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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

悪あがき。

2013年05月02日 15時09分45秒 | 意識論関連
○悪あがき。

 ネズミの利他行動を断片的に抽出しても、ネズミが常に利他行動しか採らないことの論証には全くならない。

 ヒトの利他的行動を社会心理実験で抽出再現して断片的に立証しても、ヒトが絶対に詐欺をやらないことの論証にはならないのと同じである。

 特定の実験室環境での再現性だけを、あたかもその種の生物の普遍的行動習性であるかのように言い張るのは、現在の生物学系観念特有のペテンである。




 公平性というのは道徳観ではなく、単なる他者との利益比較に過ぎない。

 「公平性が保たれていないから社会的責任を負わない。」なんていう話に人間性が伴わないことからも、公平性というのは道徳性とは無関係なのである。

 共感さえすれば「人道的」などというのも嘘である。単に本能習性的に「淋しい。」とか「単独では不安。」という感情反応から他者を救出するだけなら、そこに「人道性」が介在する必要性はないからだ。

 振り込め詐欺師が仲間内で分け前を分け合うことが「人道性」の論証にならないのと全く同じである。

 断片的に「人道的」風味な行動習性を抽出しても、それが短絡的に人間性の論証には原理的にならない。

 気分的に優しい気持ちになったからイジメや虐待をしないというのは。あくまでその場限りの断片的行動結果に過ぎず、当人の本質的な主体的意志選択による行動の論証には全くならない。

 どんなに気分的に暴力的であろうと、自律的に自分の行動を抑制してはじめて「意志」であり「目的」行動となるのである。

 すなはち。ヒトの気分感情と、人間としての「心」は決して直結するようなものではないのである。

 社会危険性を内部告発して組織から排除され、生活が困窮して「気分が良い。」だけで済まされるものではない。ナチズムに反対してスイス山中で自決した哲学者ベンヤミンの気分感情も同様であろう。

 人間としての「心」とは、ヒトとしての気分感情と抗わなければならない状況というものもあり。短絡的に特定環境下での行動習性から立証可能なものではない。




 「群知能」というのは無意識がたらす結果的な機械学習に過ぎない。

 振り込め詐欺師が詐欺技術能力を学習する過程は、本質的な人間としての知能の論証にはならない。

 ヒトにしか出来ないような高度な犯罪を行えても、それは人間としての知能の論証になるわけがなかろう。

 動物的な行動学習による「結果」だけを取り上げても、それは意識的「目的」行動選択の論証には全くならない。

 動物的知能がどんなに「高度」でも、それは振り込め詐欺師の技術が「高度」なのと同じで、単なる程度問題に過ぎず。意識的な「目的」行動選択が介在しない限り、いかなる断片的能力の全ては人間としての本質的知能の論証にはならない。

 自律的、主体的な社会的責任判断選択を伴わないあらゆる特定能力は、本質的な人間としての知能の論証には原理的にならない。




 「ヒトは誰も見ていない隙に物を盗むと心得ている。」ことが、どうして「人間として」の知能の論証にされてしまうのであろうか。サルの行動知能から人間としての目的行動選択を立証することなど最初から構造原理的に不可能なのである。

 ヒトの無意識的行動の「結果」を、どんなに実験で検証しても。無意識の「結果」である以上、意識的「目的」行動についての検証には全くならない。

 無意識行動習性の検証から「人間とは何か。」を論証することは、構造原理的に不可能なのである。

 こういう不毛な立証ばかりに執着している生物学に、科学としての社会的価値など何処にもないのである。





 以上のような下らない話すら自発的には検証出来ない多くの生物学者達というのは、科学者としての素養が全く欠落していると言える。

 こんなバカ共を公金で雇う価値があるわけもなく、早々に組織を解体し再構築すべきなのである。

 「ヒト」についての研究をどんなに進めても、「ヒト」と「人間」との厳密な分別に基づいていない以上「人間」についての検証には絶対に到達することはない。

 現状の「ヒト」についての研究しかしていない生物学には、社会的存在価値は存在しないのである。

 どんなに「大衆世間的ウケ狙い。」にはなっても、である。




○社会学習と個体学習。

 振り込め詐欺師による詐欺能力向上であっても個体学習の一種であり、単なる個体学習傾向だけでは本質的な知能の論証には全くならない。

 そもそも断片的に「生存にとって有利。」な結果だけを抽出して来ても、それが恒久的に「生存にとって有利。」な結果をもたらす証明にすらならない。

 結果的に生存していた種であるからといって、必ずしも知能が優れていることの論証にもならないし、「正しい」とも言えない。

 ナチス政権やポルポト政権に迎合して生き残ったからといって知能が優れていることにはならないし、虐殺されたからといって知能が劣っている論証にもならない。

 結果的生存だけを絶対的正義として取り扱うことは科学的な論証ではなく、あくまでその場限りの結果に対する事後正当化の屁理屈によって気分的に満足しているだけの観念に過ぎない。





 TEDなんていうのも大衆迎合に過ぎない。「多数大衆に人気がある。」ことは、「科学的に論理的根拠がある。」ことの根拠にはならないのである。

 マイケル:サンデルの講義と同じで、頭を使ったような錯覚によって気分的に満足しているに過ぎない。

 「大衆人気取り。」のことを、一般的には「コミュニケーション能力。」と形容するが。それならペテン師占い師の類いや振り込め詐欺師は「コミュニケーション能力が高い。」と言うことになるのであろう。

 下らない。

 あまりに下らな過ぎて面倒臭くなってきたので終わる。



Ende;
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