進化生物学では長い間、「生存のために進化した。」といった言い回しが用いられてきましたが。生存そのものは結果であって目的ではなく、あくまで結果的に生き残ったものを「生物」と分類しているに過ぎず。生存自体を目的だと言うことは科学的ではないのです。
そもそも本能習性(行動や思考のバイアス)も含めて先天的性質を決定する遺伝子は、自分で変更や選択が出来るようなものではなくて、(生存や種の保存などの)目的のために進化「する」ことは構造原理的にできませんし。親の遺伝要素もランダムに遺伝するものであって、遺伝要素の「変化」は多様性を作ることはあっても特定の目的に適応するためだけに起こるわけではありません。
遺伝疾患などが発生するのも、こうした複雑系の結果でしかないからだと言えるでしょう。
進化生物学会は自分達がこのことに長い間気付かなかったという事実が広まることを恐れてフェードアウト的に「生物の目的は生存」を言わなくなってきているようです。 まあ、はぐらかしですね。
「ある特定の先天的な行動バイアスは何らかの目的のために存在する。」といった形式の、本能習性という結果に対する事後正当化的な「説明のための説明」は科学的には意味を為さないわけです。
以前は公然と虫の擬態なども「生存のために進化した。」なんて言ってましたけど、最近言わなくなったのもそのためです。擬態をちゃんと科学的に説明すれば、たまたま個体差の中から偶発的に見つかり難い個体が遺った結果ということになるのです。
こうした生物の先天的要素といったものには、目的が介在する余地が構造原理的に存在しないというのが理論的に正しい見方と言えるでしょう。
ところが、先天的な本能習性に対して何らかの理由説明をこじつけることで、気分的満足感のようなものが得られるというバイアスがヒトにはあるため。長い間進化生物学では結果と目的の区別を明確に出来なかった原因でもあります。
一種の「思考の罠」のようなものが先天的に存在するために、人の多くは固定観念から逃れることが出来ず、何となく「皆がそう言っているから。」的な多数派同調バイアスによって思考が制限されていることは誰でもあるんだと思います。
それは別に特定の人に限ったことではなくて、自分自身でも注意していないと危ないことでもあるので。逆にこれに触れないことの方が危険なのではないかと思います。その結果ヤンデル先生が機嫌を損ねて気分が悪くなったとしても、それは主観ですので何とも言いようがありません。科学的には意味がないからです。
ヘイトスピーチとかISIL、ナチズム、ポルポト、挙げるとキリがありませんが、これらの野蛮行為の原因を究明してゆくと、「気分が論理性を拒絶する性質」が脳にはあるために思考停止に陥り、結果的に行動だけが暴走するという事態に陥ると言えるのです。
ナチズムのような野蛮行為というのは特定の異常者が引き起こすものではなくて、むしろ「普通の人」の感覚こそが引き起こす惨劇であることはハンナ:アーレントも述べています。だからこそISILとかオウム真理教とか通り魔のような野蛮行為が現代社会でも簡単に起こるのでしょう。
こうした思考バイアスも含めて一般論としても「なぜそのような性質が存在するのか。」を進化生物学的な「説明」によって満足することは危険だと言えるのです。
先天的本能習性が存在することが、進化の過程において何らかの「原因」が存在するということは言えるんでしょうけれども、それらは全て結果でしかありませんので、主観的に面白いかどうかを判断基準にすると客観性が損なわれてしまいます。
危険性を持つ可能性を指摘することに「上から目線」もすったくれもありません、「危ないことはやめましょう。」と言っているだけなんですから。
それこそ自然界における野蛮な弱肉強食による淘汰に対して事後正当化のための「説明」をしてしまえば、特殊詐欺であっても「生存という目的のために騙す能力を身につけた。」なんて話も鵜呑みにしなければならなくなります。
