進化生物学からは、先天的な本能習性がどのようにして形成されたのかという「結果」としての原因しか出てくることはなく。そうした「結果」である先天的本能習性に対して条件反射的無意識に流されずに「目的」行動選択をするための意識については全く言及されることはない。
進化生物学にとっては人間としての自律や倫理など、どうでも良いことだからである。
先天的本能習性がどのようにして形成されようが、それは「結果」としての一因ではあっても。人間として自律的選択をするかどうかという、意識的「目的」の有無に関わる根本的原因とは関係がない。
先天的本能習性がどうあれ、自律的に社会責任判断選択をしてこその人間性や倫理であって。進化生物学的説明からは、こうした人間性や倫理を論ずることは出来ないのである。
バカな大衆マスコミの大多数は、先天的な本能習性さえ論じておけば何かの解決にでもなると錯覚妄想しているようだが。先天的な本能習性についての「説明」をどんなに陳列しても、ヒトが人間として行動するための倫理や人間性にまでは構造原理的に言及不可能なものなのである。
先天的本能習性というのは、あくまで無意識であり。行動バイアスや条件反射に過ぎず、意識的な目的行動選択に関わる事柄とは論じているレベルが全く異なるのである。
特定環境下において、人間性を伴ったような行動を採る先天的な本能習性が発見されたとしても。先天的本能習性に関わらずに自律的に行動選択を行うという本質人間性とは全く異なる断片的な「結果」でしかない。
どんなに人間性を伴ったように見える本能習性を発見しても、それによってISILや暴力団などに見られるヒトの暴力性の論理反証には全くならないからである。
本質的意識によって、自律的に選択された「目的」とは。進化生物学による先天的本能習性という「結果」に関わらないものであって、進化生物学というのは人間性や倫理とは無関係な学問に過ぎないのである。
こんなことをいちいち説明しなければ解らない時点で相当バカなのだが、学力が高いだけで満足して自律的自発的には何も考えようともしないバカしかいないので致し方あるまい。
進化生物学というのは、先天的本能習性という「結果」についての「説明」」しかすることはなく。こうした「結果」に関わらずに自律的に選択すべき人間としての「目的」行動選択については、進化生物学は専門外であり、範囲外なのである。
故に長谷川眞理子は「ヒトの犯罪が減るか増えるか、楽しみだわ。」などという傍観者の立場を平気で採るのであり。どのようにすれば犯罪や暴力が減らせるのかという、意識的目的に関わる行動選択になど全く興味も意志も持たない。
にも関わらず、先天的な本能習性でどうにかなると思っているのは、大衆マスコミの勝手な妄想錯覚であって、そうした意識の低さ、論理検証性の欠落こそが、人間性の欠如の一因でもある。
生物には目的はない。生物であること自体には何らそこに意識的目的行動選択が介在する余地が構造原理的に存在しないのである。
生存というのは結果であって、大衆マスコミが大好きな「命は尊い」だとか「命は大切」などという観念論を振り回して生存こそが生物の目的であるかの如く大衆迎合しておけば進化生物学者は人気を得ることは簡単であろうが。これは科学的で論理的根拠を持たない一種の詐欺ペテンに過ぎないのである。
本気で暴力や犯罪や「人災」を減らすことを目的とするのであれば、こうした実証不能の観念に囚われずに、徹底的に論理的原因究明をしないことには実効性のある再発防止対策には全くつながらないのである。
それこそ刑法懲罰による判決を短絡的に「解決」か何かだと妄想錯覚している事実すら認識出来ないバカな大衆やマスコミには困難なことなのかもしれないが。バカに迎合していても意味のある議論には全く発展しない。
一人のヒトが自律的な社会的責任を負わない原因とは何か。それは自律の源となる自発的選択自体が存在していないからである。
東電福島第一原発の津波に対する危険性放置においても、東電社内における自己保身が働いたことは明らかであり。これは環境依存的な「結果」に他ならず。自律的な社会的責任判断をするという、人間としての「目的」行動選択(意識)が働かなかったという意味でもある。
大衆マスコミの多くは、先天的本能には逆らうことが出来ないと勝手に妄想錯覚している場合が少なくないようであるが。それは単なる身勝手でわがままな言い逃れ取り繕いはぐらかし嘘の類にしかならない。
