書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○騙されるという無責任。

2015年12月06日 15時25分47秒 | 意識論関連
「嘘しか言わない人。」と形容すると、大抵の人はとんでもない極悪詐欺師のような人物を想像するかも知れない。

だが、実際に嘘以外を絶対に言わないのであれば、それはある意味とんでもない正直者なのでもある。

実際の詐欺師というのは、嘘と真実を織り交ぜ、嘘と真実との境界線を曖昧にすることで相手の判断力を奪うのであって、決して嘘しか言わないわけではない。

もし、形而上絶対嘘以外の真実を一切言わない、若しくは言えない人物がいた場合。その人物は常に、誰にでも間違いなく嘘であることが明白に判るような嘘であっても、絶対に嘘以外の真実を言わない、若しくは言えないので。その嘘というのはそもそも他人を騙すことが目的ですらないのである。

それに対して詐欺師というのは。相手を騙すことが目的であって。嘘を言う行為自体は手段であって目的ではない。

ヒトという種の生物の脳というのは。一度に大量の情報を記憶し、把握し、理解することに限界というものがある。

ヒトの脳というものの限界、いうなれば自分の脳には限界があるという現実すらも、ヒトの多くは忘れてしまっている場合が少なくない。

振り込め詐欺の被害者のほとんどは、実際に自分が騙されるまでは「自分だけは絶対に大丈夫。」だと信じ込んでいるのだという。

普段の生活の中では、自分の脳の限界まで物事を記憶し、理解し、判断するといったことはあまりない。だから大抵の場合は自分の脳で判断可能な範疇だけで判断しているため、自分の判断力はどんな状況においても常に正常であると錯覚してしまうことが少なくない。

経験則などの断片的な統計数値というものは、論理的な絶対性の証明にはならないにも関わらず、ヒトの多くは「いままでずっと大丈夫だった。」というだけで気分的に安心し、満足し、大丈夫ではない可能性についての意識を簡単に喪失するものなのである。

例えば、とある見通しの悪い交差点において、一時停止や直交する道路からの往来がないことを全く確認せずに通過しても事故が起きなかったとしよう。 それが一回や二回ではなく、100回、200回通過しても全く事故が起きなかった場合に、「この交差点は、左右確認をしなくても事故には遭わない。」という経験則を鵜呑みにするのと同じことである。

おそらく、飲酒運転を繰り返す者の多くも、「酒の一杯くらい呑んでも事故は起こさない。」という経験則に基づくことで。安心して飲酒運転をすることが平気になってしまっているのだろう。

ヒトはそもそも生物であるため、その行動は気分感情によって支配されがちであり。 「結果的に生存してさえいれば、結果的には生物として成立し続けられる。」ということでこそあれ。 しかし、「生存を目的として合理的に選択した最適な行動。」である証明にはならない。

たくさんの様々な行動傾向を持ったネズミがいて、その中から特定環境下において死なずに済むような行動を採った個体が生き残ることになったとする。

しかし、それらのネズミの行動傾向というのは、先天的に遺伝などの要因によって決定されているものであって。ネズミ自身に自己の行動傾向を選択することは原理的に不可能である。

自己の行動傾向を自発的に選択することが不可能であることにおいては、ネズミに限ったことではなく。それはヒトにおいても全く同じことが言える。

詐欺でも暴力でも、どんな手段を用いてでも生存に適した行動を採った個体が生き遺りさえすれば、それがあたかも「生物としての目的」であるかのように、従来の進化生物学は論じてきた。 だが、論理的には「生存は生物の目的。」などではなく、「結果的に生存しているものを生物と分類している。」に過ぎないのである。

「ある特定環境下において死なずに生存し続けることが出来た。」としても、その行動が単に先天的な行動傾向の結果に過ぎない場合。 その行動選択というものにおいては自己の自律的な合理的判断とは無関係であり、単なる「結果」でこそあれ、「目的」のために合理的判断力を持ち合わせている優秀さの論証には全くならないのだ。

たとえ自己の生存価にとっては不利な選択であったとしても、社会全体にとっての損害を回避するための選択を採ることは「愚か」だと言えるだろうか。

その選択というものが自己の生存価にとって不利益になる原因が、多数の愚かさに起因する場合の方が圧倒的に多いはずのなのだが。 多数の愚か者は、その多数派であるという根拠だけで多数派こそが「正常」であるとみなすことによる錯覚を認識することなく、自己犠牲すらも「愚かさ故の結末」であることにしてしまうことも珍しくはない。

「自分だけは絶対に大丈夫。」であるという自信は、時に人から自己検証という謙虚さを喪失させ、既に受け入れてしまった常識の中に存在している大きな間違いに対しての検証性を失わせるのである。

130年以上にも渡ってフランシス:ゴルトンの優生学に対しての論理反証すら誰もしてこなかった原因はここにある。

ヒトの多くは、自分の脳が先天的に優秀ではない愚かさを持ち合わせている事実を認識すると、それがあたかも存在価値の喪失か何かと勝手に妄想錯覚する傾向もあるため。 その気分の悪さから逃避するための嘘の合理性を求めて拒絶反応を示し、「自分だけは絶対に間違えない。」という身勝手な全能感覚を優先し、現実認識から逃避するのである。

理工学系の論理的な考え方が苦手な、いわゆる文科系大衆の多くが陥る合理性の欠落した身勝手な解釈こそが、ヒトという生物の脳の不都合な真実からの逃避を支えているのである。

だが大衆迎合は金が儲かる。 「脳化」だとか「品格」といった抽象的な話で大衆を撹乱して満足させ、あたかも何か有用な理論であるかのように錯覚させるような書籍の方が販売部数は伸びるのは事実である。 その販売部数に基づいた「世間的成功」を評価にすり替えるという手口も、文科系マスコミは平気でやる。

こういった詐欺をマスコミが平然とやらかしておきながら、振り込め詐欺が減らないのもむしろ必然であろう。






テロリストが暴力を用いて人々を恐怖によって服従させようとする考え方は、刑法懲罰を用いた強制的法令遵守と全く同じものである。 こうした手法には、個人の自律的な社会的責任判断選択の重要性が最初から抜け落ちており、一方的に服従させ支配しておくことだけが目的化してしまっている。

「怖いから従う。」というのは、ほとんど幼稚園児の判断基準であり、「従ってさえおけば全ては解決。」という為政者の短絡性に基づくものでもある。

社会を構成する個人が、なぜ自律的に社会的責任判断選択を優先せずに利己的な感情論に基づいた行動を採ってしまうのかについての合理的な原因究明や再発防止策が刑法裁判には全く欠落しているという、国家権力にとって不都合な真実についても、文科系大衆の多くは様々な屁理屈を陳列枚挙して隠蔽するのである。

こうした文科系特有の愚かさを全く認識せずにISILなどのオカルト集団の原因究明にもつながらないのも必然と言える。




Ende;
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