生物学者の松沢哲郎らは生物進化の結果でしかない本能習性から倫理性を立証しようと試みていますが。たとえば彼らの研究結果からチンパンジーやボノボなどの猿の本能習性から倫理性が立証されたと述べたとしましょう。ではその研究結果からISILとか暴力団の構成員が特定環境下において、どのような行動習性が見られたらヒトの先天的倫理性を証明したと言えるでしょうか。それを証明したと言い張ったところでISILの野蛮行為に対して何の意味があると言えるでしょうか。それこそ単なる「お花畑」に過ぎないのです。
「ヒトという種の生物には先天的に倫理性や社会性が組み込まれている。」的な話をしておけば、大多数の人達の賛同を得ることも可能でしょう。実際松沢が「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などと述べたことに対して、それが論理的に不可能であることを全く検証せずマスコミは取り上げ賞賛しました。
無論、大多数の人達もそれに対して何の批判もしませんでした。
しかし重要なのはむしろ大多数の人達(普通の人)の中に潜む危険性であって。こうした進化生物学に対する無批判性というのは、いわば「ヒヤリ、ハッと」事象であると言えるのです。
ハインリッヒの法則に基づけば、一つの重大事象が起こる原因には、無数の小さな事象が隠れていると考える必要性があります。ですから私の言っていることは「嫌な小言」に聞こえるかも知れませんけれども、言わないわけにはいかない話ではあるのです。
犯罪も含めて、あらゆる「人災」の最も根源的な部分には、気分感情が行動と直結してしまっていることが原因であると言えます。私は別にヤンデル先生のご機嫌を損ねようとしているつもりはありませんが、ご機嫌取りのために言うべきことを言わないわけにはいかないことはご理解して頂きたい。
「臨床は科学ではない」とも言われるくらいですので、医学に関しては素人が口をはさむことは難しいとは思うのですが、自然科学の分野においては誰でも発言する権利はあるので、権威主義的に「素人だから黙れ」的に封じ込めるのは間違いだと思います。(ヤンデル先生の場合はご機嫌を損ねてもちゃんと議論してくれる点において権威主義的ではないとは思うのですが。所詮ツイッタランドでのやりとりですからご機嫌損ねてブロックされることを咎めるつもりもないです。)
そういえばNHKの「ドクターG」とか見ていると、研修医に対して指導医が説明を求めるような場面が時折見受けられますが、これは一般人の感覚からはちょっと乖離しているので、何か高圧的というか権威主義的に見えてしまっているだけかも知れないですね。だとすればそれは単なる私の主観的で勝手な思い込みに過ぎないでしょう。
科学的な検証から導き出される答えというものは、必ずしも気分的に満足感や納得感が得られるわけではありません。人生の中で刷り込み学習的に組み込まれた価値観に対して都合の悪い事実が出てくることもないとは言えないでしょう。
人は誰も自分の意思でこの世に産まれてきたわけでもありませんし、遺伝子を自分で選択していない上に、そうした遺伝子から作られた自分の脳の先天的バイアスすらも自分では選択出来ないわけです。
更に言うと自分が育った社会や環境から刷り込み学習的に植え付けられた価値観も、必ずしも自分自身の選択を介さないことは少なくありません。
ですから科学論理的な検証に基づいた選択可能性を保つためには主観的感想と客観的知見は意識的に切り離しておく必要性があるのです。それを怠ることで論理的根拠のない実証不能の観念を振り回してしまう危険性があるからです。
繰り返しになりますけど、こうした危険性というのは誰にでもある「普通」で「平均」的な一般論なので、別にヤンデル先生の間違いだけを糾弾しようというわけではありません。医学では普通で平均的な状態を「健康」とか「正常」と見なすんでしょうけれども、多数派であれば常に正しい結果が得られるわけではないことは認識しておいて欲しいのです。
ツイッター上で賛同者をたくさん集めてきても、それが科学的に正しいことの証明にはならないことは言うまでもないことだとは思いますが。
◇追記:っていう記事を書いたんだけど、おいらがヤンデル先生の言っていることを誤解していたみたいです。
申し訳ない。