どんなにヒトの意識の大部分が先天的本能習性や行動バイアスによって支配されていようとも、それら無意識的条件反射に左右されずに自律的に目的行動選択するための論理検証性や行動選択可能性が全く存在しないことの論理証明には全くならないからである。
先天的本能習性が促す気分感情に左右されることなく、自律的に人間としての倫理的な目的行動選択に言及してこそ、「人間性」を語れるのであって。進化生物学による先天的本能習性の説明からは「ヒトという種の生物」という「結果」以上の何も出ては来ないのである。
ヒトという種の生物には先天的に権威に服従して他人に暴力を振るう習性があるからといって、ナチス政権やポルポト政権に迎合することが許されるとでも言うのであろうか。 そんなバカげた話要らん。
ヒトという種の生物には先天的に多数派迎合習性が存在するからといって、進化生物学者達の嘘ペテンを鵜呑みにしても良い理由には全くならん。
ヒトという種の生物に他者に対する利他的行動の習性があるとしても、それをどんなに大量に陳列枚挙してもISILや十字軍の残虐性の反証には全くならない。 どんなに大量の白いスワンを集めて来ても、それが「この世のスワンの全てが白い」ことの論理証明にはならないのである。 松沢哲郎らによる説明など、「取り繕い」以上の意味は存在しないのである。
にも関わらず進化生物学者に人間性や倫理の答を求めるというのは、ほとんど痴呆としか言いようがない。
番組タイトルだけ「なぜ戦争が起こるのか」だとか、「人間とは何だ」といった、さも人間性や倫理について何かの考えがあるかのように装っておけば、バカな大衆は何かを理解したかのように錯覚させることは簡単であろうが。 それらはむしろ意識撹乱や論理撹乱による思考停止に陥れているだけのペテンに過ぎない。
人間性や倫理について言及するのであれば、危険学や失敗学に基づいた論理的原因究明や再発防止策の追求手法を用いるべきであり。 JR福知山線尼崎脱線事故原因究明では被害者遺族によって、こうした手法が導入されたが。彼らのように本気で再発防止を求める意志がなければ、大半のふやけた大衆マスコミは司法刑罰判決を短絡的に「解決」だと錯覚して満足し、それ以上何も考えることはないのである。
倫理というのは、特殊な技術者だけに要求されるものではなく。街を自転車で走る時にも、歩きながらスマホをいじる時(?)にも必要なものであり。人間社会の中においては基本的に全員に必要な素養なのである。そうでなければ精神病患者と違いはかなろう。
精神疾患患者がどのような犯罪を犯しても、それは「責任能力」がないことになるのであって。意図的犯罪者というのは本来責任能力であるはずの、自律的な社会的責任判断選択能力が欠如しているからなのであり。自律的に社会安全性や持続可能性を求めようとしない時点で既に軽度精神疾患であり、精神病質もスペクトルに過ぎず。絶対的に精神的健康な者など存在しないのである。
ヒトは先天的に、人間としては出来損ないなのであって。その出来損ないがどの部分であるのかを認識し、間違った行動を採らないよう目的意識的に行動選択するという「自律」の基となる本質的意識(論理検証性)こそが必要不可欠なのである。
京都大学の学長であれば、大半のバカな大衆やマスコミはペテンであろうと嘘であろうと鵜呑みにするであろう。だが、そうした盲目性こそがオカルト洗脳的暴走の根源的原因でもある。
カルト宗教の幹部達による毒ガステロなども、教祖という権威を鵜呑みにした盲目性が最も根源的原因であり。ナチズムであろうとイスラム過激思想であろうと同じことである。
「自分は全て見えている。」という錯覚があるからこそ、見えていない可能性を疑うことを忘れ、自信たっぷりに何も考えなくなり、ヘラヘラ他人を嘲(あざけ)笑うのである。 笑っている自分の愚かさが見えていないから他人を笑えるのであって、本当に「おかしい」のは自分の頭の方だということは認識してはいないのである。
「自分だけは絶対に大丈夫」だと盲目的に信じておけば、気分的には安心であろう。
安心とは何か。それは先天的にヒトの脳に組み込まれた動物的行動バイアスの、最も基本的なシステムである。
麻薬中毒患者は麻薬こそが安心であり、バカにとってはバカでいることこそが安心なのである。
