書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

phenotypic accommodation。

2012年02月05日 23時03分55秒 | 意識論関連
 環境要因による後天的形質変化というのも、結局は元々遺伝的に形質変化を生ずる要因ありきのものであり。遺伝要因の一つの後天的表現形に過ぎない。従って遺伝的要因と全く別物であるかのように論ずるのは根本的に間違いである。

 環境要因によって後天的変化が得ることが可能かどうか自体が遺伝的に決定しており。その変化自体が環境依存的であることからも、その変化には当人の「意図。」だの「戦略。」など全く働いていない論証でもある。

 頼むから誰か気付け。


 適応のための「戦略。」と生物学者達は言い張るが、遺伝的要因は「誰。」の意思も働いておらず。「誰。」も「戦略。」など立てていないのである。環境に適応出来るかどうか自体がそもそも遺伝的に決定しているのであり、どのような環境であれ、結局環境変化に対する限定的且つ環境依存的対応能力自体には「誰。」の意識的選択も介在する必要もなければ事実上介在していない。

 現在の生物学では起こったことの全てに意味があるとする、生存していた結果だけに着目して断片的に意味をこじつけており。結果的に生存できなかった圧倒的多数の個体種を無視した御都合主義に過ぎない。


 現在の生物学上においては生存という結果だけを絶対的正義とするが。この観念を振り回す限り、詐欺であろうが暴力であろうが、結果的に生存してさえいればどのような「戦略。」を採ろうとも正しいということになっているのである。

 単なる生物学上での生存だけであれば、個人の自律的な責任行動選択によって種の存続につながった場合においても、あたかも種の優位性であるかのように論じられてしまい、個人の自律的な責任意識自体は無視されてしまう。


 生物種としての「ヒト。」の結果だけを論じてしまえば、個人の自律であっても、あたかも種族全体の優位性の結果であるかのように論じられてしまうのである。

 詐欺や暴力があろうとも、結果的に生存してさえいれば生物学的には「生物として正しい。」ということになってしまうのである。

 生存に至るまでにおいて、どのような過程を経ていようとも、生存してさえいれば構わないのが生物学の正義である。こうした正義を振り回す限り生物学系の脳科学/認知科学/社会心理学において社会安全性など真面目に追及されることはない。

 脳科学/認知科学が効果もない脳トレだの特殊な特定能力といった大衆ウケの良さそうな話ばかりしているのは。そもそも社会安全性になど全く興味がないからである。

 従って現在の生物学が体制を維持する限り社会的には全く価値がない。

end;

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