◇さらに追記:誤解なのかと思ったのだけれど、よく精査してみたら取り繕いの可能性がありました。 他の記事で分析しております。
Ende;
そもそも本能習性(行動や思考のバイアス)も含めて先天的性質を決定する遺伝子は、自分で変更や選択が出来るようなものではなくて、(生存や種の保存などの)目的のために進化「する」ことは構造原理的にできませんし。親の遺伝要素もランダムに遺伝するものであって、遺伝要素の「変化」は多様性を作ることはあっても特定の目的に適応するためだけに起こるわけではありません。
遺伝疾患などが発生するのも、こうした複雑系の結果でしかないからだと言えるでしょう。
進化生物学会は自分達がこのことに長い間気付かなかったという事実が広まることを恐れてフェードアウト的に「生物の目的は生存」を言わなくなってきているようです。 まあ、はぐらかしですね。
「ある特定の先天的な行動バイアスは何らかの目的のために存在する。」といった形式の、本能習性という結果に対する事後正当化的な「説明のための説明」は科学的には意味を為さないわけです。
以前は公然と虫の擬態なども「生存のために進化した。」なんて言ってましたけど、最近言わなくなったのもそのためです。擬態をちゃんと科学的に説明すれば、たまたま個体差の中から偶発的に見つかり難い個体が遺った結果ということになるのです。
こうした生物の先天的要素といったものには、目的が介在する余地が構造原理的に存在しないというのが理論的に正しい見方と言えるでしょう。
ところが、先天的な本能習性に対して何らかの理由説明をこじつけることで、気分的満足感のようなものが得られるというバイアスがヒトにはあるため。長い間進化生物学では結果と目的の区別を明確に出来なかった原因でもあります。
一種の「思考の罠」のようなものが先天的に存在するために、人の多くは固定観念から逃れることが出来ず、何となく「皆がそう言っているから。」的な多数派同調バイアスによって思考が制限されていることは誰でもあるんだと思います。
それは別に特定の人に限ったことではなくて、自分自身でも注意していないと危ないことでもあるので。逆にこれに触れないことの方が危険なのではないかと思います。その結果ヤンデル先生が機嫌を損ねて気分が悪くなったとしても、それは主観ですので何とも言いようがありません。科学的には意味がないからです。
ヘイトスピーチとかISIL、ナチズム、ポルポト、挙げるとキリがありませんが、これらの野蛮行為の原因を究明してゆくと、「気分が論理性を拒絶する性質」が脳にはあるために思考停止に陥り、結果的に行動だけが暴走するという事態に陥ると言えるのです。
ナチズムのような野蛮行為というのは特定の異常者が引き起こすものではなくて、むしろ「普通の人」の感覚こそが引き起こす惨劇であることはハンナ:アーレントも述べています。だからこそISILとかオウム真理教とか通り魔のような野蛮行為が現代社会でも簡単に起こるのでしょう。
こうした思考バイアスも含めて一般論としても「なぜそのような性質が存在するのか。」を進化生物学的な「説明」によって満足することは危険だと言えるのです。
先天的本能習性が存在することが、進化の過程において何らかの「原因」が存在するということは言えるんでしょうけれども、それらは全て結果でしかありませんので、主観的に面白いかどうかを判断基準にすると客観性が損なわれてしまいます。
危険性を持つ可能性を指摘することに「上から目線」もすったくれもありません、「危ないことはやめましょう。」と言っているだけなんですから。
それこそ自然界における野蛮な弱肉強食による淘汰に対して事後正当化のための「説明」をしてしまえば、特殊詐欺であっても「生存という目的のために騙す能力を身につけた。」なんて話も鵜呑みにしなければならなくなります。
生物学者の松沢哲郎らは生物進化の結果でしかない本能習性から倫理性を立証しようと試みていますが。たとえば彼らの研究結果からチンパンジーやボノボなどの猿の本能習性から倫理性が立証されたと述べたとしましょう。ではその研究結果からISILとか暴力団の構成員が特定環境下において、どのような行動習性が見られたらヒトの先天的倫理性を証明したと言えるでしょうか。それを証明したと言い張ったところでISILの野蛮行為に対して何の意味があると言えるでしょうか。それこそ単なる「お花畑」に過ぎないのです。