脳というのはバカに陥るように出来ているということでもある。
だからバカが絶えない。
Ende;
進化生物学にとっては人間としての自律や倫理など、どうでも良いことだからである。
先天的本能習性がどのようにして形成されようが、それは「結果」としての一因ではあっても。人間として自律的選択をするかどうかという、意識的「目的」の有無に関わる根本的原因とは関係がない。
先天的本能習性がどうあれ、自律的に社会責任判断選択をしてこその人間性や倫理であって。進化生物学的説明からは、こうした人間性や倫理を論ずることは出来ないのである。
バカな大衆マスコミの大多数は、先天的な本能習性さえ論じておけば何かの解決にでもなると錯覚妄想しているようだが。先天的な本能習性についての「説明」をどんなに陳列しても、ヒトが人間として行動するための倫理や人間性にまでは構造原理的に言及不可能なものなのである。
先天的本能習性というのは、あくまで無意識であり。行動バイアスや条件反射に過ぎず、意識的な目的行動選択に関わる事柄とは論じているレベルが全く異なるのである。
特定環境下において、人間性を伴ったような行動を採る先天的な本能習性が発見されたとしても。先天的本能習性に関わらずに自律的に行動選択を行うという本質人間性とは全く異なる断片的な「結果」でしかない。
どんなに人間性を伴ったように見える本能習性を発見しても、それによってISILや暴力団などに見られるヒトの暴力性の論理反証には全くならないからである。
本質的意識によって、自律的に選択された「目的」とは。進化生物学による先天的本能習性という「結果」に関わらないものであって、進化生物学というのは人間性や倫理とは無関係な学問に過ぎないのである。
こんなことをいちいち説明しなければ解らない時点で相当バカなのだが、学力が高いだけで満足して自律的自発的には何も考えようともしないバカしかいないので致し方あるまい。
進化生物学というのは、先天的本能習性という「結果」についての「説明」」しかすることはなく。こうした「結果」に関わらずに自律的に選択すべき人間としての「目的」行動選択については、進化生物学は専門外であり、範囲外なのである。
故に長谷川眞理子は「ヒトの犯罪が減るか増えるか、楽しみだわ。」などという傍観者の立場を平気で採るのであり。どのようにすれば犯罪や暴力が減らせるのかという、意識的目的に関わる行動選択になど全く興味も意志も持たない。
にも関わらず、先天的な本能習性でどうにかなると思っているのは、大衆マスコミの勝手な妄想錯覚であって、そうした意識の低さ、論理検証性の欠落こそが、人間性の欠如の一因でもある。
生物には目的はない。生物であること自体には何らそこに意識的目的行動選択が介在する余地が構造原理的に存在しないのである。
生存というのは結果であって、大衆マスコミが大好きな「命は尊い」だとか「命は大切」などという観念論を振り回して生存こそが生物の目的であるかの如く大衆迎合しておけば進化生物学者は人気を得ることは簡単であろうが。これは科学的で論理的根拠を持たない一種の詐欺ペテンに過ぎないのである。
本気で暴力や犯罪や「人災」を減らすことを目的とするのであれば、こうした実証不能の観念に囚われずに、徹底的に論理的原因究明をしないことには実効性のある再発防止対策には全くつながらないのである。
それこそ刑法懲罰による判決を短絡的に「解決」か何かだと妄想錯覚している事実すら認識出来ないバカな大衆やマスコミには困難なことなのかもしれないが。バカに迎合していても意味のある議論には全く発展しない。
一人のヒトが自律的な社会的責任を負わない原因とは何か。それは自律の源となる自発的選択自体が存在していないからである。
東電福島第一原発の津波に対する危険性放置においても、東電社内における自己保身が働いたことは明らかであり。これは環境依存的な「結果」に他ならず。自律的な社会的責任判断をするという、人間としての「目的」行動選択(意識)が働かなかったという意味でもある。
大衆マスコミの多くは、先天的本能には逆らうことが出来ないと勝手に妄想錯覚している場合が少なくないようであるが。それは単なる身勝手でわがままな言い逃れ取り繕いはぐらかし嘘の類にしかならない。
