○規範意識。
自民党の安倍総裁が選挙活動の際に、「規範意識でイジメをなくす。」などと述べていたが。これは論理的根拠の全くない文科系大衆観念であり、要するに「嘘」である。
米軍海兵隊というのは、極めて厳しい規範意識を強いられているはずであり、それで犯罪がなくなるかと言えば無関係なのは明白である。
「厳しくしてさえおけば犯罪やイジメがなくなる。」などというのは全く論理的でも科学的でもなく、単なる気分的な錯覚がもたらす文科系妄想に過ぎないのである。どんなに気分的に安心満足しても合理的安全性の確立にはならないばかりか、むしろ気分的安心満足によって危険工学的な原因究明や対策が放棄されてしまうのである。
タレントのスマイリー菊池は長年に渡ってネット上で誹謗中傷をされていたそうだが、検挙されたヒト達の多くはいわゆる「普通のヒト。」達であり、中には学校の職員や妊娠中の主婦などもいたそうである。彼らが特別規範意識が存在しないわけではなく、外見上は世間に対して従順で迎合的なヒト達なのである。
規範意識というのは、あくまで表面的な服従迎合性を刷り込み学習させ、気分的な抑圧、フロイト心理学で言う「超自我」的な他律強制性に他ならず。個人の主体的な社会的自律判断には原理的に全く結び付かないのである。
ヒトの多くは気分感情が行動と直結しがちであるが、これこそが無意識というものであって、自律的な論理検証性に基づく自発的行動抑制を伴って初めて本質的意識と言えるのである。誹謗中傷や暴力が蔓延する社会を望まないのであれば、自ずと誹謗中傷はしなくなるのは当然のことであり。自分の行動が社会にとってどのような影響を及ぼすのかへの配慮が失われる原因というのは、目先の気分的安心満足ばかりに囚われてしまうことによる意識狭窄性によるものである。
自分と直接無関係な相手であっても、他人への配慮をしないバカが多過ぎるからこそ、社会全体の信頼性が失われ、結局イジメも暴力もなくならないという結果を招くのである。
子供がイジメをするのは、大人の無責任性の反映であり。妊娠して「親」になるような年齢でありながらタレントの誹謗中傷なんぞしているからこそ、イジメが減らない大きな要因ともなるのである。
「自分一人が責任感を持っていても、どうせイジメはなくならない。」などと諦めるというのは、これは精神の怠慢であり、人間性の欠落に他ならない。自分が多数他人から迫害を受けないような社会を作りたいのであれば、先ずは自分自身が他人への配慮を行うことである。それはとても徒労で面倒臭く、地道で地道で果てしない微力であろうが、これを放棄しないからこそ「自由意志。」と言うのである。
予め運命的に組み込まれた本能欲望のままに、目先の短絡的行動で満足するのは非常に簡単ではあるが。それは自己自身による主体性を持った本質的「選択」とは言えず、先天的な習性本能や既存世間に流されるだけの憐れな愚か者に過ぎず、「自由」でも何でもないのである。
規範意識的な刷り込み学習をしておけば、あらゆる反社会的行為の全ては抑制出来るなどという妄想に囚われているのはアナクロニズムに他ならない。論理的根拠のない妄想に囚われているのであるから、これはオカルトなのである。それを自覚すべきである。
自分の行動や思考の一体何が論理的根拠のないオカルトなのか、それを自己検証する論理的思考がヒトの多くにはあまりに欠如し過ぎである。
恐怖で他人を抑圧しようとするのは、自分自身が無意識的な抑圧である「規範意識」でしか行動が決定していないための無意識的な「結果」である。成育過程において規範意識を刷り込み学習されることしかされて来なかったとしても、一人の「大人」として社会的責任を全うするためには、「どう育てられたか。」に関わらず自律的に自分自身の行動を選択しなければならない。
東電の社員達が、「自分達は上司や会社に服従すること以外、気分的に何も出来ないように育てられた。」ことを根拠に言い逃れが通用するであろうか。過去にどのような「育てられた方をされた」かを、どんなにたくさん陳列枚挙しても、それは事後正当化の論理的根拠には一切ならないのである。過去にどう「育てられた。」のかを正当化することによって気分的安心満足が得られるという心理構造があるからこそ、虐待などの「連鎖」がいつまでもなくならないのである。
養老孟司のように、「教えられていないことは、教えられないじゃありませんか。」とか、「自分は教科書に墨を塗らされた。」といった、自分の行動や発言の事後正当化のための言い逃れや取り繕いを陳列枚挙しておいた方が、多数大衆にはウケがよく、販売部数も稼げるであろう。それらは無意識への誘導であり、気分が良くなる話であるからだ。それらは言うまでもなくペテンであり、論理整合性のない「嘘」なのである。
東京大学名誉教授という肩書権威性を持った者が、自分の無意識性を事後正当化していれば、あたかも全てのヒトは自分の無意識性を正当化しても良いと錯覚することは極めて簡単安易で短絡的発想である。その気分的安心満足こそが、自律的な個人意識的「選択」可能性を失わせ、あらゆるヒトが引き起こすあらゆる「人災」の最も根源的原因となっているのである。
