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ペテン

2020年11月18日 00時55分08秒 | 意識論関連
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」においては 「子供じみた好奇心=理性」という決めつけをすることによって理性を批判しているのだが

子供じみた好奇心というのは 科学や哲学の動機(きっかけ)にはなっても それだけでは論理的根拠を伴う科学的客観性になるわけではない

ただの好奇心による「答え」の追求だけでは科学として成立することはなく オカルトだろうがファンタジー妄想だろうが主観的気分が満足したことで盲目的に信じ込んでしまったのでは科学を簡単に逸脱する

単なる子供じみた好奇心というのは 欲望ではあっても理性ではない



一方で 大脳辺縁系を損傷した人に選択を求めた場合に 「わからない」としか答えないことを あたかも「子供じみた好奇心と同じだ」などと称して理性批判にこじつけている「科学哲学者」もいる

名前は忘れたが東大哲学科の教授だった

大脳辺縁系を損傷した人は 決して子供ように「なぜ?」を繰り返して「答え」を追求したりはせず あくまで他人から選択を求められた場合に「わからない」としか答えないのであって これは好奇心とは関係がない

大脳辺縁系を損傷している人というのは 理性以外がほとんど働かない状態であるということができることから これは純粋理性状態と見て良いだろう

純粋理性状態の人は別に子供じみた「答え」の追求などすることはなく あくまで他人から選択を求められた場合に「わからない」としとしか答えないだけであり カントの純粋理性批判の論拠とは全く別のものである

にも関わらず 東大哲学科の教授は これを「同じだ」などと称してカントの純粋理性批判を正当化し 論理客観的検証性よりも主観の方が人間性を伴うかのように言い張っているのである

また繰り返しになるが カントの「純粋理性批判」の論証とは 悟性だの純粋統覚だの叡智界などといった実証不能の謎のファンタジー妄想でしかなく 論理的には何も立証しておらず そもそも「哲学」ですらない



「哲学」とは 本来「考える」ことを指すにも関わらず 東大哲学科の誰も「何も考えていない」のである

養老孟司の訳のわからぬ根拠のない「寝言」も マルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルだのリチャード:ドーキンスだの 挙げたらキリがないほど論理客観性を逸脱した訳のわからぬ妄想観念が放置されてきたのは 現状の哲学界が何も「考え」ていないデクノボウの集団に過ぎないからである

哲学が主観も扱うからといって 単に個人的な主観だけで普遍性のある客観的根拠もなしに真理を勝手に決めつけて良いわけではない

個人的な好き嫌いは 個人の内部においては事実ではあるが それは「主観的な事実」に過ぎず 他者との間に共通する普遍性の論証にはならない

ある人物が「障害者は社会の負担にしかならないから殺害すべきだ」と思っているからといっても それは主観的な思い込みに過ぎず 普遍性を伴った人間性や倫理に理する論証にはならない

それと同じで カントの純粋理性批判を主観的に正当化しても それが論理客観的な普遍性ある根拠に基づいた倫理や人間性の論証になるわけではない



哲学史を研究していた奴が文化功労賞を受賞したが 過去の歴史を「知って」いるだけでは「哲学(考えた)」ことにはならない

それなら哲学史の研究は哲学ではなく ただの歴史研究に過ぎない

科学の歴史においても かつては錬金術も科学だと思われていたが それは現在科学としては扱われることはない

ところが 哲学に関しては古典を絶対的なものだと盲信し 一切批判することなく実証不能の観念であっても鵜呑みにし 未だに「叡智界」などという何の応用性も立証できない話であっても哲学扱いしているのである

これはもはや学問の名を借りた詐欺ペテンである






Ende;
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