が発覚してから謙虚そうに振る舞っていても、自分が無意識に「やってしまった。」ことは、本当は自分の責任だとも、悪いとも思ってはいなくて、たまたま捕まって「運が悪かった。」とか、本能なので自分自身ではどうにもならないものだと思っている。
ナチズムやポルポトやオウム教団のように、自律的に暴走を止める個人の自律的な社会的責任判断が誰にも伴わないから、暴走は破綻するまで止まらない。
集団暴力っていうのは、社会的にはカルト宗教と一緒なんだけど。ヤクザをカッコイイなどと思い込む性質が文系大衆観念的にはあって、映画や漫画で賛美していたりするので、バカな子供は短絡的に憧れてしまったりする。「バスジャックをやったら凄い。」などという訳のわからない価値観も、「重大犯罪を犯す奴は根性がある。」などという大衆観念に基づくもの。
個人的に誰かを嫌いで関わりたくないっていうのは自由。特に女子の場合動物本能的「生理的」に嫌な相手っていうのがあるので、個人的な無視はイジメの範疇とは言えないけど。陰でコソコソ「みんなで無視しよう。」って共謀するのは人間として汚い行為。逆に多数に人気があるからといって同調する必要もない。
教室の同級生なんていうのは、生徒自身では選べないので、好き嫌いがあるのは仕方ない。でも多数で個人を嫌うことを共有して仲間意識や集団心理を満足させるのは、偏執的で「人間」として出来損ない。
教室っていう閉鎖空間内部だけの「常識」なんていうのは、東電におけるマインドセットと同じで、普遍性のない偏った思い込みに過ぎない。閉じた集団内部での人気だとか、評価なんてものにはさしたる意味などなくて、社会に出ればクソの役にも立たない。
そもそもイジメを止められない集団内部である以上、そんなバカの集団内部でしか通用しない「常識。」なんて、社会から見れば非常識でしかない。
自分達の内部だけの「常識」を、あたかも絶対的で普遍性があるものだと思い込み、世界全体や社会全体からの視点を喪失するのは傲慢なのです。
「人間」としてね。
ナショナリズム民族主義っていうのも、生物学的根拠のない民族という区別を永久絶対不変の価値観であると錯覚しているから生ずるものであって、これも合理性のないマインドセットに過ぎない。
ヒトの多くは、ヒトという種の行動習性や傾向性を多数で共有して、「ヒトとは、そういうものである。」と称して自律的判断が困難であることを、あたかも絶対に不可能である論証であるかの様に言い張る。
それは本当は、気分的に嫌なことを意識から外し、観念的拒絶をしているだけであって、論理的正当化なんかありゃしない。
現在の生物学界はヒトという種の生物が持つ危険性を無視し、根拠のない楽観主義によって大衆ウケの良い、文系観念に寄り添った断片的立証の枚挙によって、あたかも科学的論証であるかの如く言い張る。
「ヒトは本能習性的に平和的で暴力性を抑制するものである。」なんて言っておけば大衆マスコミの脳が酔っ払って撹乱されるので、安心してヒトの暴力性や危険性に対する意識/論理的検証性を失う。
「空気を読むことは、一般的に良いこととされている。」などと言うのも、何ら論理的根拠のない大衆観念であって、東電社員のほとんど全員が「空気を読んで。」いたからこそ、津波対策は放置された訳です。
「空気を読む。」っていうのは、要するに多数派迎合による気分的安心感のことであって、これは芸術とかバラエティー番組なら許されるけど、人間としての社会的責任判断においては許されるものではない。
自分や、自分達がやっていること、考えていることが人間として正しいのかどうかくらいは自分達で検証してください。それが出来なければどんなに学力成績が高くても、年収が高くても、社会にとっては要らない「ヒト。」なんですから。
この国は民主主義の国です。とりあえず制度上はそういうことになっているんですから、国民の一人一人が自発的に社会的責任を負わなければ国が崩壊するのは必然というものです。