気分的安心満足と、論理的な根拠を持った安全性の論証を混同しているからこそ、あらゆる「人災」は発生するのである。構造原理的に予測不可能なアクシデントであれば、これは「人災」ではなく「天災」であって、誰にも文句を言うことの出来ないものであるが、こと「ヒト」という自然発生物に限っては無意識性の正当化はしてはならないのである。
自分が「ヒト」という自然発生物であることを根拠に、あたかも「ヒト」の行動習性や思考バイアスに流されていても構わないと思ったら大間違いである。それは単なる無責任に過ぎないからだ。
責任意識がないことを一般的に「無自覚」と形容するが、気分感情だけで行動が決定していて自律的な社会的責任判断を行わないから「無自覚」と言うのである。アカの他人であるお笑いタレントを誹謗中傷することは気分的に「恐く」もないのであろう、多数他人と話を合わせて統率協調的に誹謗中傷しておいた方が仲間意識を満足させられるのであろう。そうした多数迎合性による本能的な社会形成習性こそが、社会を危険にさらし破壊へと導く根源的「習性」なのである。
ヒトの多くは気分的行動バイアスこそが自己の「意識」の本質であると錯覚し、既に存在している自己の価値観の全てが「個性」であると錯覚している。こうした性質があるからこそカルト宗教の信者達は洗脳から脱することが出来ず。また、振り込め詐欺の被害者達は被害に遭った後からでないと騙されたことに気付かないのである。
自分が日々行っている行動や思考のいちいちを丹念に検証してゆくことは気分的には面倒臭いことであろう。何も検証せずに既に世間から刷り込み学習された価値観に無意識に流されていた方が短絡的で簡単安易で気分的に楽であろう。こうした習性、傾向性は誰の意図も介在しない「結果」に過ぎず、文句をたれる対象「相手」は存在しないのである。
自己自身の中に先天的に組み込まれた本能習性に由来する無意識性というのは、自己自身でどうにかしなければならない「天災」と言えるものである。北欧諸国のような個人の自発性を重んじる教育システムで育つ場合と、日本のバカ丸出しな教育制度の中で育つのとは違いがあるのは確かであろうが、どのような環境で育ったのかに関わらず自発的自律的に論理検証するのは人間としての義務責務である。
自分自身の頭の悪さは自分自身で何とかする。それが大前提である。
Ende;
自民党の安倍総裁が選挙活動の際に、「規範意識でイジメをなくす。」などと述べていたが。これは論理的根拠の全くない文科系大衆観念であり、要するに「嘘」である。
米軍海兵隊というのは、極めて厳しい規範意識を強いられているはずであり、それで犯罪がなくなるかと言えば無関係なのは明白である。
「厳しくしてさえおけば犯罪やイジメがなくなる。」などというのは全く論理的でも科学的でもなく、単なる気分的な錯覚がもたらす文科系妄想に過ぎないのである。どんなに気分的に安心満足しても合理的安全性の確立にはならないばかりか、むしろ気分的安心満足によって危険工学的な原因究明や対策が放棄されてしまうのである。
タレントのスマイリー菊池は長年に渡ってネット上で誹謗中傷をされていたそうだが、検挙されたヒト達の多くはいわゆる「普通のヒト。」達であり、中には学校の職員や妊娠中の主婦などもいたそうである。彼らが特別規範意識が存在しないわけではなく、外見上は世間に対して従順で迎合的なヒト達なのである。
規範意識というのは、あくまで表面的な服従迎合性を刷り込み学習させ、気分的な抑圧、フロイト心理学で言う「超自我」的な他律強制性に他ならず。個人の主体的な社会的自律判断には原理的に全く結び付かないのである。
ヒトの多くは気分感情が行動と直結しがちであるが、これこそが無意識というものであって、自律的な論理検証性に基づく自発的行動抑制を伴って初めて本質的意識と言えるのである。誹謗中傷や暴力が蔓延する社会を望まないのであれば、自ずと誹謗中傷はしなくなるのは当然のことであり。自分の行動が社会にとってどのような影響を及ぼすのかへの配慮が失われる原因というのは、目先の気分的安心満足ばかりに囚われてしまうことによる意識狭窄性によるものである。
自分と直接無関係な相手であっても、他人への配慮をしないバカが多過ぎるからこそ、社会全体の信頼性が失われ、結局イジメも暴力もなくならないという結果を招くのである。
子供がイジメをするのは、大人の無責任性の反映であり。妊娠して「親」になるような年齢でありながらタレントの誹謗中傷なんぞしているからこそ、イジメが減らない大きな要因ともなるのである。
「自分一人が責任感を持っていても、どうせイジメはなくならない。」などと諦めるというのは、これは精神の怠慢であり、人間性の欠落に他ならない。自分が多数他人から迫害を受けないような社会を作りたいのであれば、先ずは自分自身が他人への配慮を行うことである。それはとても徒労で面倒臭く、地道で地道で果てしない微力であろうが、これを放棄しないからこそ「自由意志。」と言うのである。