どんなにヒトの意識の大部分が先天的本能習性や行動バイアスによって支配されていようとも、それら無意識的条件反射に左右されずに自律的に目的行動選択するための論理検証性や行動選択可能性が全く存在しないことの論理証明には全くならないからである。
先天的本能習性が促す気分感情に左右されることなく、自律的に人間としての倫理的な目的行動選択に言及してこそ、「人間性」を語れるのであって。進化生物学による先天的本能習性の説明からは「ヒトという種の生物」という「結果」以上の何も出ては来ないのである。
ヒトという種の生物には先天的に権威に服従して他人に暴力を振るう習性があるからといって、ナチス政権やポルポト政権に迎合することが許されるとでも言うのであろうか。 そんなバカげた話要らん。
ヒトという種の生物には先天的に多数派迎合習性が存在するからといって、進化生物学者達の嘘ペテンを鵜呑みにしても良い理由には全くならん。
ヒトという種の生物に他者に対する利他的行動の習性があるとしても、それをどんなに大量に陳列枚挙してもISILや十字軍の残虐性の反証には全くならない。 どんなに大量の白いスワンを集めて来ても、それが「この世のスワンの全てが白い」ことの論理証明にはならないのである。 松沢哲郎らによる説明など、「取り繕い」以上の意味は存在しないのである。
にも関わらず進化生物学者に人間性や倫理の答を求めるというのは、ほとんど痴呆としか言いようがない。
番組タイトルだけ「なぜ戦争が起こるのか」だとか、「人間とは何だ」といった、さも人間性や倫理について何かの考えがあるかのように装っておけば、バカな大衆は何かを理解したかのように錯覚させることは簡単であろうが。 それらはむしろ意識撹乱や論理撹乱による思考停止に陥れているだけのペテンに過ぎない。
人間性や倫理について言及するのであれば、危険学や失敗学に基づいた論理的原因究明や再発防止策の追求手法を用いるべきであり。 JR福知山線尼崎脱線事故原因究明では被害者遺族によって、こうした手法が導入されたが。彼らのように本気で再発防止を求める意志がなければ、大半のふやけた大衆マスコミは司法刑罰判決を短絡的に「解決」だと錯覚して満足し、それ以上何も考えることはないのである。
倫理というのは、特殊な技術者だけに要求されるものではなく。街を自転車で走る時にも、歩きながらスマホをいじる時(?)にも必要なものであり。人間社会の中においては基本的に全員に必要な素養なのである。そうでなければ精神病患者と違いはかなろう。
精神疾患患者がどのような犯罪を犯しても、それは「責任能力」がないことになるのであって。意図的犯罪者というのは本来責任能力であるはずの、自律的な社会的責任判断選択能力が欠如しているからなのであり。自律的に社会安全性や持続可能性を求めようとしない時点で既に軽度精神疾患であり、精神病質もスペクトルに過ぎず。絶対的に精神的健康な者など存在しないのである。
ヒトは先天的に、人間としては出来損ないなのであって。その出来損ないがどの部分であるのかを認識し、間違った行動を採らないよう目的意識的に行動選択するという「自律」の基となる本質的意識(論理検証性)こそが必要不可欠なのである。
京都大学の学長であれば、大半のバカな大衆やマスコミはペテンであろうと嘘であろうと鵜呑みにするであろう。だが、そうした盲目性こそがオカルト洗脳的暴走の根源的原因でもある。
カルト宗教の幹部達による毒ガステロなども、教祖という権威を鵜呑みにした盲目性が最も根源的原因であり。ナチズムであろうとイスラム過激思想であろうと同じことである。
「自分は全て見えている。」という錯覚があるからこそ、見えていない可能性を疑うことを忘れ、自信たっぷりに何も考えなくなり、ヘラヘラ他人を嘲(あざけ)笑うのである。 笑っている自分の愚かさが見えていないから他人を笑えるのであって、本当に「おかしい」のは自分の頭の方だということは認識してはいないのである。
「自分だけは絶対に大丈夫」だと盲目的に信じておけば、気分的には安心であろう。
安心とは何か。それは先天的にヒトの脳に組み込まれた動物的行動バイアスの、最も基本的なシステムである。
麻薬中毒患者は麻薬こそが安心であり、バカにとってはバカでいることこそが安心なのである。
脳というのはバカに陥るように出来ているということでもある。
だからバカが絶えない。
Ende;