同い年(五十代前半女性)のKさんが、股関節が痛い、と言う。
立ち姿を見ると、さもあらん、と思う。
おへその下、手の幅分くらいのところを、
内側に引くようにして、と伝える。
Kさんはヨーガの経験も有るので、
吐きながら引いて、引いたまま吸って、
と、呼吸も添える。
※
その後、一緒に歩いていたら、Gさんに会った。
毎朝起きる時に全身痛いけど、動いていればなんとかなる。
痛いのなんて、当たり前だよ。と言う。
Kさんは痛いことを気にし過ぎなので、まあ、
「痛いのなんて当たり前」とやり過ごして動く、
という心構えも良いかな、と思って、黙って聞いていた。
しかし、本当は、Gさんの痛みも無くせると思った。
※
後日Kさんに会ったら、
「もう、おへそを引くくらいのことじゃ済まされなくなってきたよ。」と言う。
どういうことだろう。人工股関節の手術でも勧められたのだろうか。
聞いてみると、そういうことではないようだ。
毎日痛くてたまらない、と言う。
今も痛いのか、と聞くと、今は痛くない、と言う。
仕事で重い物を持ったり、力仕事も有るので、痛むのだそうだ。
痛くない時間が有るのなら、まだまだどうとでもなる。
まず、そんな痛みは無くすことができるのだ、と知ることが大事だ。
※
ただ、力仕事の影響であるとか、姿勢が悪いせいであるとか、
そういった、身体的、物理的なことだけが痛みの原因とは限らない、
ということを理解する必要が有る。
医療と薬剤が発達し、国民総保険制度が完備し、消費社会になり、
物質的な思想が世を覆っている。
「痛み物質」の発見に至って、ますます痛みは物理的なものということに
なってしまっている。
もちろん、物理的な機序で起こる痛みは有る。
転べば痛いし、関節技をきめられれば痛い。
ただし、「毎日痛い」とか「あれをすると痛む」とか「動かなくても痛い」とか
「この時間に必ず痛む」とかいったものは、
脳みそが創り出している可能性が高い。
※
痛いってのは、一大事だ。
頭痛が有ったらお笑い番組を見たって楽しくなりきれないし、
腹痛が有ったらプレゼンどころじゃないし、
肩こりが有りながら笑顔で接客するのはしんどい。
何よりも、痛いってのは、問題だ。
当面、一番の問題になる。
他にいくつかの問題を抱えていたとしても、
痛いってのは、最優先になりがちだ。
※
そこを、脳みそが突いてきている。
言いたいけれど言えないでいること、
我慢して生活していること、
子どもの頃に傷付いたこと、
たくさんのことを私たちは、心の奥底に押し込めて、見ないふりして暮らしている。
本当は、そのことに向き合って、一つ一つ解決していくと、
今の自分が楽になる事だったりする。
けれど、どれも思い出したくないくらい、イヤな事柄なのだ。
そんな時、痛みが役に立つ。
身体のどこかに痛みが有ったら、そんな心の問題なんか気にする余裕は無い。
という理由が立つ。
つまり、心の問題から目を背けるために、脳みそが痛みをでっち上げているのだ。
※
ヘルニアだとか、肩のコリだとか、神経が圧迫されているとか、
そういった物理的な原因が痛みを引き起こしている、
と信じられているが、そうでもない。
そういった、物理的な問題と痛みとは、まったく別なのである。
椎間板が飛び出ていても、肩がガッチガチにコッていても、神経の通りが悪くても、
痛み無く暮している人は、いくらでもいる。
反対に、そういった物理的な原因が無い場所に痛みを感じるようなケースも有る。
ここんとこがどえらく重要である。
物理的な問題と痛みは、別物なんである。
※
だから、股関節が痛いのは、
腸脛靭帯が強く張っているとか、そこに骨棘ができているとか、
そうなったのは歩き方がとか、重心をしっかりととか、
そういうことの集まりが原因とも見えるが、
まったくそうでない場合も多い。
「えーでも仕事すると痛ーい」とKさんは納得いかない様子だ。
「Gちゃんだって毎日痛いのは当たり前って言ってたしー」
うーむ。
※
私は鍼灸師として、ちょっとでも痛いとか苦しいとかの問題は
無くなって欲しいと願っている。
自分の力が足りなくて悶々とすることのほうが多いけれど。
この痛みは脳みそが作り出しているもので、実体が無いのだ、
という仕組みを知るだけで、痛みは消える。
知るだけで治るのだ。
こんないい話は信じたほうがお徳である。
こんな話をしただけで人の痛みが減るのであるならば、
私は話しまくるし、書きまくる。
※
もうちょっと違った視点からも書くので、
つづきはまた明日。
立ち姿を見ると、さもあらん、と思う。
