東池袋プリウス暴走事故っていうのは あくまで過失事故なんですよ
通り魔とかテロみたいにわざと人様のご家族を殺害しようとしたわけではない
過失っていうのは誰しもがやらかす可能性のあるものであって たまたま悲惨な結果になった事例だけ取り上げて加害者を糾弾しても事故の原因究明や再発防止になるわけではない
パトカーが踏み間違いでビルに突っ込んだ例も 緊急走行時に子供を轢いてしまったこともあるわけで 過失っていうのはヒトという種の生物なら誰でもやらかしてしまう可能性のあるものであって 「自分だけは絶対にやらかさない」と思っていることが一番危ない
他人の過失を糾弾するということは 自分は過失を絶対に起こさないと「思って」いるから糾弾することが出来るのであって
「自分も過失を起こすかも知れない」と考えていれば どのような原因で過失が起きたのかについての科学的検証の方を自分の教訓として身につけることの方が重要だと認識できるわけです
ヒトという種の生物は 特定の個人を悪者だとみなして多数で統率協調的に「罰」さえ与えておけば気分的に安心満足して「解決だ」と勝手に勘違いする習性があります
こうした行動はカラスでもサルでも小学生のイジメでも見られるものであって 動物的な行動習性に過ぎず 合理性がなく幼稚で野蛮な大衆観念的発想だと言えます
特定の他人の過失を糾弾できるというのは 「もしかしたら自分も過失によって悲惨な事故を引き起こしてしまう可能性があるかもしれない」という当事者意識の欠如の証明でもあるのです
多数に同調しておけば気分的には安心かも知れませんが それが「人間として正常」であることの論証のはならないのです
「人間として正常」と言えるのは 社会安全性に基づいた合理性ある行動選択でなければならず 目先の気分的満足を優先していて人間性も倫理もすったくれもあったものではないのです
街を自転車で走っていると 結構な確率で危険で雑な運転をしている自転車や自動車に遭遇することがあります
ただ 全体としては1%にも満たないんでしょうけれど その少ない危険運転は いつか必ず重大事故の原因となります
危険学の見地からは たとえ1/10万の確率であっても 可能性のある危険は「いつか必ず起きるものである」として対策を施します
一週間くらいの間に遭遇した「ヒヤリ・ハット」事例を一部編集してYouTubeにアップしますが 危険な運転が出来るというのは 気分(主観)的に安心だから出来るのであって 自己客観性に基づく合理的行動選択ができていないことを意味します
動画の中では明らかにツッコミどころ満載なポンコツ野郎も写っていますが 一番最後の事例では右から来た白いトラックよりも 手前の横断歩道の手前に停車していた青いトラックの方が問題で 本来横断歩道の前後10メートル以内は駐停車禁止です この交差点は小学校も近いために横断歩道を渡ってくる子供を見落とす可能性を考えれば私の方も徐行するべきだったと反省しています
たまたま子供が飛び出してこなかったので事故にはなりませんでしたが 可能性は充分にあったと言えるでしょう
自分の危険性をしっかり認識しておかなければ 他人の過失をとやかく言えた義理ではないのです
過失 間違いというのはヒトである以上誰でも当事者であることを前提にしていれば 懲罰的なSNS上での炎上というのは問題の本質をはぐらかしてしまう社会的に無責任は行動でもあります
本来であれば 危険学に基づいた論理客観的検証によって徹底した再発防止対策の構築を優先すべきであって 刑法罰で「解決」という非合理性を国民の多くが認識する必要性があります
大切な家族を事故で失うという事例は 別に東池袋プリウス暴走事故だけに限ったものではなく 今まで幾度となく繰り返されてきた交通事故の一つであって 過去におきた事例を「罰で解決」という短絡的発想で片付けてきてしまった国民全員の無責任さが一因でもあるのです
ヒトは無責任な行為であっても 多数の無責任なら責任が薄まるような錯覚に陥る性質があるため SNSで炎上して満足して終わりにしたがります
「赤信号 みんなで渡れば怖くない」んですね
「怖い」というのは気分という主観であって 合理性のある客観的安全性とは無関係な話なのです
宗教では罪人に対する寛容さ 慈悲を求めることがありますが 怒りの感情だけに任せて本当の人間としての目的である社会安全性に基づいた行動判断選択をしなければ 何度でも同じような悲惨な事象は繰り返してしまうことになるのです
最近になってやっと「生物の遺伝的進化には目的がない」ことが学界でも浸透してきたようですが ヒトという種の生物の情動にも合理的な目的が存在しているわけではないのです
ですから 目先の感情の強度程度に惑わされることなく 社会にとって最も重要なものは何なのかを論理的に検証する姿勢が必要であり それによって人間性や倫理が発揮されることになるのです
人間性というのは主観の中にあるのではなく あくまで論理客観的な「考え」の中に存在しているのです
ヒヤリ・ハット -YouTube
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