犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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その物であること

2022年03月06日 | 椰子の実の中
[あらすじ] ある個人の存在とは何が規定しているのか。
つまり、私が私であるということは、どういうことなのか。
何が私なのか。頭か心臓か骨格か肉か内臓かそういった部分の総体なのか。
ミリンダ王の問いに対して、ナーガセーナは車の喩えで問い返す。

「チベットの僧院に入ると、最初の問答がまさにそれなんですね。
割れた甕は甕なのか。
もう水を入れることができない、それも甕と言えるのか。」
講師の先生は解説する。
「インドでは、甕の定義はこうです。
底が平たくて、腹部が丸くて、水を入れるもの。」

水を入れられなくなったら、それはもう甕とは言えない。
というのが、インド人の考え方なのか。



多摩丘陵の中をぶらぶら歩いていると、
空き地なんだか何かの建設予定地なんだか休耕地なんだかよく分からないような
藪の中に、廃車が置き去られていることが有る。
何年もうち棄てられ、錆びたり割れたりしている。
タイヤはぺしゃんこである。

そういうモノが目に入った時、私は
「あ、車だ」
と思う。

エンジンがかかるわけがない、乗れない、走らない、タイヤが回りはしない
そういうモノなのに、「車だ」と思うのだ。

私は機能を見ずに、形だけ見ているのか?



ある知人の部屋に、割れたグラスが放置してあった。
なんだこれは。捨てろよ。危ないし。
と言ったら、
「それは水を飲みたくない時に使うグラスだ。」
と言う。

彼は寺の息子だ。
どこかで「割れた甕」の問答を経験していたのかもしれない。



洒落た店の内装として、楽器が飾られていることが有る。
使えば鳴りそうな物のことが有る。
せっかく楽器として作られたのに、飾られるだけで奏でられないなんて、
残酷だと感じる。
もったいなくて仕方ない。

偉人の記念館などで展示されている楽器や道具についても
同様に思うことが有る。
せっかくの力を発揮できないまま古くなっていくのか。

この場合は機能に重きを置いて見ているわけだ。



以前書いたことだが、
「私個人」という認識は、この肉体が生み出しているものだと思う。
肉体というものに囚われているから、「私が私が」という気持ちが湧く。
死んだら肉体は終わる。
その時に、「私個人」ということからも解放される。
そうしたら、「私」も「あなた」も「あいつ」も「だれかさん」も無い。
なんの垣根も無い。
一つの全体に帰する。

鍼灸を通して、人の心身を見ていると、
体験的に、そういう事に辿り着く。



死んでしまったお祖父ちゃんの亡骸にすがって
「おじいちゃん!おじいちゃん!」と泣く孫っ子に向かって
「それは既におじいちゃんとしての機能を失っているのでおじいちゃんではないよ。」
と言うのはあんまりだ。
孫に対してでなくたって、故人と親しかった人に向かって同様の事を言ったら
神経を疑われる。



人は知りたいことしか知りたくない。
知りたいことは知りたい人だけが知り得て、それでいい。



「亡骸」は屍肉ではなく、故人そのものであったりする。
それは生きている人の思いでしかないが。

「飾りにされている楽器」が惜しくてならないのも、
音楽好きという生き方をしている今の私の感情でしかない。



「廃車」は「車」の種類の名前ではなく、
ゴミの一種の名前だ。

「割れたグラス」はグラスの一種ではなく、
不燃ごみの一つだ。
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