おへその下、手の幅分くらいのところを、
内側に引くようにして、と伝える。
Kさんはヨーガの経験も有るので、
吐きながら引いて、引いたまま吸って、
と、呼吸も添える。
※
その後、一緒に歩いていたら、Gさんに会った。
毎朝起きる時に全身痛いけど、動いていればなんとかなる。
痛いのなんて、当たり前だよ。と言う。
Kさんは痛いことを気にし過ぎなので、まあ、
「痛いのなんて当たり前」とやり過ごして動く、
という心構えも良いかな、と思って、黙って聞いていた。
しかし、本当は、Gさんの痛みも無くせると思った。
※
後日Kさんに会ったら、
「もう、おへそを引くくらいのことじゃ済まされなくなってきたよ。」と言う。
どういうことだろう。人工股関節の手術でも勧められたのだろうか。
聞いてみると、そういうことではないようだ。
毎日痛くてたまらない、と言う。
今も痛いのか、と聞くと、今は痛くない、と言う。
仕事で重い物を持ったり、力仕事も有るので、痛むのだそうだ。
痛くない時間が有るのなら、まだまだどうとでもなる。
まず、そんな痛みは無くすことができるのだ、と知ることが大事だ。
※
ただ、力仕事の影響であるとか、姿勢が悪いせいであるとか、
そういった、身体的、物理的なことだけが痛みの原因とは限らない、
ということを理解する必要が有る。
医療と薬剤が発達し、国民総保険制度が完備し、消費社会になり、
物質的な思想が世を覆っている。
「痛み物質」の発見に至って、ますます痛みは物理的なものということに
なってしまっている。
もちろん、物理的な機序で起こる痛みは有る。
転べば痛いし、関節技をきめられれば痛い。
ただし、「毎日痛い」とか「あれをすると痛む」とか「動かなくても痛い」とか
「この時間に必ず痛む」とかいったものは、
脳みそが創り出している可能性が高い。
※
痛いってのは、一大事だ。
頭痛が有ったらお笑い番組を見たって楽しくなりきれないし、
腹痛が有ったらプレゼンどころじゃないし、
肩こりが有りながら笑顔で接客するのはしんどい。
何よりも、痛いってのは、問題だ。
当面、一番の問題になる。
他にいくつかの問題を抱えていたとしても、
痛いってのは、最優先になりがちだ。
※
そこを、脳みそが突いてきている。
言いたいけれど言えないでいること、
我慢して生活していること、
子どもの頃に傷付いたこと、
たくさんのことを私たちは、心の奥底に押し込めて、見ないふりして暮らしている。
本当は、そのことに向き合って、一つ一つ解決していくと、
今の自分が楽になる事だったりする。
けれど、どれも思い出したくないくらい、イヤな事柄なのだ。
そんな時、痛みが役に立つ。
身体のどこかに痛みが有ったら、そんな心の問題なんか気にする余裕は無い。
という理由が立つ。
つまり、心の問題から目を背けるために、脳みそが痛みをでっち上げているのだ。
※
ヘルニアだとか、肩のコリだとか、神経が圧迫されているとか、
そういった物理的な原因が痛みを引き起こしている、
と信じられているが、そうでもない。
そういった、物理的な問題と痛みとは、まったく別なのである。
椎間板が飛び出ていても、肩がガッチガチにコッていても、神経の通りが悪くても、
痛み無く暮している人は、いくらでもいる。
反対に、そういった物理的な原因が無い場所に痛みを感じるようなケースも有る。
ここんとこがどえらく重要である。
物理的な問題と痛みは、別物なんである。
※
だから、股関節が痛いのは、
腸脛靭帯が強く張っているとか、そこに骨棘ができているとか、
そうなったのは歩き方がとか、重心をしっかりととか、
そういうことの集まりが原因とも見えるが、
まったくそうでない場合も多い。
「えーでも仕事すると痛ーい」とKさんは納得いかない様子だ。
「Gちゃんだって毎日痛いのは当たり前って言ってたしー」
うーむ。
※
私は鍼灸師として、ちょっとでも痛いとか苦しいとかの問題は
無くなって欲しいと願っている。
自分の力が足りなくて悶々とすることのほうが多いけれど。
この痛みは脳みそが作り出しているもので、実体が無いのだ、
という仕組みを知るだけで、痛みは消える。
知るだけで治るのだ。
こんないい話は信じたほうがお徳である。
こんな話をしただけで人の痛みが減るのであるならば、
私は話しまくるし、書きまくる。
※
もうちょっと違った視点からも書くので、
つづきはまた明日。
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