「ヒトという種の生物には先天的に倫理性や社会性が組み込まれている。」的な話をしておけば、大多数の人達の賛同を得ることも可能でしょう。実際松沢が「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などと述べたことに対して、それが論理的に不可能であることを全く検証せずマスコミは取り上げ賞賛しました。
無論、大多数の人達もそれに対して何の批判もしませんでした。
しかし重要なのはむしろ大多数の人達(普通の人)の中に潜む危険性であって。こうした進化生物学に対する無批判性というのは、いわば「ヒヤリ、ハッと」事象であると言えるのです。
ハインリッヒの法則に基づけば、一つの重大事象が起こる原因には、無数の小さな事象が隠れていると考える必要性があります。ですから私の言っていることは「嫌な小言」に聞こえるかも知れませんけれども、言わないわけにはいかない話ではあるのです。
犯罪も含めて、あらゆる「人災」の最も根源的な部分には、気分感情が行動と直結してしまっていることが原因であると言えます。私は別にヤンデル先生のご機嫌を損ねようとしているつもりはありませんが、ご機嫌取りのために言うべきことを言わないわけにはいかないことはご理解して頂きたい。
「臨床は科学ではない」とも言われるくらいですので、医学に関しては素人が口をはさむことは難しいとは思うのですが、自然科学の分野においては誰でも発言する権利はあるので、権威主義的に「素人だから黙れ」的に封じ込めるのは間違いだと思います。(ヤンデル先生の場合はご機嫌を損ねてもちゃんと議論してくれる点において権威主義的ではないとは思うのですが。所詮ツイッタランドでのやりとりですからご機嫌損ねてブロックされることを咎めるつもりもないです。)
そういえばNHKの「ドクターG」とか見ていると、研修医に対して指導医が説明を求めるような場面が時折見受けられますが、これは一般人の感覚からはちょっと乖離しているので、何か高圧的というか権威主義的に見えてしまっているだけかも知れないですね。だとすればそれは単なる私の主観的で勝手な思い込みに過ぎないでしょう。
科学的な検証から導き出される答えというものは、必ずしも気分的に満足感や納得感が得られるわけではありません。人生の中で刷り込み学習的に組み込まれた価値観に対して都合の悪い事実が出てくることもないとは言えないでしょう。
人は誰も自分の意思でこの世に産まれてきたわけでもありませんし、遺伝子を自分で選択していない上に、そうした遺伝子から作られた自分の脳の先天的バイアスすらも自分では選択出来ないわけです。
更に言うと自分が育った社会や環境から刷り込み学習的に植え付けられた価値観も、必ずしも自分自身の選択を介さないことは少なくありません。
ですから科学論理的な検証に基づいた選択可能性を保つためには主観的感想と客観的知見は意識的に切り離しておく必要性があるのです。それを怠ることで論理的根拠のない実証不能の観念を振り回してしまう危険性があるからです。
繰り返しになりますけど、こうした危険性というのは誰にでもある「普通」で「平均」的な一般論なので、別にヤンデル先生の間違いだけを糾弾しようというわけではありません。医学では普通で平均的な状態を「健康」とか「正常」と見なすんでしょうけれども、多数派であれば常に正しい結果が得られるわけではないことは認識しておいて欲しいのです。
ツイッター上で賛同者をたくさん集めてきても、それが科学的に正しいことの証明にはならないことは言うまでもないことだとは思いますが。
◇追記:っていう記事を書いたんだけど、おいらがヤンデル先生の言っていることを誤解していたみたいです。
申し訳ない。
◇さらに追記:誤解なのかと思ったのだけれど、よく精査してみたら取り繕いの可能性がありました。 他の記事で分析しております。
Ende;