ヒトは権威肩書を持った すなはち「順位序列が上」とみなした対象の主張を鵜呑みにし その真偽を自分の頭で検証したりはしない習性がある
アセチル化やヒストン修飾などのエピジェネティクス現象というものは 何一つ「遺伝子を主体的に選択できる可能性」の論証にはなっていない
どの遺伝子がアセチル化やヒストン修飾されるのかは 個体の意図目的で選択できるようなものではなく あくまで生息環境による淘汰圧力の働きによってもたらされる収斂進化の「結果」以上の何も論証されておらず
エピジェネティクス現象も所詮は遺伝的進化のアルゴリズムの範疇に入るものである
エピジェネティクス現象が発見される以前においては 遺伝子だけが遺伝を決定するものだと「思われて」いたが 遺伝はそれだけでは決定せずに親世代の環境は行動が遺伝子発現に影響を及ぼしていたことが発見されただけに過ぎず
何一つ「遺伝的要素を選べる可能性」の論証には結びつかない
こんな簡単なことすら 大多数の衆愚マスコミ 学術研究者の大半も気づかない程に ヒトという種の生物はバカなのである
バカの原因はわかっている 既に幾度も説明済みである
自分の頭で主体的に真偽を検証しないからバカなのであり
権威肩書を持った 順位序列を上とみなした対象の主張を盲目的に信頼して鵜呑みにするから 存分にバカを発現するのである
権威肩書を持った対象の主張を鵜呑みにしておいた方が 気分的には安心で楽である
自発的な真偽の判断を放棄しても責任逃れができると「思って」いるからであり 大多数のヒトは多数が疑わなければ 疑わないことの方が「正常」だと「思って」いるからである
これらの「思い」込みを作り出すのが 生物学上の「社会性(社会形成習性)」であり 盲目的統率的協調行動によって「大きな力」を発揮したことで 生存や繁殖において有利に働いた結果的収斂進化によって組み込まれた本能的習性である
統率的協調行動は 環境資源の奪い合い競争において有利に働くものであり 暴力団やヤクザは独裁政府などというバカげた集団組織が現存しているのも 組織を構成する個人が誰も主体的行動選択をせずに盲目的に組織に服従し 組織の利益を優先することで組織内部での地位権益を獲得することで 現状体制を維持し続けられるため 生存や繁殖において有利に働くことで 収斂進化が促された遺伝的進化の「結果」でしかない
ヒトという種の生物の遺伝子やゲノムは 誰の意図目的も介在しておらず それゆえヒトは頭の悪さを発揮してバカげた腐敗体制組織集団への同調迎合忖度服従や傍観放置を平気で行う本能的習性が存在しているのである
イジメに反対すれば イジメの標的にされるし
ナチスに反対すればスイス山中で自決を余儀なくされる
東京電力福島第一原子力発電所において 原発の津波に対する脆弱性を主張すれば 東京電力を退職して四国で農業に就くことにもなる
内部告発者は「裏切り者」として組織から排除の対象となり 誰も守ってなどくれない
「怖い相手」には逆らわず 「怖くない相手を攻撃排除」しておけば主観的に安心満足感を得られるため 自分が属する集団組織の腐敗の責任は自分にはないと「思う」ことにしておくという 先天的な認知上の重大な欠陥を持っているのである
こうした欠陥は 自分では選択できない
「欲望そのものを欲することはできない」のであって 遺伝的進化のアルゴリズムによって収斂進化が促された「結果」でしかないからだ
ヒトも含めたあらゆる生物には「目的」など存在しておらず 現存している結果的存在が「生物」と分類されているに過ぎない
どんなに無責任でバカな先天的本能習性があるとしても その本能習性の存在そのものは誰にも責任を問うことはできず 選択することもできない
「自由」意志とは 選択可能性の中に存在するのであり 選択不可能な先天的本能習性や情動の中には存在しない
意識するよりも先に 脳内に情動の発火が生ずるとしても その情動の発火そのものは何ら選択不可能なものであり それそのものは「自由」選択可能性は存在せず 「自由」意識とは無関係である
「殴りたい」という情動が働いたからといって 殴る以外の行動選択が一切不可能であることの証明はなく 合理的行動選択によって「殴るべきか それとも殴る以外の選択をすべきか」を選択することは可能であり この選択可能性の中にこそ「自由」意志は存在するのである