予め運命的に組み込まれた本能欲望のままに、目先の短絡的行動で満足するのは非常に簡単ではあるが。それは自己自身による主体性を持った本質的「選択」とは言えず、先天的な習性本能や既存世間に流されるだけの憐れな愚か者に過ぎず、「自由」でも何でもないのである。
規範意識的な刷り込み学習をしておけば、あらゆる反社会的行為の全ては抑制出来るなどという妄想に囚われているのはアナクロニズムに他ならない。論理的根拠のない妄想に囚われているのであるから、これはオカルトなのである。それを自覚すべきである。
自分の行動や思考の一体何が論理的根拠のないオカルトなのか、それを自己検証する論理的思考がヒトの多くにはあまりに欠如し過ぎである。
恐怖で他人を抑圧しようとするのは、自分自身が無意識的な抑圧である「規範意識」でしか行動が決定していないための無意識的な「結果」である。成育過程において規範意識を刷り込み学習されることしかされて来なかったとしても、一人の「大人」として社会的責任を全うするためには、「どう育てられたか。」に関わらず自律的に自分自身の行動を選択しなければならない。
東電の社員達が、「自分達は上司や会社に服従すること以外、気分的に何も出来ないように育てられた。」ことを根拠に言い逃れが通用するであろうか。過去にどのような「育てられた方をされた」かを、どんなにたくさん陳列枚挙しても、それは事後正当化の論理的根拠には一切ならないのである。過去にどう「育てられた。」のかを正当化することによって気分的安心満足が得られるという心理構造があるからこそ、虐待などの「連鎖」がいつまでもなくならないのである。
養老孟司のように、「教えられていないことは、教えられないじゃありませんか。」とか、「自分は教科書に墨を塗らされた。」といった、自分の行動や発言の事後正当化のための言い逃れや取り繕いを陳列枚挙しておいた方が、多数大衆にはウケがよく、販売部数も稼げるであろう。それらは無意識への誘導であり、気分が良くなる話であるからだ。それらは言うまでもなくペテンであり、論理整合性のない「嘘」なのである。
東京大学名誉教授という肩書権威性を持った者が、自分の無意識性を事後正当化していれば、あたかも全てのヒトは自分の無意識性を正当化しても良いと錯覚することは極めて簡単安易で短絡的発想である。その気分的安心満足こそが、自律的な個人意識的「選択」可能性を失わせ、あらゆるヒトが引き起こすあらゆる「人災」の最も根源的原因となっているのである。
気分的安心満足と、論理的な根拠を持った安全性の論証を混同しているからこそ、あらゆる「人災」は発生するのである。構造原理的に予測不可能なアクシデントであれば、これは「人災」ではなく「天災」であって、誰にも文句を言うことの出来ないものであるが、こと「ヒト」という自然発生物に限っては無意識性の正当化はしてはならないのである。
自分が「ヒト」という自然発生物であることを根拠に、あたかも「ヒト」の行動習性や思考バイアスに流されていても構わないと思ったら大間違いである。それは単なる無責任に過ぎないからだ。
責任意識がないことを一般的に「無自覚」と形容するが、気分感情だけで行動が決定していて自律的な社会的責任判断を行わないから「無自覚」と言うのである。アカの他人であるお笑いタレントを誹謗中傷することは気分的に「恐く」もないのであろう、多数他人と話を合わせて統率協調的に誹謗中傷しておいた方が仲間意識を満足させられるのであろう。そうした多数迎合性による本能的な社会形成習性こそが、社会を危険にさらし破壊へと導く根源的「習性」なのである。
ヒトの多くは気分的行動バイアスこそが自己の「意識」の本質であると錯覚し、既に存在している自己の価値観の全てが「個性」であると錯覚している。こうした性質があるからこそカルト宗教の信者達は洗脳から脱することが出来ず。また、振り込め詐欺の被害者達は被害に遭った後からでないと騙されたことに気付かないのである。
自分が日々行っている行動や思考のいちいちを丹念に検証してゆくことは気分的には面倒臭いことであろう。何も検証せずに既に世間から刷り込み学習された価値観に無意識に流されていた方が短絡的で簡単安易で気分的に楽であろう。こうした習性、傾向性は誰の意図も介在しない「結果」に過ぎず、文句をたれる対象「相手」は存在しないのである。
自己自身の中に先天的に組み込まれた本能習性に由来する無意識性というのは、自己自身でどうにかしなければならない「天災」と言えるものである。北欧諸国のような個人の自発性を重んじる教育システムで育つ場合と、日本のバカ丸出しな教育制度の中で育つのとは違いがあるのは確かであろうが、どのような環境で育ったのかに関わらず自発的自律的に論理検証するのは人間としての義務責務である。
自分自身の頭の悪さは自分自身で何とかする。それが大前提である。
Ende;