犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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上と下

2019年07月26日 | 椰子の実の中
[あらすじ] 同居母86歳パーキンソン病要介護2認知症状少々、
ショートステイの中で、他の人の愚痴や世間話を「ただ聞く」ことを知った。


サンスクリットの勉強をしていて、問題文に下のような文が出てきた。
今使っている『サンスクリット・トレーニング』のシリーズは、
出典を書いていないのが玉に傷だ。
インターネットで検索をして、どうにか、
あの偉大な叙事詩『マハーバーラタ』の一節のようだ、
というところまではつきとめた。

デーヴァナーガリー文字だと、こんな。

दुःखी दुःखाधिकान् पश्येत् सुखी पश्येत् सुखाधिकान् ।
आत्मानं हर्षशोकाभ्यां शत्रुभ्यामिव नार्पयेत् ॥

これを、アルファベットに写すと、こんな。

duḥkhī duḥkhādhikān paśyet sukhī paśyet sukhādhikān ।
ātmānaṃ harṣaśokābhyāṃ śatrubhyām iva nārpayet ॥

無理矢理カナにすると、こんな。

ドゥふきー ドゥふかーでぃカーン パしぇーと スきー パしぇーと スかーでぃカーン
アーとマーナむ ハるしゃしょーカーびゃーむ しゃとルびゃーミヴァ ナーるパイェーと

なんのこっちゃ。

不幸な人たちは、より不幸な人たちを見るべき。
幸せな人たちは、より幸せな人たちを見るべき。
喜びと悲しみという二つの敵みたいなもんに
自己を投げ出すべきではない。

自分がひどく不幸だと思っているかもしれないが、
さほどではないのだから、
悲しみに任せて落ち込んだりするなよアホクサ。
自分はとっても幸せだと思っているかもしれないが、
さほどではないのだから、
浮かれたりするなよアホクサ。
といった意味だろうか。



サンスクリットの叙事詩は、韻文になっている。

サンスクリットをここではデーヴァナーガリー文字で書いたが、
これは便宜上のことだ。
サンスクリットはもともと文字を持たない言語だからだ。

文字が先で音が後、なんていう言語は有るかどうか知らない。
言葉は声で発するものだから、音が先であろう。
とは言え、その後、記録や伝達のために、言語に添って文字も発達する。

日本語は長く文字を持たず、漢字が伝わって来てから
その音を利用して書き記す万葉仮名というやりくちを使った。

サンスクリットは口から口へと伝えられた。
憶えやすいように、韻文になっているのだ。
そして、ずいぶん時代が下ってから文字で書き記すことを取り入れた。
その際、デーヴァナーガリー文字に限らず、他の文字でも書いた。
「英語はアルファベット」というように一対一なのとは、違っている。

サンスクリットの韻は、音の数による。
日本語で、短歌は五七五七七だとか都都逸は七七七五だとかいった
韻を使うのと、似ていると言えるか。
英語や中国語の詩で句の終わりの母音などを合わせたりするのと、やりくちが違う。



とにかく、リズムの良い韻文であることによって憶えやすいのは良いが、
言葉の省略が多いので、意味が分かりにくいという面も有る。
格言がそれでいいのか。
サンスクリット初心者の私には、なんだかちょっと不安である。



上には上がいる。下には下がいる。
とは、よく言うことだ。

他人の不幸は蜜の味、なんて言う。
自分より不幸な人を見て自分はマシと思う、と言うと
なんだかイヤな感じがする。
ましてや、下には下がいるんだから差別すりゃいい、って意味のわけも無かろう。

しかし、自分が世の中で一番不幸、なんて思い違いをしているよりは
ずっといい。
自分から見える範囲の狭い世界の中で悲劇の主人公になり切るよりは、
広く世間を見て、他の人もしっかり苦労しているのだと知ったほうが
自分の助けになる。

また、自分の今の幸せに満足して努力を怠れば、すぐに怠りの報いが有るだろう。
幸せに浮かれれば、他の人の苦労に気付かず、ひとを踏みつけにするおそれが有る。



そんなような意味かな、と思う。
出典探しのお勉強はつづく。

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