凶悪な殺人犯に対して 死刑などの極刑や懲罰を与えれば主観的には満足安心感が得られるため ヒトは司法裁判の判決を「解決」だと倒錯し 合理性や実効性のある原因究明や再発防止には一切興味を持たなくなる
これをヒトは「道徳」などと称して 主観的満足安心を「正義」だと勘違い錯覚するのである
こうした盲目性もまた ヒトの権威服従性や統率的協調性や社会形成習性による先天的行動バイアス(錯覚)によって促されるのである
「自分だけは絶対に錯覚などしていない」 そう「思って」おけば安心である
振り込め詐欺師に騙される被害者が一向に減らないのも 主観的安心満足が優先して自己客観的危機意識や危機管理がおろそかになってしまうからであり 主観的に「怖い」とか「安心」して信じているものを一切疑わなくなるという 自己客観性の重大な欠落が働くからである
生物学者共による論理的根拠のないデマや誤謬を 大衆マスコミの誰も自覚認識できずに鵜呑みにしているのも メカニズムは同じである
「自分は認知機能が衰えた高齢者ではないから 絶対に騙されたりはしていない」と主観的に「思って」いるからこそ 何の根拠もない生物学者共の嘘やデマにも気づくことができず 大多数が気づかないことを根拠に 気づかないことの方が正常だと倒錯し 嘘やデマが公然とまかり通ってしまう結果をもたらしているのである
イマヌエル:カントやオルテガ:イ:ガセットの主張した 理論的には何の根拠もない「叡智界」なんぞを現状の「哲学者」共や衆愚マスコミは鵜呑みにし
論理整合性もスッタクレもない養老孟司の屁理屈を鵜呑みにし
何ら倫理とは無関係な「トロッコ問題」で「悩む」ことを「考え」だと錯覚してマイケル:サンデルを盲信し
日本大学田中英寿理事体制に大多数の職員が同調迎合忖度服従し
東京電力福島第一原子力発電所においては大多数の職員が原発の津波に対する脆弱性を放置し
生物学者共のデマや嘘によるはぐらかしを鵜呑みにするのは
結局詐欺師やペテン師や占い師や宗教を信じ込んで安心する盲目性と メカニズム構造やプロセス過程は一緒である
「信頼」とは 主観的に安心する相手に対する盲目性であって 論理客観的真偽の判定とは全く別のものである
別のものであるにも関わらず ヒトは先天的にはこれが区別できないという認知上の重大な欠陥を持っている
だからヒトは騙されるし 何度も同じ過ちを繰り返すし 「歴史から学ぶこと」もままならいのである
過ちを漫然と繰り返さないために必要なのは 失敗学や危険学による論理客観的な徹底した原因究明と再発防止策の策定であり 事故以外の戦争や犯罪も含めたあらゆる「人災」においても失敗学や危険学のメソッドは有効なのである
凶悪事件が発生した際に 実行犯を確捕すれば その地域の安全性は一定程度確保されたことにはなるものの 凶悪事件の原因究明や再発防止にはならず 潜在的危険性は放置されたままである
通り魔やテロリストを死刑にしても 「なぜテロや通り魔などの無差別的暴力破壊による最終解決を選択するという非合理な行動を採るようになったのか」についての具体的で論理的根拠を伴う原因については闇の中である
だが 現状の社会制度上では司法裁判による判決だけが唯一絶対的な「解決」だとみなされ 大多数の衆愚マスコミは一切疑うことはない
こうした根源的原因究明がなされないことの責任は 衆愚マスコミによる「多数」によって共感されることで 個人の主体的判断責任が多数によって薄まると倒錯し 傍観放置されているのである
これは陰謀論のような複雑怪奇で主観的に「面白い」ものではなく 単なるヒトという種の生物が持つ先天的な認知上の重大な欠陥に起因するものであって 自分の頭で考え判断すれば真偽を見極めることはそれほど難しいものではないはずである
理論的には何ら難しいものではないにも関わらず 理解が一向に進まないのは 「自分の頭で考え真偽を判定する主体性」が 大半の衆愚マスコミには欠落しているからである
論理客観的な「考え」が働かなければ 行動を左右するのは主観的な「思い」という先天性の情動バイアスだけであり こうした行動選択はイヌやサルのそれと何ら違わない「バカの選択」に過ぎない
原理的に選択不可能な情動や「思い」に振り回されているからこそ ヒトは主体的に真偽の判定をしなくなりバカになるのである
Ende;