ヒトの本能習性として、暴力などの強制力を用いて統率する相手を「カッコイイ。」などと観念的に思い込む性質があり、無為に服従することで安心する習性があります。
「決断力。」と称して、実際には短絡的で決めつけが早いだけの相手を「カッコイイ。」と「感じ。」る性質があります。
「カッコイイ。」っていうのは本能的な「感じ。」であって、合理性根拠に基づいた人間性の論証ではないのですが。ヒトというのは初期的には動物であるため、本能感覚的「感じ。」こそが意識であると錯覚し、論理検証性を簡単に失う傾向があるわけです。
DV:近親者暴力なんていうのも、動物本能的な好き嫌い感覚に意識を奪われ、合理性のある判断が出来ないから暴力的な相手にいつまでも付き合ってしまうための「結果。」なのです。特に女性は本能生理的好き嫌いが優先されがちなため、冷静に考えれば意味がない行動選択であっても感情に流され無意識に偏執狂的に執着してしまう傾向があります。
男の場合は集団暴力の結果に陥り、女性の場合はDVに陥る結果になるわけです。
年寄りが「暴れん坊将軍。」とか「水戸黄門。」といった、短絡的な権威暴力による統制に快楽を感じるように、ヒトというのは普遍的に目先の暴力的統率者に対して忠誠忠実(盲目的)に服従することに快楽を感じる習性があるためです。
文化系大衆観念というものは、ヒトの動物本能的な「好き嫌い。」に基づいた気分的安心快楽を与えるため。思考力が失われた結果、論理検証性に基づく行動判断を喪失させる要因となるのです。
固定観念というものは脳の無意識下に行動学習的に刷り込まれている思考パタンであるため、感情と直結しており短絡的拒絶反応を示す傾向があります。
個人的好き嫌いというものは自分で選択できるものだと錯覚しがちですが、好き嫌いを作り出す脳の構造自体は自分では選ぶことが原理的に出来ないものであって、個人的好き嫌いに基づいた判断というものは必ずしも合理性を伴った人間としての判断には結び付かないのです。
個人的好き嫌いがあるのは当然であって、自分の好き嫌いを主張するのであれば、相手の好き嫌いもそれなりに尊重しなければ社会が成立しないのは当たり前です。
そのため、大人が権威や力を用いて子供を抑圧していると、抑圧統制の連鎖が生じてしまう傾向があります。
イジメの対策として体罰を復活させようという流れがありますが、これは大衆観念的でヒステリックな対応であって。イジメを無意識に行ってしまう子供に対して、「それは正しいことなのか。」「なぜ、イジメを行ってしまうのか。」を子供自身に考えさせることが重要なのです。
とかく感情的に「怒って」しまう大人が多いのですが、「怒る」ことは感情であって、気分的満足/大脳辺縁系の快楽シーケンスに過ぎません。大切なのは感情に流されずに根気よく「考え」させるように仕向けることであって、短絡的に抑圧統制に流されるべきではありません。
大人が感情に流されていて、子供が冷静に自分の行動を検証するようになるわけがありません。
危険学のように工学的、論理的に原因を究明しなければ、どんな問題であっても根本的対策にはならないのです。
ヒトはとかく短絡的な最終解決を選択しがちですが、それは気分的に安心で簡単そうだからであって。こうした短絡性こそが論理的な根本的対策を忘れてしまう原因でもあります。
イジメというものも一種の最終解決であり、短絡的に「気に入らないから排除しちまえ。」という解決ですから、イジメを止めるためには先ず大人から冷静に考えを促すようにすべきなのです。
「イジメをやるようなクソガキはぶん殴っちまえ。」という最終解決は、イジメをやっている子供の観念と全く同じものであり、こうした短絡的で気分的な解決に意識を奪われているから、論理的検証が出来なくなってしまうのです。
Ende;