犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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ミリンダ王のように問われる

2022年03月05日 | 椰子の実の中
[あらまし] 東大仏教青年会のオンライン講座で、
「チベット仏教入門」を受講しているよ。
先生は受講生にじゃんじゃん問いかけてくる。
「私というのはなんですか?どこに在るんですか?」
受講生が答える。「頭です。思考です。」「胸です。心です。」
「魂は存在しますか?死んだらどうなるんですか?」
などなど


「『ミリンダ王の問い』を読んでみましょう。
中公バックスの原始仏典の巻に入っています。」
インドの古典を読む講座でしばしば参照するので、
『世界の名著』シリーズの『バラモン教典 原始仏典』の巻は
持っているんだった。

問答形式は昔も今も分かりやすい。
Q&A。FAQ(frequently asked questions : よくある質問)ってことよね。
自分と同じような疑問を持った登場人物が質問してくれている。
それそれその質問、そこんとこ知りたかったのよ、
ってなことがちゃんと書いてある。

長老ナーガセーナに対して、ミリンダ王は
何が’ナーガセーナ’という名が指すものなのか、問う。

肌なのか毛なのか爪か歯か
肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、
大腸、小腸、胃、糞便、胆汁、粘液、膿汁、血液、
汗、脂肪、涙、漿液、唾液、鼻汁、滑液、小便、脳髄
よくもそこまで解剖できたもんだと思うくらい、
部分々々についていちいち
「それがナーガセーナですか?」と聞いていく。
めんどくさいやっちゃ。

「そうではありません、大王どの」と答えてくれるご親切なナーガセーナに
更に問い続ける。
「五つの組成要因のどれか、肉体が?感受が?知覚が?表象が?認識が?」
「そうではありません、大王どの」
「じゃあその総体が?」
「そうではありません」
「じゃあそれとは別に在るってこと?」
「そうではありません」
「じゃあなんなの?名前だけだとでも言うの?
存在しないとでも言うの?」

ミリンダ王でなくても、こうも「違う違う」言われていたら
イラっと来る。

ここで、ナーガセーナはミリンダ王に問い返す。
「大王どの、車に乗って来たでしょう?
その車とはなんですか?
轅(ながえ)が車ですか?
車軸が?車輪が?車室?車台?軛(くびき)、軛綱、鞭打ち棒?」
「違います、先生」
「じゃあその総体が?」
「違います」

ううむ。
ミリンダ王は一歩先を行っている。
私は、そういった部品の総体が車なんではないかと思った。

いや待てよ。
総体が揃っていても、車として働かなかったら車ではない気がする。
なんのために部品を集め、組み立てるかと言ったら、
乗って移動するためだ。
車としての機能が備わっていなかったら、車とは言えないのではないか。

いやしかし
ここで脳裏に、空き地に打ち捨てられている廃車が思い浮かぶ。
ああいったものを見た時にまず私は
「車」
だと思う。
そこに車としての「走る」機能は無いのにも関わらず、
「車」だと思うのだ。

どういうこっちゃ!?

「須山さんいらっしゃいますか」

考えが行き詰ったところでちょうど先生が当てやがった。
んもー
なんで先生はこっちの疑問を嗅ぎ付けるのか。

「では割れた壺はどうですか?壺と言えますか?」
「ええー。割れた壺は割れた壺ですー」
とアホな答え。
「須山さんの言った機能というのがまさに問題で、
割れた壺は壺なのか、というのがチベットの僧院に入って最初の問答なんです。」

そうか。
疑問に思って当然だったのだ。



壊れた車を車と見るか、車ではないと言うか。
私は車だと思ってきた。
その捉え方を転じるところが肝なんだろう。と思う。
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